第4話 参観3分
朝の空気は薄く、A家の廊下は四角い光で区切られていた。
蒼真は棚のトレイから名刺大のカードを取り出す。7:10 起床/7:30 出発/放課後 参観。三行だけ。昨日の位置のまま、角が折れていない。
キッチンから炊飯器のふたが上がる音。湯気が廊下の角を曲がり、匂いが近づく。足が半歩、止まる。器を一つ出しかけて、やめる。器は一度に一つ。二つ目は決めたときだけ。
A家の父がスマホを見て、短く言った。
「急用が入った。今日の参観、代わりに——」
言葉が続く前に、玄関のチャイムが鳴った。
ドアを開けると、スクールソーシャルワーカーの佐伯が立っていた。
「朝にすみません。A家の仕事都合、把握しました。学校と施設で調整したので、参観の入室はハルさんに切り替えます。後方で3分だけ。記録は私が持ちます」
A家の父が頷く。「助かります」
佐伯は短い紙を渡した。参観時入室者変更届。署名欄は空白。
「学校で受け取り、担任が控えを持ちます。蒼真くん、気にせず、いつも通りで」
「はい」
玄関で靴ひもを結ぶ。左右の輪が揃ったら、肩の力が少し抜けた。
ドアが閉まる直前、湯気の匂いが背中に届く。足が半歩、また止まりそうになる。止まらないように、玄関の段差を早めに下りた。
*
学校の廊下は冷たく、上履きの底が低く響く。
担任の鈴木は、机に二冊の連絡帳を置いていた。左が蒼真、右が光。
左の保護者欄に丸い印、右の欄に筆記のサイン。
鈴木は両方に目を通し、印鑑のふたをカチと閉めた。音は一度。いつもの位置に落ちる。
「今日の参観は、各クラス 後方3分。入室は一名のみ。蒼真くんの分は、春原さん。光くんの分は、B家のお母さん」
「はい」
鈴木は黒板の隅に小さな枠を書いた。
だれ/いつ/なに。
「国語で短い作文を書きます。三つの枠を埋めるだけでいい。言葉が出にくい日は、枠を先に埋める」
光が小声で訊く。「どうして三つ?」
「順番を決めると、短い言葉でも届くから」
説明はそれだけ。黒板のチョーク粉が、日差しの中で薄く散った。
一時間目、算数。配られたプリントの端が少し曲がっていた。蒼真は角を撫で、四角に戻す。
図形の問題は早く終わった。文章題は、一度書いてから消し、主語を加えて書き直した。行は上から順番。順番を守ると、手が先に進む。
二時間目の始まりに、佐伯が教室のドアを軽く叩いた。
「参観の入室者変更届、預かりました」
鈴木が受け取り、職員室行きのファイルに挟む。紙は薄いが、角は揃っている。
「ありがとうございます。後方3分、時間は守ります」
声は短く、温度は一定だった。
廊下の向こうから、家庭科室の方へ湯気の匂いが流れてくる。味噌汁かもしれない。
蒼真は胸の奥で、空気の位置が少し動くのを感じた。鉛筆を持ち直し、字の角を立てないで書く。匂いは通り過ぎる。書いた文字は残る。
机の端で赤い鉛筆が転がりかけ、鈴木がそっと押し戻した。何も言わない。机の上に物が残らないと、視線が落ち着く。
*
昼休み前、職員室の前の掲示板に参観の案内が出た。
——保護者・関係者は、後方3分/撮影不可/入室者名を受付で記名——
紙の角が一つだけ浮いていた。通りかかった作業着の男が、テープの端を持ち直して貼り直した。白い手袋はしていない。貼り直すと、何も言わず去った。
蒼真は掲示板を見て、歩みを止めなかった。時間はここから動く。掲示は走らない。自分が走れば、間に合う。
昼食の配膳が始まる。牛乳パックの口を開く音、トレーが机に触れる音。
光はストローを刺し、音読カードの場所を指で確認した。B家のサインの線が昨日と同じ傾きで止まっている。
「今日、来るの?」
「うん」
短いやりとりで、落ち着きは足りる。
*
午後、国語の時間。黒板の隅の枠が、光で薄くなり、また濃くなる。
だれ/いつ/なに。
「短い作文を書きます。だれ、いつ、なに。順番は気にしなくていい。埋められるところから埋める」
鈴木はそれだけ言い、配られた原稿用紙の束を一番前の机に置いた。紙の重さが机の天板に乗る。
蒼真は原稿用紙を目の前に置いた。行頭のマス目が並ぶ。
最初の一文字が進まない。だれを書くとき、書いた名前が紙に残る。残ると、息が浅くなる。
黒板の枠を見る。だれ/いつ/なに。
順番を変える。いつを書く。「きのうの、」
次になにを書く。「駅でカードにお金を入れた。」
最後にだれを書く。固有名を避けず、短く置く。「ぼくは、」
行は上から順番。順番が戻ると、呼吸が戻る。
隣で、光はいつから書いていた。「きょう、」
次にだれ。「ぼくは、」
なには、迷って、短く。「ドアをひらいた。」
紙には、短いことしか書かれていないが、短いことは、嘘が混ざりにくい。
その時、廊下側の後方に春原=ハルが入った。受付で来客札を受け取り、胸にかけたまま、後方に立つ。
手を振らない。目で頷かない。立っているだけ。
B家の母は、別のクラスの後方にすでに入っているはずだ。後方3分。長さは同じ。
鈴木が春原に一度目をやり、黒板の隅に小さく書き足す。
だれ/いつ/なに。線が一本、濃くなった。
蒼真の手が動く。いつがもう一つ増えた。「きょう、」
なにを書く。「算数の文章を一度消して、主語を足した。」
だれを書く。「ぼくは、」
行は上から順番。短い句点が、一定の間隔で紙に落ちる。
三分が過ぎた。鈴木が目で合図し、春原は静かに下がる。来客札を外し、受付に返す。
教室の空気に波は立たない。波がないことが、支えになる日もある。
*
参観が終わって間もなく、B家の母が別クラスの廊下からこちらの教室をのぞいた。鈴木が廊下で短く会釈を交わす。
「記名と入室、ありがとうございました。記録は学校から佐伯さんへ送ります」
「お願いします」
B家の母は、教室に入らない。廊下で、名札の向きを自分の胸元で一度だけ直すように動き、去った。
真似を覚えるのは、言葉より早い。
放課後、昇降口で、光の名札がわずかに斜めだった。
いつもなら蒼真が指を伸ばすところだが、今日は伸ばさなかった。
「自分で」
光は自分の指で、名札の裏の布を少しつまみ、ピンの位置を微調整した。
角度が合う。
「できた」
「うん」
職員室に寄ると、鈴木が連絡帳2冊に目を通し、保護者欄に印を押した。トン。
続けてふたがカチと閉まる。
「参観の記録、これで回します。二人に言うことは同じ。行頭をそろえる。だれ/いつ/なに。それだけ」
「はい」
短い言葉は、覚えやすい。
*
帰り道。A家へ向かう歩道は、白線が等間隔で続く。
A家の父からショートメッセージ。
——今日の参観、記録受領。夕方の予定、30分後ろ倒し。
胸の奥で、塊がわずかに動く。
蒼真の声が少し速くなる。
「じゃあ、宿題の——」
立ち止まり、ポケットから名刺大のカードを出す。自分で三行を書き換える。
——帰宅後 宿題
——準備
——出発(30分後)
書いた紙を棚のトレイに置く。声の角が少し丸くなる。
言い方も変える。
「お願いがあります。出発の前に、プリントを私に渡してください」
A家の父から「了解」の返信。句点はない。短いことばは、届きやすい。
*
B家では、光が連絡帳の宿題コーナーに昼間の付箋を貼り付け直していた。
「ここ。国語は音読カード。算数は右上」
B家の母が頷く。「分かった。紙の置き方、合わせよう」
台所から湯気が流れてくる。光はスプーンを持った手を一瞬止め、すぐに食べ始めた。
「今日、後ろから見えた?」
「見えた。三分だけ」
「短い?」
「ううん。三分で足りることだけ、見る。それでいい」
B家の母はそれ以上何も言わず、食器を静かに重ねた。
夜、音読カードにサインをもらう。筆記の線が紙の繊維に吸い込まれ、端で細く消える。
「ありがとう」
光はカードを戻し、表紙のビニールを指で撫でた。拭く必要はない。撫でるだけで落ち着く。
*
A家の夜は、廊下の匂いが薄く、音が遠い。
蒼真は机に座り、国語の原稿用紙を取り出した。昼間の作文を、もう一度読む。
——ぼくは、きのう、駅でカードにお金を入れた。
——ぼくは、きょう、算数の文章を一度消して、主語を足した。
だれ/いつ/なに。
短く、線がそろっている。短い文は、置きやすい。置くと、呼吸が整う。
連絡帳の保護者欄に指先を置き、印の輪郭を目でなぞる。輪郭は同じだが、紙の下の木目で濃淡が違って見える。
息を吸って、吐く。
「おやすみなさ——」
言い直す。「おやすみなさい」
声は小さく、部屋の角で折れて消えた。
ベッドに横になり、腕時計の文字盤を胸に置く。針の位置が、昨日手で合わせた約束のところへ向かう。
光も、今ごろ時計を見ているだろう。同じ時刻に、同じ言葉。
針が来る。
「おやすみ」
言葉を投げず、置く。置いた場所が分かっていれば、探さなくていい。
*
翌朝。昇降口で、鈴木が二冊の連絡帳を机に置いた。
丸い印と、筆記のサイン。
鈴木は両方に目を通し、印鑑のふたをカチと閉めた。
「昨日の作文、読ませてもらった。だれ/いつ/なに、よかった。行頭がそろっていると読みやすい」
「はい」
蒼真は短く答え、光はうなずく。
机の上に付箋はない。付箋は、棚の使い終わりの位置に戻してある。
廊下の掲示板では、参観の案内が別の紙に差し替えられている。角はまっすぐ、テープは新しい。
誰かが、また貼り直したのだろう。貼り直されたことは書かれない。残るのは、まっすぐな紙だけだ。
教室の窓に朝の光が斜めに入り、原稿用紙の線が細く光る。
今日も行は上から順番に進む。
面会は決められた時刻に始まり、決められた時刻に終わる。
印はトン、ふたはカチ。
「行ってこい」と言えば、「行ってくる」と返る。
それで、今日の最後の角は、まっすぐになる。
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