第4話 奥行きの侵蝕
空気が、何かを誤魔化すように、ゆっくりと元に戻っていった。
いや、正確には──“戻された”。
青年が、いなかったことにされた瞬間から、
この部屋は、まるではじめから彼が存在していなかったかのような沈黙に包まれている。
「……誰だったっけ?」
誰かが、そう呟いた。
ふざけているのではない。
記憶が薄い。輪郭が曖昧。
さっき、ここにいたはずの“あの彼”の名前すら、誰も思い出せない。
ただ、胸のどこかが疼く。
何かが間違っている。
でも、その間違いを指摘する言葉すら、今の私たちには持てない。
私は、椅子に座ったまま拳を握った。
断章は、記憶を削る。
存在すら奪う。
そして──その傷痕に気づける者だけに、“次の断章”が牙を剥く。
箱が、音もなく揺れた。
ガタン、とわずかに跳ねた紙片の箱に、
全員の視線が一斉に吸い寄せられた。
誰もが固まり、息を止める。
止まっていた“地獄のルーレット”が、
また、静かに回り始めた。
今度は、名指しだった。
抽選ではない。
断章が、“次に語るべき者”を見極めたような、確信のある動きだった。
「……美々川 凪(みみかわ なぎ)」
名前が読まれた。
まるで誰かの耳元で囁くような声で。
少女が、椅子を軋ませて立ち上がった。
長い黒髪。
白いパーカー。
脚をかばうような動き。
彼女は、さっき消えた青年の言葉に、最も怯えていたひとりだった。
目を伏せたまま、箱の前に立つ。
空気がまた、凍りつく。
私は思わず立ち上がりかけた。
けれど、その動きを飲み込んだ。
今ここで動けば、断章がこっちに牙を向ける気がした。
凪は、震える手で箱に指を伸ばす。
引くのか?
語れるのか?
それとも、また──誰かがいなくなるのか。
凪の指先が、紙片に触れた。
まるで触れるだけで、指の皮膚が剥がれそうなほどの緊張が走る。
指先が小刻みに震えている。
紙をつまむまでに、十秒以上かかった。
引いた。
凪が、紙片を胸元に抱えるようにして視線を落とす。
口元が、かすかに動いた。
「……嘘、だよね……これ」
声は、吐息のように消えた。
だが、断章はその言葉を“語り”と認識していない。
凪の肩が、一度強張る。
次の瞬間──彼女の背後の空気が、ざわりと逆撫でされた。
私の背中に、氷の柱を突き立てられたような感覚が走る。
また来る。
断章が、また“誰か”を喰らおうとしている。
「語れない……語れるわけ、ないよ……!」
凪が震えながら叫ぶ。
でも、それは誰かに届く言葉じゃなかった。
彼女自身が“語るべきこと”を閉ざしている叫びだった。
断章が、音もなく凪の周囲の空気を染めていく。
“あの現象”がまた始まる。
でも──そのときだった。
「……やめろ!」
私の声が、静寂を裂いた。
誰かが息を呑む音がした。
凪がこちらを見た。
目が、真っ赤に濡れていた。
私は一歩、彼女の方へ足を踏み出す。
自分の中の何かが、焼けるように疼いていた。
「語れないなら……俺が語る!」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
ただ、助けたかった。
“もう一度、見ているだけ”ではいられなかった。
断章の空気が、ピタリと止まった。
断章の空気が、ピタリと止まった。
あの“歪み”が凪に向けられていたのに、
私が声を上げたことで、その刃先がわずかに揺れたのが見えた。
凪の瞳が、震えながらこちらを見つめている。
「語れないなら、俺が語る……それで、いいだろ……?」
誰に向けて言ったのか、自分でもわからなかった。
けれどその瞬間、部屋の空気が“ザリ”と鳴った。
断章が、反応した。
箱の中の紙片が一枚だけ浮かび上がる。
まるで、私の言葉に“興味を示した”かのように。
私は、紙片を見つめた。
さっき凪が引いたそれと、同じ──
いや、違う。これは、私に向けて選ばれたものだ。
私が代わって語る?
断章は、それを“条件クリア”と見なしてくれるのか?
紙片を手に取り、そっと開いた。
《語られなかった真実を、語れ》
凪が震える。
その場にしゃがみ込み、口を押えている。
足元がふらついている。
私は一歩、彼女の前に立った。
「……凪。
お前が語れないなら、俺が語る。
でも、それが本当に“助ける”ことになるのかどうかは……わからない」
そう言いながら、私は口を開いた。
「五年前、俺は駅のホームで──」
言葉が喉の奥で詰まった。
いや、これは違う。
これは、凪の断章だ。
俺の話じゃない。
たとえ“代理で語れた”としても、
その言葉は、彼女自身のものじゃなければ、意味を成さない。
「……すまん」
私は静かに、紙片を閉じた。
そのときだった。
凪が、しゃがみこんだまま、ぽつりと呟いた。
「海……」
私は目を見開いた。
「海の底に……沈めたの……私、あのとき、声をかける代わりに……」
断章の空気が、わずかに動いた。
凪の言葉が続く。
「鍵を……握ってたの……ずっと、言えなかった……
あの人が沈んだのは、……私が、沈めたから」
凪の指が震えていた。
けれど、その震えは、語ることを選んだ人間のものだった。
断章が、ピタリと動きを止めた。
そして、凪の紙片が静かに、燃えるように光を放つ。
断章が満たされた。
凪は、立ち上がれなかった。
でも、彼女の足元が消えることはなかった。
私は、ただその横に立ち尽くしていた。
そしてまた、箱の中から──新たな紙片が、ゆっくりと揺れた。
──その瞬間、燃え尽きたはずの紙片から、微かな「音」が滲み出した。
チリチリとしたノイズ。言葉になる前の声の欠片。
それは紙ではなく、磁気に刻まれたような響きだった。
『……まだ、返していない』
誰かがそう囁いた気がした。
気づいたとき、廃ビルの床はすでになく、足元には古びた学校の廊下が伸びていた。
空気は乾いているのに、耳の奥では水のような響きが広がっていく。
──断章は、紙だけでは終わらない。
声に、音に、記録そのものにまで、侵食していくのだ。
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