第2話 二つの保護者欄

 土曜の朝、A家のキッチンは静かだった。壁のデジタル時計が「7:02」を示し、炊飯器の湯気が細く上がる。

 蒼真はリビングの小さな棚から自分のトレイを引き出した。透明の底にラベルが三つ並んでいる。学校、体操服、水筒。ラベルは角が丸く、指先に引っかからない。

 A家の父が、名刺大の白いカードを差し出した。上に黒い字で3行。


 ——7:30 集合

 ——体操服/水筒

 ——帰宅後、宿題→片づけ


「予定はこれ。ポケットに入れておけば安心だよ」

「はい」


 カードは薄いのに、入れるとポケットの形が少し変わった。

 湯気の匂いが近づく。炊きたての香りに、足が半歩だけ止まった。器を一つ出しかけて、やめる。器は出す回数を決めておくと、心が静かだ。

 A家の母が笑って、器を配った。「出発は七時十五分ね」

「うん」


 玄関で靴を履くとき、靴ひもの両端が同じ長さにならず、蒼真は一度ほどいて結び直した。二重結びの輪が左右で同じ大きさになると、肩の力が少し抜けた。


     *


 学校の昇降口には、同じ色の上履きが整列している。土曜の練習のため、人数はいつもより少ない。

 担任の鈴木は机の上に二冊の連絡帳を置いていた。左が蒼真、右が光。

 左の保護者欄には、丸い印。紙の繊維に沿って朱がわずかににじんでいる。

 右の欄には、筆記のサイン。線の終わりが細く、速く抜けている。

 鈴木は両方に目を通し、印鑑のふたをカチと閉めた。音は一度だけで、同じだった。


「今日の連絡は、学校から佐伯さんに流します。そこから里親さんへ。二人は——」

「面会で話します」蒼真が短く言い、光はうなずいた。

「うん」


 午前の練習は、ボールの音と靴底の擦れる音で進んだ。号令の声は規則的で、聞いているだけで体がその通りに動きたくなる。

 休憩、紙コップの水。蒼真はポケットからカードを出し、「帰宅後、宿題→片づけ」の文字を見た。3行のうち、最後のひとつだけが、まだ遠かった。


     *


 昼過ぎ、スクールソーシャルワーカーの佐伯からメッセージが入った。

 ——本日のきょうだい面会 15:20–15:35/場所:施設面会室。学校からの移動は各家庭で。

 A家の父が「駅まで送るよ」と言ってくれたが、蒼真は首を横に振った。

「電車で行きます。時間、見ておきたいから」

「分かった。ICの残高は大丈夫?」

「大丈夫です」


 駅の自動改札で、カードが低い音を鳴らした。ピッでもスッでもない、もっと短い拒否の音。小さな赤いランプ。

 画面に数字が浮かぶ。残高 130。必要額に10足りない。

 蒼真はすぐに脇のチャージ機へ移動した。千円札を入れ、指示に従ってボタンを押す。紙幣の吸い込まれる音が早い。

 チャージが終わる。呼吸を一度整えて、改札を通る。時計は15:18を示した。間に合うかもしれない。

 ホームに電車が滑り込む。車内で、ポケットのカードを指で押し、数字を追う。15:19。20。

 施設の最寄り駅で改札を出ると、光が来る方向とは逆の人波へ身体が流されそうになる。足を止め、方向を決める。足音が早くなる。


 面会室のドアの前で、一度だけ立ち止まる。息を整える。ドアを開けると、佐伯が時計を見た。

「三分」

 怒っていない声。数字の報告だけ。

「すみません」蒼真は短く頭を下げ、光の方を見た。

 椅子に座っていた光は、立ち上がった。靴ひもが片方だけ解けている。蒼真は何も言わずにしゃがみ、結び直した。輪の大きさをそろえて、指先で軽く引く。

「ありがとう」光は言って、名札を自分で少しだけ正した。蒼真はそれを見て、指を伸ばさなかった。自分で直せるなら、そのほうがいい。


 佐伯が机の上に紙を置いた。面会記録。日時と場所、同席者、開始時刻、終了時刻。

「今日のことは、ここに残ります。二人からの話は、ここで。次の面会までに必要なことがあれば、私に伝えてください」

「はい」

 光が手を上げる。

「きょう、“おやすみ”だれが言うの」

「今夜は、B家」佐伯が答えた。

「……うん」


「次回の面会まで、宿題のやり方を同じにしておきたい」と蒼真が言った。

 机の端から、自分の連絡帳を出す。提出物クリップの位置を開いて見せる。

「ここにクリップを挟む。忘れない」

 光はうなずいた。B家の母が横で見て、同じ位置にクリップを挟んだ。小さな音が紙に吸い込まれる。

「ありがとうございます」とB家の母。言葉は短く、邪魔をしない。


 時間になり、佐伯が時計に視線を落とした。

「ここまで。次は第4土曜、同じ時刻です」

 立ち上がる前に、蒼真は光の胸元を見た。名札はまっすぐ。靴ひもは結ばれたまま。

「じゃあ——」

 言葉は長くしないでおく。「——行ってこい」

 光はうなずいた。

「行ってくる」


     *


 帰りの電車。窓に映る自分の顔が、駅の明かりに薄く縁取られる。

 ポケットのカードを指で押さえ、読まなくても3行が思い出せる。

 ——7:30 集合

 ——体操服/水筒

 ——帰宅後、宿題→片づけ

 最後の矢印の先に何を置けばいいのか、まだ分からない。置き場所を決めるまで、ただ矢印の形をなぞる。


 A家に戻ると、予定がひとつ増えていた。

「明日、午後から見学が入った。時間がずれる」A家の父が短く言う。

 胸の奥で、硬い塊が動く。予定の変更は、体の中の空気の位置をずらす。

 蒼真の声が、少し速くなった。

「じゃあ先に宿題をやって、それから準備して、十五分前には出られるようにして——」

 言葉が増えていくのを、A家の父が手で止めた。紙を一枚差し出す。

「これ、明日の時刻とやること。順番はこれでいい?」

 紙には、3つの短い行だけ。13:00 宿題、14:00 準備、14:45 出発。

 蒼真は深呼吸をして、頷いた。

「……はい。これで、いい」

 自分の字で書き直す。小さな四角の紙に、同じ3行。角を折らずに、棚のトレイに置く。

 言葉の角が少し丸くなる。


     *


 B家の居間では、光が音読カードを膝に乗せていた。

「ここに、サイン」

 B家の母はペンを持ち、線を引く。

「ありがとう」

 光はカードを連絡帳に戻し、表紙の角を指でなでた。表紙のビニールは薄く、指先の温度がすぐに伝わる。

「今日の面会、楽しかった?」

「うん。靴ひも、結んだ」

「次は第4土曜。同じ時刻ね」

「うん」

 光は自分で靴ひもを解いて、もう一度結んだ。片方の輪が小さくなりすぎて、もう一度やり直す。

 B家の母は黙って見ていた。できたときだけ、目で頷いた。


 寝る前、壁の紙の三つの絵——歯みがき、水、灯り——を順に指で触れる。

「“おやすみ”、だれが言うの」

「今夜は、ここ」

「うん」

 灯りを消す。暗くなる直前、窓の外で遠く電車の音がした。汽笛ではない、繰り返す低い風の音。光は目を閉じ、息を吐いた。


     *


 A家の廊下は、夜になると匂いが薄くなる。壁の角は白いまま、音だけが遠くなる。

 蒼真は机に座り、鉛筆を削った。削りかすがペン立ての底に落ちる音が、静かに続く。

 連絡帳を開く。保護者欄の印に指先を置き、なぞる。紙の上の丸は変わらないが、触れるたびに輪郭が少し違って見える。

 息を吸い、吐く。

「おやすみなさ——」

 言い直す。「——おやすみなさい」

 声は小さく、部屋の角で折れて消えた。


 ベッドに横になると、昼間の面会室の時計が頭に浮かんだ。15:20。15:35。

 短い針と長い針が、約束どおりに動く。動くたびに、紙の上で時刻が合っていく。

 次は遅れない。改札の音を、別の音に変える。

 チャージ機の画面の色、ボタンの硬さ、紙幣が飲み込まれる速度。全部、覚えておく。


     *


 日曜の朝、A家の冷蔵庫のマグネットが整列していた。赤は月曜、青は火曜、緑は水曜。色と曜日が、家の中に小さく散らばっている。

 B家の冷蔵庫には別のマグネット。国語、算数、音楽。科目が色を持ち、夕方の机の上に移動する。

 二つの家は、それぞれの整え方で同じ朝を始める。

 学校では同じチャイムが鳴り、同じ号令が響く。

 机の上に二冊の連絡帳が並ぶとき、印とサインの違いが、今日の道順を少しだけ変える。

 印鑑の音はトンと一度鳴り、ふたの音がカチと続く。

 その音だけが、昨日と同じだった。

 それでどこまで進めるのかは、まだ分からない。

 分からないままでも、予定表の角はそろい、名刺大のカードは折れずにポケットに入っている。

 「行ってこい」と言えば、「行ってくる」と答える。

 それだけで、今日の最初の角は、まっすぐになる。

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