第3話 闇の邂逅

空気が、重い。

視線が刺さる。影が揺れる。

そして、誰もが私を見ていた。


「次は……君だよね?」


名も知らぬ女が、口元を歪めた。

静かに、まるで譲るように、紙片の箱を指差す。


箱の中身が、わずかに呼吸しているように見えた。

引け、と囁く。名を呼ばれたわけではない。

でも、わかってしまった。

――これが順番だ。


足が勝手に動いた。

箱の前に立つと、全員の目線が沈黙になった。


脇腹のあたりがじんわり汗ばむ。

誰も動いていないのに、

この場の“空気”だけが私の背中を押してくる。


箱の中――何かがうごめいている。

見えない手が、私を招いている。


――逃げられない。


手を伸ばす。触れる。指が滑り込む。


一枚、引いた。


紙片を引いた瞬間、

空気がパキッと割れたような錯覚があった。

ただの紙なのに、まるで刀のように重い。


《過去の罪を、明かせ》


視界の端が歪んだ。

その文字列だけが、燃えて見える。


罪。

よりによって、これか。


喉の奥に、あの“声”が蘇る。

細く、掠れていて、震えていた。

『……助けて……』

私は、それを、黙って──


「それ……ルール付きだな」

男の声が現実に引き戻した。

メガネの奥の目が、鋭くこちらを射抜く。


「語れれば、生き残る。語れなければ……“削られる”」


ざわめきが広がる。

“語る”って何を? どうやって? みんながそう思っている。

でも誰も口に出せない。

その瞬間、“語れない何か”を抱えてることがバレてしまうから。


「名前か、記憶か、存在そのものか……知らん」

「でも、“語ること”が、生きる条件らしいぜ」


冗談じゃない。

こんな場で、そんなことを?


私は震えた唇を噛み、視線を落とした。


語れない。語れば、崩れる。

私の中の“あの日”が、全てを持っていく。

そのことを、誰にも知られたくない。

それでも──


胸が痛い。

息が詰まる。

脳裏に焼き付いたあの光景が、まぶたの裏に這い上がる。


“ひとりにして、ごめん”

その一言すら、あのとき私は言えなかった。


もし今、語らなければ。

このまま、何も口にしなければ。

消えるのは、私自身じゃなくて、

“あの日の私が選んだ沈黙”そのものかもしれない。


「……ちょっと待ってくれ」

喉が震え、声にならない声が漏れる。


誰かが息をのんだ。

空気が張り詰める。

まるで全員が、私の次の言葉を“引き金”として待っていた。


これは断章じゃない。

――告白という名の、銃口だ。


私は、声を震わせながら吐き出した。


「……俺は、“見殺し”にしたんだ」


一瞬、誰かの呼吸が止まる音がした。

言葉にした瞬間、自分の中の何かが崩れた。

堰を切ったように、言葉が零れていく。


「たった一言、声をかければよかった。

あのとき、止めていれば……今も、生きてたかもしれない」


音もなく、誰かが椅子に身を沈めた。

うつむいたまま、動かない。

でも、私の声はその人の胸を打っていたはずだ。


「誰にも言えなかった。

……言えば、俺の全部が壊れると思ってた。

でも……ここで黙ったら、何もかも、意味がなくなる気がした」


紙片がふっと、白く燃えた。

誰かが息を呑む。

それは、断章が“条件を満たした”合図。


断章は、裁くだけじゃない。

試すんだ。“自分を許せるかどうか”を。


――そのとき。


「やめて……っ」


かすれた声が場を裂いた。

震える手を口元に当て、パーカーの青年が首を振っている。


「俺には……そんなの、言えない……っ」


彼の手が、ポケットの中のチケットを握りしめていた。

滲む汗。歯を食いしばったまま、ただ必死に耐えている。


青年の目が泳ぐ。

その視線はどこにも焦点を結ばず、

ただ“語らねばならない何か”から、必死に逃げていた。


「俺には……無理なんだ……」

唇の端が震える。

目の奥に、何かがにじむ。


「言葉にしたら、全部が壊れる。……それだけは……」


彼の声が次第にかすれていく。

まるで喉の奥から、何かが抜け落ちていくように。


紙片の箱が、音もなく彼の足元に転がった。


「やめろ……来るな……来るなよ……!」


断章が動いた。

彼の背後、空気の色が変わった。

まるで世界のノイズが、ひとり分だけ切り取られるような、異様な沈黙。


“語れなかった”代償が、始まった。


私の胸が痛んだ。

さっきまであんなに震えていたのに。

私は、どうして今、見ていることしかできないんだ。


彼が消える、その瞬間。

私はまた、見ているだけなのか──?


青年の背後の空気が、ひび割れるように揺れた。


何かが、そこから“めくれ”始めている。

現実の表皮が裂けるように、彼の輪郭がぼやけた。

皮膚の境目、声の余韻、記憶の匂い──

すべてが、少しずつ“この場”から剥がれていく。


「やだ……やだ……!」


彼は首を振りながら、誰にも届かない叫びを吐いた。

助けを求める手が伸びる。

でも、誰も動かない。


それは、“語らなかった”結果。

それが、ルール。

そして、断章は淡々と執行する。


足元が透け、膝が沈む。

肩が、髪が、空気に溶けていく。


「……っ!」


私は立ち上がれなかった。

ただ、見ていた。

“また失っている”と分かっていながら、指一本動かなかった。


誰かが、小さく呻いた。


隣の少女が、両手で耳を塞ぎ、目を閉じたまま震えていた。

でも、それでも消えゆく気配は止まらない。


断章は、容赦を知らない。

感情も、涙も、後悔も、すべては関係ない。


ただひとつ──“語ること”だけが、命の条件。


最後に彼の瞳がこちらを見た気がした。

なにかを伝えようとしていた。

けれどその声も、輪郭も、すでにこの世界には届かない。


そして、彼は“いなかったこと”になった。



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