第5話 写真の扱い
土曜の朝、A家の廊下は四角い光で区切られていた。
蒼真は棚のトレイから名刺大のカードを取り出す。9:00 宿題/10:30 駅へ/午後 B家のイベント。三行だけ。角は折れていない。
キッチンから炊飯器のふたが上がる音。湯気の匂いが角を曲がってくる。足が半歩止まり、器を一つ出しかけて、引っ込める。器は一度に一つ。二つ目は、決めたときだけ。
A家の父が封筒を渡した。
「学校から。写真撮影の同意書。今日のイベント、B家が写真を撮りたいって」
封筒の中に白い紙が一枚。——学校→SSW→双方里親で配布・回収、SNS掲載不可、紙で共有。
「サインは学校でまとめる。今は持っておいて」
「はい」
玄関で靴ひもを結ぶ。左右の輪がそろうと、肩の力が少し抜けた。
ドアの向こうの空気は薄く、時計の針は静かに進んでいる。9:00。宿題の時間。
*
同じころ、B家の台所には、透明のピッチャーと紙コップ。壁に歯みがき/水/灯りの紙。
光は連絡帳を開き、音読カードの場所を指で撫でた。B家の母がエプロンのポケットから細いペンを出す。
「サイン、ここ」
細い線が紙に吸い込まれ、端で静かに消える。
「ありがとう」光は言って、表紙を閉じる。
テーブルの上に黒いカメラ。B家の母がストラップを指にかけた。
「昼から、地域の会館でイベント。記録写真を撮るよ。学校と佐伯さんにも送る」
「うん」
「外で撮るのは、顔がはっきり写らない向きにする。中はうしろ姿」
「うん」
ピンポンが鳴る。スクールソーシャルワーカーの佐伯が立っていた。
「おはようございます。写真の同意書、回収の段取りだけ確認。——学校→私→双方里親。今日撮る分は、紙に印刷して学校に渡します。データのやりとりはなし」
「分かりました」
B家の母は短く頷き、カメラの電源を一度切ってまた入れた。音は小さく、誰も驚かない。
*
昼、地域会館。入口の掲示板には、印刷されたプログラム。角が少し持ち上がっている。通りかかった作業着の男がテープの端を押して、貼り直した。白い手袋はしていない。貼り直すと、すぐに去った。
ホールの中は明るく、机がいくつも並び、紙とペンと色鉛筆。
B家の母が背中からカメラを前にまわす。
「ここで一枚。後ろから」
光は机に座り、ペンを握る。紙に線を一本引く。
シャッター音は小さかった。カシャでもピピでもない、空気に沈む音。
佐伯が確認する。「顔、映ってません。OK」
B家の母はうなずき、カメラを下げる。
「印刷は二枚。学校用と、A家へ紙で共有」
「ありがとう」佐伯がメモに書く。二枚、学校経由。
会館の片隅で、匂いが変わる。別の部屋で炊飯器のふたが上がったのだろう。
光はペンを止め、鼻の先で空気を嗅いでから、また線を引いた。
「大丈夫?」
「大丈夫」
匂いは通り過ぎる。紙は残る。
*
午後、A家と合流する時間。駅前のベンチ。
蒼真はポケットのカードを出す。10:30 駅へはもう過ぎている。次は午後 B家のイベント。
B家の母が紙袋を持って来た。中には写真の見本。プリンターの紙は厚く、角がまっすぐ。
「今日の分、試し印刷。顔なし、うしろ姿。学校にも紙で提出する」
蒼真は一枚に目を落とした。光の背中が机に向かっている。手の形が見える。指が紙の端を押さえ、線を引いている。
「ありがとう」
短く言って、写真を封筒に戻した。封筒の口は折っておく。角が合うように。
「写真のルール、家でも決めたい」と蒼真。
「紙で共有、SNSに載せない。原本は学校へ。A家とB家の同じフォーマットで貼っておく」
佐伯が頷き、A家の父が短い紙を一枚出した。
「写真の扱いメモ。冷蔵庫に貼る。——学校→SSW→双方里親。紙で配布。SNS不可。配布は二枚」
行は三つ。短い。
「二枚は、学校と、もう一つ?」
「向こうへ渡す用」A家の父が言う。
「ありがとう」B家の母が受け取る。紙の角が重なり、音が小さく鳴った。
光が自分の連絡帳を出した。提出物クリップの位置はいつものところ。
蒼真は自分のほうの連絡帳に、小さな付箋を一枚。
「写真はここに入れて、学校に渡す」
「うん」
付箋は薄いが、持つと重さが指に移る。紙は軽いふりをしない。
*
会館の外のベンチで、全員が紙コップの水を持った。
B家の母がカメラを首から外し、膝の上に置く。
「家の中の写真は、どうする?」
佐伯が答える。「——家の記録として紙に印刷、学校には不要。個人の端末には保管しない。破棄する時は紙を切る」
A家の父が頷く。
「匂いや音が映り込むのは避けられないが、場所が分かるものは写さない。住所の紙、名札、郵便物。写ったら塗る」
B家の母はメモに書き足した。塗る。
「分かった。——それと、提出物の置き方、写真で共有してもいい?」
「いい」
蒼真は鞄から、置き方の見本を出した。国語は音読カード、算数は右上、図工は先に名前。
「この写真を撮って、A家の棚とB家の棚に貼る。同じ向き」
佐伯がまとめる。「——写真で“同じ”を作る。紙にして貼る。データで回さない」
短い行が、ひとつずつ増えていく。増えても、角は揃っている。
*
夕方、学校。
鈴木は職員室で、封筒を二つ受け取った。写真(印刷)。片方はイベントのうしろ姿、片方は提出物の置き方。
「ありがとう。学校→佐伯さん→双方で回します。データは受け取りません」
封筒の口を閉じ、保護者欄に印を押す。トン。
ふたがカチと閉まる。
「写真、良かったよ。うしろからでも、何をしているかが分かる」
「はい」蒼真は短く答え、光はうなずいた。
机の上に、二冊の連絡帳が並ぶ。片方は丸い印、片方は筆記のサイン。並べるだけで、違う家の温度が静かに見える。
鈴木は黒板の隅に、もう一つ小さな枠を書いた。
どこに貼る。
「写真は、どこに貼るかが大事。棚、冷蔵庫、連絡帳。貼る位置を決める。決めたら変えない」
「はい」
*
夜、A家。
蒼真は、もらった写真のコピーを冷蔵庫の脇に貼った。提出物の置き方。国語のカードは左、算数のプリントは右上。図工は先に名前。
マグネットの角が紙と重なり、位置が決まる。
A家の父が言う。
「貼る位置、この高さでいい?」
「はい。目の高さがいい」
蒼真は名刺大のカードに、短く書き足した。
——写真、冷蔵庫の左。
紙を棚のトレイに置き、角をそろえる。
机に戻ると、封筒からうしろ姿の写真を一枚だけ出した。光の背中。机。紙。薄い鉛筆の線。
見ているだけで、胸の奥の空気が少し動いた。
封筒に戻す。封をせず、口を折る。
連絡帳を開き、保護者欄の印を目でなぞる。輪郭は一定だが、紙の下の木目で濃淡が違って見える。
息を吸って、吐く。
「おやすみなさ——」
言い直す。「おやすみなさい」
声は小さく、部屋の角で折れて消えた。
*
夜、B家。
光は、印刷された家の中の写真を二枚、薄いファイルに入れた。棚の置き方と、寝る前の三つの絵の位置。
B家の母が確認する。
「家の写真は、家だけ。学校には出さない」
「うん」
壁の紙——歯みがき/水/灯り——を順番に指で触れる。
「“おやすみ”、だれが言うの」
「今夜は、ここ」
「うん」
灯りを消す前、光は机の上の提出物の置き方の写真を見た。右上、左、名前。
置く位置が分かると、体の中で何かが止まる。止まると、眠れる。
*
翌朝、昇降口。
鈴木は二冊の連絡帳を机に置き、保護者欄に目を通した。丸い印と、筆記のサイン。
印鑑のふたをカチと閉める。
「写真、受け取りました。学校→佐伯→双方で回ります。SNSには載せない。紙を残す」
「はい」
蒼真は短く答え、光はうなずいた。
机の上で、封筒が二つ重なった。角がぴたりと合っている。
教室の窓に朝の光が斜めに入り、壁の小さな枠が細く光る。
どこに貼る。
貼る場所が決まれば、探さなくていい。
写真は、紙の上で止まる。
紙は、机の上でそろう。
印はトン、ふたはカチ。
「行ってこい」と言えば、「行ってくる」と返る。
それで今日の最後の角は、まっすぐになる。
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