第3話 面会15分
土曜ではない平日だった。午前の空気はまだ薄く、A家の廊下は窓の四角で区切られている。
蒼真は、名刺大の白いカードを棚のトレイから取り出した。7:10 起床/7:30 出発/帰宅後 宿題→片づけ。三行だけの文字は、昨日のままの位置にあった。
キッチンから炊飯器のふたが持ち上がる音。湯気がゆっくりと広がり、匂いが角を曲がってくる。足が半歩止まり、器を一つ出しかけたところで、手を引っ込める。器は一度に一つ。二つ目は誰かに渡すと決めたときだけ。
A家の母が横で見て、笑い皺を小さくした。
「今日は、帰りに施設。面会の時間はいつもどおりね」
「分かってます」
玄関で靴ひもを解いて結び直す。左右の輪をそろえると、肩の力が少し抜けた。
A家の父がドアを開け、短い声で言う。
「IC、残高は?」
「昨日のうちに入れました」
「よし」
*
学校の廊下は冷たく、上履きの底が低く響く。
担任の鈴木は、いつもの机に連絡帳を二冊置いていた。左が蒼真、右が光。
左の保護者欄に丸い印、右の欄に筆記のサイン。
鈴木は両方に目を通し、印鑑のふたをカチと閉めた。音は一度。いつもと同じ音の位置。
「今日の放課後は、施設面会。学校からは佐伯さんに伝えました」
「はい」
鈴木は、蒼真の筆箱から赤い鉛筆が出しっぱなしになっているのを見て、何も言わず戻した。机の上にものが残っていないと、視線の落ち着きが違う。
一時間目、配られたプリントの端が少し曲がっていた。蒼真は角を軽くなで、四角に戻す。
図形の問題は答えが早かった。文章題は、一度書いてから消して、主語を加えて書き直した。紙の上の言葉に誰がいるかを、黒板の隅の「だれ/いつ/なに」で確かめる。
二時間目、廊下から低い笑い声が流れ、教室の空気が少しだけ動いた。蒼真は視線をノートに落とし、行頭をそろえる。行は上から順番に埋める。順番を守れば、ひとつずつ終わる。
昼休み、鈴木が短く声をかけた。
「面会、時間で切れるから、言いたいことは紙にしておくと早いよ」
「はい」
蒼真はペンケースから小さな付箋を出し、二枚に分けて書いた。
——提出物のクリップの位置
——宿題のやり方(科目ごと)
字は角を立てず、急がず書いた。付箋は薄いが、持つと紙の重さが指に移る。
*
放課後、昇降口の外の空気は乾いていて、靴底の音がよく伸びる。
駅の自動改札はピッと鳴り、緑のランプが点った。切符売り場の前を通ると、昨日の赤いランプの感触が一瞬だけ戻ってきたが、すぐに消えた。
電車がホームに滑り込み、車内の吊り革が揺れる。窓に映る自分の顔の輪郭を、目でなぞる。名刺大のカードをポケットから出し、今日の三行をひとつずつ押さえる。行は上から順番に進む。
施設の最寄り駅で降りると、時計は15:15。改札で佐伯のメッセージを確認する。
——15:20–15:35/面会室
階段の手すりに右手を置き、一定の間隔で上がる。踊り場の掲示板には、次回の予定の紙。角が斜めに浮いていて、テープがずれている。立ち止まりかけて、やめる。今は、順番の途中だ。
面会室の前で深呼吸をひとつ。ドアを開けると、佐伯が時計を見て頷いた。
「ちょうど」
光は椅子に座っていて、足が少しだけ床から浮いている。B家の母が横に、A家の父は入口から一歩入ったところに立っている。
佐伯が机の上に紙を置く。面会記録。日時と場所、同席者、開始時刻、終了時刻。
「始めます」
蒼真は鞄から封筒を出した。中には、科目ごとに分けた小さな付箋と、簡単な見本のプリント。
「宿題のやり方、同じにしておくと、出すときに迷わない。国語はここに音読カード。算数はこの右上。図工は作品に名前を先に」
光は首を縦に動かし、B家の母が付箋を指先で数えた。
「ありがとう。こっちでも、この置き方を覚えるね」
A家の父は見本を受け取り、短く言う。
「学校経由で原本を共有させてもらう。家での置き場は、これに合わせよう」
佐伯が横からフォローを入れる。
「連絡の線は変えません。学校→私→双方里親。二人のやり方の共有はここで。LINEや個別のメールは使いません」
「分かりました」A家の父とB家の母が同時に答える。声の温度は違うが、言葉は揃った。
光が自分の連絡帳を開き、提出物クリップの位置を示す。
「ここ」
「そう。ここに挟むと忘れない」
小さな金属の音が紙に触れ、位置が決まる。
蒼真は光の胸元を見る。名札は、今日はまっすぐだった。
何も言わず、視線だけで頷く。光も頷いた。言葉を足さないと、きっちり揃うことがある。
机の角に、A家とB家のメモが並んだ。A家の紙は四角に切られた印刷、B家の紙は手書きの丸い角。
佐伯は両方をまとめ、学校→佐伯→双方の順に送るファイルに挟んだ。
「写真の扱いは次回に決めます。今日は宿題だけ」
時計の針が15:34を指す。佐伯が目で合図した。
「あと一分」
光が小さな声で訊く。
「“おやすみ”、だれが言うの」
蒼真は腕時計を見た。ベルトの穴が一つだけきつい。A家の父が最初の日に調整してくれた。
「この針がここに来たら、言う。今夜は各自の家で。電話はしない」
「うん」
15:35。佐伯が面会記録の終了欄に時間を記入する。インクが乾くまでの間、紙は静かに光る。
「ここまで。また次回、同じ時刻に」
立ち上がる前に、蒼真は光の靴を見た。ひもは結ばれている。
言葉は長くしない。
「行ってこい」
「行ってくる」
*
エレベーターを待つ間、A家の父が短く言う。
「予定がひとつ増えた。明日の午後、見学が一時間早まる」
胸の奥の塊が少し動く。蒼真の声が、角を持ち始める。
「じゃあ、宿題を先に終わらせて、持ち物をリストにして——」
A家の父は紙を差し出し、穏やかに遮った。
「三行でいい。13:00 宿題/13:45 準備/14:30 出発。確認して、自分の字で書き換えて、棚に置こう」
蒼真は、頷いた。
「……はい」
紙に自分の字で同じ三行を書き、角をそろえて棚のトレイへ。声の角が少し丸くなる。
A家の父は何も言わず、印刷の紙をファイルにしまうだけだった。
駅までの道、歩道の白線が等間隔で続く。信号が変わるたび、深呼吸のリズムを合わせる。行は上から順番に進む、のと同じで、青になったら進む。
電車のドアが閉まるときの音は短く、均一だ。均一なものは、覚えやすい。
*
B家の帰り道、光は自販機の横で立ち止まり、靴ひもを結び直した。輪は左右で大きさが違う。B家の母は手を出さず、できたときだけ顎で頷く。
「面会、どうだった?」
「見本、もらった。宿題の置く場所、同じにする」
「いいね。明日から、そうしよう」
家に入ると、玄関に小さな棚。上段は連絡帳、中段は持ち物、下段は靴べらとブラシ。B家の母は連絡帳の棚に見本の付箋を置いた。
「ここが“置く場所”。変えない」
「うん」
夕食のあと、音読カードにサインをもらう。筆記の線が紙に吸い込まれ、端で細く消える。
「ありがとう」光は言い、カードを戻す。表紙のビニールが指に馴染む。
寝る前の壁の紙——歯みがき/水/灯り——を順番に指で触れる。合図のように、心が落ちる位置が決まる。
「“おやすみ”、だれが言うの」
「今夜は、ここ」
「うん」
*
A家の夜は、廊下の匂いが薄く、音が遠い。
蒼真は机の上の付箋を並べ、使い終わったものから左に寄せた。使い終わりの位置を決めると、机が広くなる。
連絡帳を開き、保護者欄の印を目でなぞる。輪郭は一定なのに、紙の下の木目で濃淡が違って見える。
息を吸って、吐く。
「おやすみなさ——」
言い直す。「おやすみなさい」
声は小さく、部屋の角で折れて消えた。
ベッドに横になって、腕時計の文字盤を胸の上に置く。針の位置が、さっき約束したところへ向かうのを目で追う。
光も、今ごろ時計を見ているだろう。同じ時刻に、同じ言葉。電話は鳴らない。
針が約束の位置に来た。
「おやすみ」
言葉を投げるのではなく、置く。置くと、部屋の空気が一段落ちる。
遠くで、印鑑の音が思い出の中で一度だけ鳴った気がした。トン。教室の机の材質は違っても、あの音はいつも同じ場所に落ちる。
*
翌朝。学校の昇降口で、鈴木が二冊の連絡帳を机に置いた。
丸い印と、筆記のサイン。
鈴木は両方に目を通し、印鑑のふたをカチと閉めた。
「昨日の宿題、両方とも、提出物の位置が合ってたよ」
「はい」
蒼真は短く答え、光はうなずいた。
机の上の付箋はもういらない。付箋は、棚のトレイに戻しておく。使い終わりの位置に。
四時間目の終わり、教室の窓に陽が斜めに入る。紙の角が光り、影が四角く伸びた。
蒼真はペンを置き、深呼吸をひとつ。
行は上から順番に進む。
面会は15:20–15:35。
印はトン、ふたはカチ。
「行ってこい」と言えば、「行ってくる」と返る。
それだけで、今日の最後の角は、まっすぐになる。
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