第7話 特別篇「喫茶 三十分」

 店のガラスは磨かれていて、外の光が薄く重なる。

 開店直後の空気はまだ静かで、砂糖壺のふたがカチと鳴った。

 レジ横のスタンプ、ひとつトン。店員の癖だろう、音は小さく、一定だ。


 先に入ったのは蒼真だった。21。

 席を選ぶ。出入口が見える壁側、角がまっすぐな二人掛けを二つ。

 腕時計のベルト穴をひとつ締め直し、コースターの角をテーブルの端に合わせる。

 開始という字はどこにもないが、所作がそれを代わりにした。


 すぐあとに光。18。

 名札はもうない。代わりに学生証。カードの端が少し丸い。

 椅子の背に触れない練習は、身体に残っている。座る前に靴ひもを見て、結び直す。輪は左右で同じ。


 最後に里沙が入った。

 ドアの鈴は鳴らない種類だった。

 エプロンではなく、薄いグレーのコート。袋の持ち手を右手だけで握る癖は変わっていない。

 立ち止まらず、決めた席へ歩く。二番目に短い導線。

 「いらっしゃいませ」

 店員の声は角が立たない。

 「ホットを三つ。砂糖は別で」

 蒼真が短く言う。里沙はうなずくだけ。


     ◇


 テーブルの上に紙が一枚。

 同意事項(任意・単回)。

 ——だれ:里沙/蒼真/光

 ——いつ:本日 13:00–13:30

 ——なに:近況のみ/撮影なし/連絡先 提示のみ/継続の約束はしない

 スタンプはトンと一度。コピーは店に残らない。紙の角はそろっている。


 最初の湯気が来る。

 炊きたての匂いに似た温度が、里沙の呼吸の浅さを一瞬呼び戻す。

 止まる→水→呼吸。吸って4、止めて4、吐いて8。

 視線はカップの縁。言葉はまだ使わない。

 光は、絵札を持っていない指でコースターを少しだけ回す。角を合わせる。

 蒼真は、砂糖の包みの両端を整え、テーブルの右上へ寄せる。国語は左、算数は右上——昔の置き方が、思い出のように指を動かす。


「最初に、三つだけ」

 蒼真が三行カードを出す。字は細い。

 ——ここでだけ

 ——二文まで

 ——終わりを決めてから出る

 光はうなずき、里沙も短くうなずいた。

 終わりが先にある約束は、悲しみではない。線だ。線があると、息ができる。


     ◇


 里沙が、最初の二文を置く。

「朝は、清掃です。タイムカードの音は一回で足ります」

 声は小さい。角が立たない。


 次は光。

「ぼくは、走るのが速くなりました。壁の時計は、一回触って離します」

 言葉は増えていない。それでも文は長くなった。

 里沙の指が、カップの取っ手に届き、離れる。

「よく、できている」


 蒼真が、腕時計のガラスを親指で拭う。

「大学は、だれ/いつ/なにで書きました。行頭をそろえるだけで、読めると言われました」

 鈴木の声はここにいないのに、黒板の枠が頭の隅で光る。


 沈黙。

 沈黙を埋める音は要らない。

 砂糖壺のふたがカチと一度だけ鳴る。店員が棚を拭く布の音。

 やがて、里沙が二文を続ける。

「三行、書いています。——薄曇り。パン。牛乳」

 光が顔をあげる。

「知ってる」

 言ってから、自分で驚いた。なぜ知っているのか、知っていないのに。

 けれど、知っている気がする。

 紙に残るリズムは、誰の家にも届かなくても、どこかで生活の線と重なる。


     ◇


 コーヒーは冷めない速度で減っていく。

 蒼真は一口ごとにカップを同じ位置へ戻し、光はスプーンを一回だけ回して止める。

 里沙は、持ってきた薄茶の封筒をテーブルの中央に置いた。角を揃える。

 「空白です」

 面会申出書。五年前から、裏も表も、何度も裏返した紙。

 「処分の申請を出しました。——今日に合わせて」

 蒼真が封筒の角に視線を落とし、うなずく。

 終わりの置き方を、自分で決める。それは、ここまで来た証拠だ。


 光が、胸ポケットから紙切れを出した。

 名刺大。

 ——歯みがき

 ——水

 ——灯り

 絵札ではない。字だけ。

 「これは、もう使っていないです。一つだけにしました」

 どれ、と里沙は聞かない。聞かない練習を、長くしてきた。

 光が答える。

 「時計。一回、触って離す」

 里沙は目を閉じずに、瞬きをゆっくりする。

 「よし」

 それ以上の言葉は要らない。届く言葉は短い。


     ◇


 レシートが運ばれてくる。紙は薄く、角はまっすぐ。

 蒼真が財布から小さなメモを出す。三十の数字に丸がついている。

 終わりを決めてから出る。

 13:30。

 腕時計の針がそこへ向かう。

 光はその針を見ながら、胸の中のなぜを数える。

 なぜ二文まで。

 なぜ写真は撮らない。

 なぜ継続の約束をしない。

 答えは知っている。線を守るため。角を曲げないため。

 それでもなぜは残る。

 残ることを許されて、せつなさは痛みから重さに変わっていく。

 持てる重さに、変わっていく。


 里沙が、最後の二文を置く。

「ありがとうは、紙で出します。宛先は、窓口です」

 蒼真がうなずく。

「返事は、出しません。でも、読める体制でいます」

 光は言葉を選ぶ。

 「ぼくも、読める。——読まない日もある」

 里沙の口角が、ほんの少しだけ変わる。笑うではなく、角を整えるみたいに。

 「それで、いい」


     ◇


 13:29。

 砂糖壺のふたがカチと鳴り、店員のスタンプがトンと一度落ちる。

 音で締まる場所は、昔から変わらない。

 蒼真がコースターを半歩引く。

 光はスプーンを置き場に戻す。

 里沙は封筒の角を揃え、立ち上がる準備だけする。まだ立たない。

 「一つ、お願い」

 光が言った。

 「角を、揃えてください」

 里沙は封筒の角を合わせ、テーブルの右上で紙の端を指で押さえた。

 トンでもカチでもない、紙の小さな擦れ。

 それが合図になった。


 13:30。

 三人は同時に立った。

 接触なし。視線のよしだけで、承認は渡る。

 出入口へ向かう導線は、来たときと同じ、二番目に短い道。

 外の光は強くない。ちょうどいい。

 ドアの鈴はやはり鳴らない。

 外気の温度が、ひとりずつに分配される。


     ◇


 店の前の歩道で、三人は別方向を選んだ。

 約束はしない。終わりは、ここに置いた。

 それでも、歩幅は前に出る。

 光は、胸の中のなぜをひとつ撫でた。

 なぜまた会わないの。

 答えは要る日と、要らない日がある。今日は、要らない日。

 ポケットの中で、名刺大の紙が二つ折りにされる。

 ——時計。一回、触って離す。

 夜になったら、それだけで閉じる。

 閉じられる重さを、もう自分で持てる。


 里沙は、スタンプのトンが遠くに聞こえた気がして、呼吸4-4-8を一度だけ。

 「パン。牛乳。晴れ」

 心の内側で三行を並べる。

 誰宛てでもあり、誰宛てでもない。

 ありがとうは紙で出す。窓口へ。

 返事は要らない。読める体制だけ、どこかにあればいい。


 蒼真は腕時計の針を一目盛りだけ進め、新しい今日の始まる位置を確認した。

 行頭をそろえる。

 だれ/いつ/なに。

 ——ぼくは、

 ——きょう、

 ——喫茶店で終わりを置いた。


 角は、まっすぐ。

 音は、短い。

 紙は、少ない。

 それで、進める。

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