第2話 逆向きの影

消失した椅子を囲むように、沈黙が伸びていく。

誰もが息をひそめ、言葉も音も、場から締め出されていた。


「今の……見たか……?」

ようやく漏れた男の声は、かすれていた。


返す者はいない。否、返せなかった。

あの紙片に書かれた一文が現実になった。

それが、この“ゲーム”の正体――いや、“断章”の力。


私は手の中のチケットを見つめる。

「No.07」――番号の意味も、意図も分からない。

けれど、確かに呼ばれた。

ここにいることに、偶然はなかった。


参加者たちは微動だにせず、ただ硬直している。

そんな中、一人の男がゆっくりと顔を上げた。

メガネの奥の目が、ひどく冷静に周囲を捉えている。


「これは……おそらく、模倣じゃない。本物だ」

低く響くその声が、空気をわずかに震わせた。


「俺は似た話を聞いたことがある。“言葉が現実になる儀式”……古い都市伝説の中に、確かにあった。だが、まさか本当に……」


視線が集まりかけた瞬間、背後から椅子がきしんだ。

パーカー姿の若者が、うつむいたままチケットを握りしめている。

その震える指先は、まるで何かを押しとどめているように見えた。


彼と目が合う。

一瞬だけ、かすかにうなずいた――共鳴するように。


彼のうなずきに、言葉ではない何かが伝わってきた。

同じだ、と。

――私もまた、何かを失って、ここにいる。


その瞬間、微かな風が室内を横切った。

誰も動いていないはずなのに、確かに“通った”。

見えないものが、次の紙片を引く者を探しているようだった。


メガネの男が目を伏せ、ぽつりと呟いた。

「次が、始まる」

メガネの男の言葉に、場の空気が再び硬直する。

誰もが“引く者”を探していた。だが箱は沈黙したまま、ただそこにある。


「ふざけるな……」

一人の男が立ち上がった。中年、スーツ姿、目の下には深いクマ。

「こんなもん茶番だ! 誰が信じるか……!」


その瞬間、彼の背後の空間が歪んだ。

光ではない、影でもない、“逆向きのもの”が蠢いていた。

壁に映るはずのない黒い輪郭が、男の背にまとわりつき、ゆっくりと沈み込んでいく。


「な、何だ……!? やめろっ……!」


彼の叫びに誰も応えない。

声を出せば、自分が次に狙われる。

全員がそれを理解していた。いや、感じてしまっていた。


男の体が傾ぎ、口から何かを吐き出しながら崩れ落ちる。

椅子に倒れ込んだまま、彼は動かなくなった。

だが――消えてはいなかった。

異様なのは、その“気配”だった。


「消え……てない?」

誰かが呟いた。


「違う、あれは……断章に“選ばれた”だけだ」

メガネの男が再び口を開く。

「順番が来た。つまり……次に“引く”のは彼だ」


皆の視線が男に集中する。

動かない。だが、紙片の束が彼の前に滑るように移動していた。


紙片が、男の呼吸に合わせるように微かに揺れる。

引け、ということか。


ぞっとする。意識の奥にまで、影の気配が染みこんでくる。

私の手の中のチケットが、さっきより熱を持っていた。

何かが近づいてくる――順番が、巡ってくる。


男は椅子に沈んだまま、紙片をじっと見つめていた。

手は震えていたが、その震えがやがて止まる。

彼はゆっくりと紙片を取った。一枚だけ、迷わずに。


沈黙の中、紙片が開かれる。


《沈黙を破った者は、名を失う》


誰かが小さく息を呑んだ。

何の意味だ? 誰がどうなる?

そう思った瞬間、男が声を上げた。


「ふざけ──」


その言葉が終わる前に、空気が歪んだ。

男の口元から、黒いもやのようなものが噴き出す。

まるで言葉そのものが削ぎ取られていくかのように。


「……っ……っ、っ……」


声にならない音を何度も繰り返す。

男は叫んでいる。だが、何も出てこない。

音が、名前が、彼の中から消え去っていた。


誰かが紙片を見直す。

《沈黙を破った者は、名を失う》

それはただの文ではない。絶対の現実。


彼は言葉を失った。名前も。存在の輪郭までも。


やがて男は、虚ろな目のまま椅子を立ち、ふらつきながら壁際へ移動していった。

その姿に、もう“その人らしさ”はなかった。

ただの抜け殻のようだった。


「……もう、戻れないんだね」

小さな声が聞こえた。振り返ると、あのパーカーの青年だった。

彼は自分のチケットを見つめながら、かすかに唇を噛んでいた。


「断章は、奪うだけじゃない。……削るんだ」


目が合う。彼の視線には、もう怯えではなく、何かを知っている者の光があった。

私はそのまま、紙片の箱を見つめた。

次に引くのは、たぶん──私だ。


共鳴者の青年が、誰にも聞こえない声でつぶやいた。


「この世界には……“二重の断章”があるらしい」


私は思わず彼を見た。

彼は気づいたように、わずかに笑って肩をすくめる。


「俺も詳しくは知らない。ただ、見たことがある。“二度、引かされた人間”の末路を」


言葉の意味はわからなかった。

けれど、その瞳だけが本気だった。


――もし、それが本当なら。

私たちは、まだほんの序章にすぎない。

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