闇の断章

相田 翔

第1話 次は、あなたの番

気がつくと、視界が真っ暗だった。

音も匂いもなく、ただ湿った空気と、何かに見つめられているような気配だけが漂っている。


「ようこそ、“裏”へ」


どこからともなく声が響く。耳元でも頭の中でもない。直接、意識の奥に滑り込んでくる。


「ここは、選ばれた者しか来られない場所。おめでとう、あなたは――当選者だ」


自分の名前すら思い出せないまま、私はその声に導かれるように歩き出した。暗闇のはずなのに、地面の感触が確かに足裏に伝わる。不安よりも、抗えない吸引力のようなものに突き動かされていた。


やがて、ぼんやりと光が差す。出口だと思った。

だが現れたのは、円形に囲まれた舞台のような空間だった。中央には黒い椅子が一脚、ぽつりと置かれている。そこに“誰か”が座っていた。


「次は、あなたの番だよ」


声と同時に、その“誰か”が顔を上げる。だが輪郭は歪んで見えず、ただ笑っていた。私を見据えて、確かに笑っていた。


その瞬間、足元が崩れ、底の見えない暗闇へと落ちていった。叫ぼうとしたが声は出ない。


――目を覚ますと、白い天井。病室だった。消毒液の匂いが鼻を刺す。

夢? そう思ったが、手元に握られた紙片が全てを否定した。


《闇の断章 ─ 参加券 No.07》


裏には、日付と場所。今日の夜を示している。偶然ではない。呼ばれたのだ。


夜、私は指定された廃ビルへ向かった。入り口の前に数人の姿。皆、同じようにチケットを手にしている。目を合わせる者は誰もいない。互いに余計な言葉を発すれば、何かを失うと本能が告げていた。


「参加者、揃いましたね」


昼間と同じ声が響く。姿はやはり見えない。

「これから“闇のゲーム”を始めます。ルールは簡単。最後まで消えなかった者が勝者です」


誰かが小さく息を呑んだ。


「あなたたちは、“断章”の中にいます。これは物語であり、現実です。忘れないで――死ぬこともある」


ザリ…と乾いた音が鳴った。照明が点いたとき、参加者の一人が姿を消していた。


沈黙が場を支配する。叫ぶ者はいない。ただ、恐怖だけが静かに染み渡っていく。


「次は――あなたの番」


その声だけが、確かにそこに響いていた。


参加者たちの視線が交わらないまま、時間だけが流れていく。

廃ビルの床は冷たく、天井から垂れる蛍光灯が不規則に明滅していた。

不安と緊張が、言葉を奪う。


「選ばれた者には、選ばれた理由がある」


声は再び響いた。誰のものかはわからない。だが、その響きには抗えない力がある。

ただ一人消えたという事実が、皆の体を縛りつけていた。


私は思う。なぜ自分が選ばれたのか。

胸の奥で、何かが疼いている。忘れてはならないものがあるような、そんな感覚。


だが思い出せない。ただ、チケットに刻まれた番号だけが現実を保証していた。


廃ビルの奥へと進む。

声に導かれるまま、参加者たちは一列になって歩いていった。誰も口を開かない。足音だけが、がらんどうの廊下に反響している。


やがて、広いホールに出た。壁はコンクリートのままで、割れた窓から夜風が吹き込む。そこに円形の机が置かれ、七つの椅子が並んでいた。


「お座りください」


促されるままに席につく。机の中央には黒い箱。蓋は閉ざされ、中は見えない。


「この中には、あなた方の物語を裂く“断章”が入っています。引き当てた瞬間から、それは現実になるでしょう」


息を呑む気配が、すぐ隣から伝わった。だが誰も動こうとしない。


「ならば、私が示しましょう」


声がそう告げた瞬間、黒い箱の蓋が自動的に開いた。中には薄い紙片が数枚入っている。ひらひらと舞う一枚が、私の前に落ちた。


拾い上げると、そこには一文だけが印字されていた。


《最初に消えるのは、隣に座る者》


心臓が凍りついた。無意識に隣を見る。だがその視線を受けた相手もまた、怯えた目でこちらを見返していた。


「やめろ……そんな馬鹿な」


誰かの震える声が響いた。次の瞬間、蛍光灯が一斉に点滅し、耳を裂くようなノイズが空間を満たす。


――光が戻ったとき、隣に座っていた人物の姿は消えていた。


椅子は空のまま。机の上に残されたチケットだけが、確かにそこにあった。


「ご覧いただけましたね」


あの声が淡々と続ける。

「これが“断章”の力。ここに記されたものは抗えず、必ず現実となります」


恐怖で体が硬直する。だが逃げ出そうという考えは浮かばなかった。扉が閉ざされ、外界から切り離されているのを、誰もが直感していたからだ。


「次に引くのは……あなたです」


声が私を指名する。

震える手で、再び箱の中を覗き込む。残りの紙片は、五枚。


ゆっくりと一枚を取り出す。


《逃げようとした者は、二度と見つからない》


背後で椅子が倒れる音がした。別の参加者が立ち上がり、出口へ駆け出す。

だが、暗闇が一瞬にして彼を呑み込み、その姿を消し去った。残されたのは、やはり一枚のチケット。


静寂。誰もが息を潜めている。


――これはゲームではない。

確かに“物語”が現実を侵食している。


「断章は選ぶ。あなたたちを試し、削り取り、最後に一人だけを残す」


声は淡々と続く。

「そして、残された者こそが――真実へ至る鍵を得るのです」


私の手の中の紙片が、不気味に震えていた。

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