第6話 分岐の出口
朝の空気は薄く、A家の廊下は四角い光で区切られていた。
蒼真は棚のトレイから名刺大のカードを取り出す。7:10 起床/7:30 出発/午後 家裁・児相の説明。三行だけ。角は折れていない。
キッチンから炊飯器のふたが上がる音。湯気の匂いが角を曲がってくる。足が半歩止まり、器を一つ出しかけて、やめる。器は一度に一つ。二つ目は決めたときだけ。
玄関で靴ひもを結ぶ。左右の輪がそろうと、肩の力が少し抜けた。
A家の父がドアを開け、短く言う。
「今日の説明は三十分。必要な紙は向こうにある。——帰りに、分担表を作ろう」
「はい」
*
午後、児童相談所の会議室。机は四角く、椅子は八脚。壁の時計は秒針が進むだけで、音はしない。
テーブルの上に、透明のファイルが二つ。長期委託の決定通知と、きょうだい交流の運用。
担当者が短く説明する。
「兄の蒼真くんはA家、弟の光くんはB家。長期委託で進めます。面会は現状どおり。時間は第2・第4土曜 15:20–15:35。学校からの連絡は今までと同じ、学校→佐伯→双方里親」
スクールソーシャルワーカーの佐伯がうなずく。
「写真や書類の扱いも、紙で共有、SNS不可で。貼る場所は、各家庭でどこに貼るか決めた位置に」
A家の父が差し出したのは、白い紙一枚。家事の分担表(仮)。
「蒼真の分は、自分の持ち物の準備と片づけまで。夕食の配膳は大人の担当に戻す。役割の線を引く」
B家の母がうなずく。
「光の“寝る前三手順”は、歯みがき/水/灯りで固定。帰宅後は連絡帳→置き場→音読の順」
佐伯がまとめる。
「——やり方は“同じ”に見えるように。紙で合わせ、言葉は短く」
施設職員の春原——名札は「ハル」——が、面会予定票の角を指で押さえた。
「予定票は、月初に紙で配布。変更が出たら、学校→佐伯→双方里親。二人からのやり取りは、面会の場で」
時計の針は、まだ音を立てない。紙の角はそろっている。
*
学校の廊下は冷たく、上履きの底が低く響いた。
担任の鈴木は、机に二冊の連絡帳を置く。左が蒼真、右が光。
左の保護者欄に丸い印、右の欄に筆記のサイン。
印鑑のふたをカチと閉める。音は一度。いつもの位置に落ちた。
「今日の作文は、これからのこと。黒板の枠を使います」
だれ/いつ/なに。
鈴木は枠を描き、チョークを置いた。
「長くなくていい。読めるように、行頭をそろえるだけ」
蒼真はいつから書いた。「来月の、」
なにを書き足す。「分担表を作る。家のことは大人がやるところに戻す。」
だれを書いた。「ぼくは、」
光はだれから始める。「ぼくは、」
いつ。「来週の、」
なに。「寝る前の三つをお母さん(B家)と同じ順番にする。」
紙には短いことしか書かれていないが、短いことは嘘が混ざりにくい。
*
面会の日。施設の面会室。机の角が光り、椅子は四脚。
時計は15:19。
佐伯が面会記録の用紙を置き、開始欄に指先を乗せる。
15:20。小さくうなずく。「始めます」
蒼真は封筒から、宿題テンプレの最終版を取り出した。科目ごとの置き場所、提出順、名前を書く位置。印刷は四角で、線は細い。
「これで最後にしたい。国語はここ、算数は右上、図工は先に名前。——貼る場所は冷蔵庫の左」
B家の母が受け取り、角を確かめる。
「分かった。こっちも同じ向きで貼るね」
光が自分の連絡帳を開き、提出物クリップの位置を示した。
「ここ」
「うん。ここだと忘れない」
A家の父が舌打ちも溜息もしない声で言う。
「家事は大人。蒼真は自分のこと。——“おやすみ”の言い方は、二人の約束でいい」
光が小さく笑う。
「時計で言う」
「うん」
机の片側に、家事分担表の白い紙。もう片側に、宿題テンプレ。
佐伯は両方を学校→佐伯→双方里親のファイルに入れた。
「写真の扱いは変更なし。紙で共有、SNS不可」
ハルが面会記録に目を落とし、開始欄の横に小さく線を引く。
「次は第4土曜。同時刻」
時計の針が15:34に触れた。
「あと一分」佐伯が目だけで合図する。
光が訊く。「“おやすみ”、だれが言うの」
「それぞれの家で。この時刻に」
蒼真は腕時計のベルトを一つ締め、針の位置を目で覚えた。
「ここ」
15:35。面会記録の終了欄に時間が書かれ、インクが紙に沈む。
立ち上がる前に、蒼真は光の胸元を見た。名札はまっすぐ、靴ひもは結ばれている。
言葉は長くしない。
「行ってこい」
「行ってくる」
*
駅までの歩道。白線が等間隔で続く。信号が変わるたび、呼吸のリズムを合わせる。
A家の父が短く言う。
「分担表、帰ったら作る。三行でいい」
「はい」
A家に戻ると、テーブルの上に白紙が一枚、ペンが一本。
——自分の支度
——宿題・提出
——明日の準備
蒼真は自分の字で書き、角をそろえて冷蔵庫の横に貼った。
「ここでいい?」
「いい。目の高さ」
引き出しから封筒を出し、うしろ姿の写真を一枚だけ取り出す。光の背中。机。紙。薄い鉛筆の線。
封筒に戻す。封はしない。口を折る。
連絡帳を開き、保護者欄の印を目でなぞる。輪郭は一定だが、紙の下の木目で濃淡が違って見える。
息を吸って、吐く。
「おやすみなさ——」
言い直す。「おやすみなさい」
*
B家。
光は冷蔵庫の左に、宿題テンプレの最終版を貼った。マグネットの角が紙と重なり、位置が決まる。
連絡帳の棚に、置き方の見本写真。
壁の紙——歯みがき/水/灯り——を順番に指で触れる。
「“おやすみ”、だれが言うの」
「今夜は、ここ」B家の母が言う。
「うん」
灯りを消す前、光は机の上の鉛筆を一本だけ削った。削りかすの匂いは、紙の匂いと混じって弱くなる。
ベッドに入る。目を閉じる。
腕時計はない。壁の時計の針を思い浮かべる。
針が、約束の位置に来る。
「おやすみ」
声は小さく、枕に吸い込まれた。
*
同じころ、A家。
蒼真は腕時計の文字盤を胸に置き、針が約束の位置に触れるのを待った。
ここ。
「おやすみ」
言葉を投げず、置く。置いた場所が分かっていれば、探さなくていい。
遠くで、印鑑の音が思い出の中で一度だけ鳴った。トン。ふたがカチと閉まる。
同じ音は、明日も同じ場所に落ちるだろう。
*
翌朝。学校の昇降口。
鈴木は二冊の連絡帳に目を通し、保護者欄に印を押した。トン。
ふたがカチと閉まる。
「宿題、両方とも“置き場”が合ってた。貼る場所が決まっていると、忘れにくい」
「はい」蒼真は短く答え、光はうなずく。
鈴木は黒板の隅に小さな枠を描いた。
だれ/いつ/なに。
「今日は作文なし。——行頭をそろえるだけで、読みやすくなる」
言葉は短い。短い言葉は、覚えやすい。
*
午後、学校の事務室。
佐伯は封筒を二つ受け取り、一つは写真(印刷)、一つは面会記録の控え。
どちらも、角がまっすぐ。
ふたを閉め、クリップで止める。
そこへ、もう一つ封筒が届いた。薄茶色、差出人の欄には見慣れない管轄の印。
——関係機関連絡
佐伯は指で押さえて封を切り、文書の上半分だけを見た。
件名に短い行がある。
——受刑者関係情報の更新について
本文の途中に、日付が四角で囲まれていた。数字だけ。
佐伯はそれ以上読まず、封筒に戻す。
学校→佐伯→児相のファイルに入れる前に、付箋を一枚。
——必要な範囲にのみ共有。子の生活優先。
ペン先の音が一度だけ紙を叩いた。
事務室の窓の外、廊下の掲示板の角がわずかに浮いていた。
通りかかった作業着の男が、テープの端を持ち直して貼り直す。白い手袋はしていない。
貼り直すと、何も言わずに去った。
*
夕方、A家の冷蔵庫の横。
家事分担表と宿題テンプレが並んで貼られている。
B家の冷蔵庫にも、同じ向きの紙。
貼る場所が決まっていれば、探さなくていい。
行は上から順番に進む。
面会は決められた時刻に始まり、決められた時刻に終わる。
印はトン、ふたはカチ。
「行ってこい」と言えば、「行ってくる」と返る。
紙は机の上でそろい、生活は同じ手順で進む。
それでも、どこか遠くで、四角で囲まれた日付が静かに近づいている。
紙はまだ何も言わない。
貼られたまま、角をまっすぐにして、
その日を待っている。
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