第13話 後悔
「……! 春香、前!」
「え……?」
疲れきっていて前方すら見えなくなっていたのか。正面十メートル程先に小さな公園があることに、春香は僕よりも遅れて気づく。
「あ……!」
咄嗟の急停止も間に合わないまま、春香の大きな駆け足が公園入口の車止めに躓く。
「うっ……!」
アーチ型の車止めは巨大質量の衝突により折れ曲がり、前のめりになった春香の巨体は転んだ拍子に僕を黒腕から離してしまう。
「ぐはっ……」
胃が浮く浮遊感を覚えたのは一瞬で、空中へ身を投げ出された後は公園の地面に激突してしまう。
「……はる、か」
芯から響くような痛みに苛まれながら、上半身だけを起き上がらせて辺りを見回す。目の前で春香の巨体が盛大に転んだはずだが、公園の暗がりを見渡しても転倒による損壊どころか黒い巨人の姿さえ見つからない。
「……あ」
二メートルも離れていない場所で、僕と同じように立ち上がろうとしている女子生徒の姿を発見する。それが春香であると分かった途端、向こうもこちらに気づいたのか特徴的な赤い瞳を向けてくる。
「……ユキ、くん」
「……春香」
縋るような眼に引き寄せられて、僕も春香も倒れたまま互いに土色の地面を這う。
「春香、その姿は……」
「……うん。霊力不足で、でっかい姿を保てなくなっちゃった」
手が届くまでの距離に近づいても、霊力を操れない僕は春香の震える手を握りしめることもできない。
「……あいつらは」
追手の黒影達は既に追いついており、公園の入り口で徐々にその数を増やしている。本体の雪女が来るのを待っているのか、その場に留まったまま獣のように飢えた空気を僕らに向けて醸し出している。
「……ここまでなのか」
最早打つ手は無く、春香の霊力不足により現世に戻ることも叶わない。草花を揺らす風さえ吹かないこの世界で、僕と春香の喉元に冷ややかな終わりの予感が突きつけられる。
「……まだ、告白もできていないのに」
桜花の死後、しこりのように残り続けている後悔が今になって僕の胸を苛む。
「こんなことなら……」
「――あーあ、どうせこんなことになるんだったら」
「……え」
抱いた後悔を吐き出そうとして、すぐ傍から聞こえる諦めの声が間に割って入ってくる。
「春香……」
絞り出された声は震えており、痛ましさが伝わってくる程の悲痛に染まりきっている。
「死んだ後じゃなくて、生きている内にユキくんに話しかけていればよかったなあ」
俯きそうになった僕よりも早く、笑顔を失った春香の顔が下を向く。輝きを湛えていた瞳は乾き、煌めきの欠片も見当たらない暗い紅に染まっていく。
「…………」
失意に暮れることも忘れて、他人事とは思えないその姿から目を離せなくなる。
後悔をしているのは僕だけじゃない、春香にだって忘れられない心残りがある。拭いきれない未練があるからこそ、春香は死後も現世に留まる幽霊になった。
「……大丈夫だよ、春香」
あれこれ考えるよりも先に、身の丈に合わない励ましが口を衝いて出る。
「……ユキくん?」
春香は顔を上げて、夜空に浮かぶ満月の光を赤い瞳に湛える。
「まだ、何も終わっていないよ」
「……どうして」
どうして、今の状況でそんなことを言いきれるのか。春香の眼差しは不規則に揺らぎ、抱えている不安を言葉も無く僕に訴えかけている。
「……これぐらいしか、僕にできることは無いから」
不安定に揺れる瞳を真っ直ぐ見据え、誰かさんの見よう見まねでぎこちない笑みを作り上げる。
例え根拠のない出まかせだとしても、何もできずに動けなくなるよりはずっといい。春香に似合うのは悲しみではなく、桜花のように晴れやかで喜びに満ちている笑顔なのだから。
「僕、後悔はしたくないんだ」
ただ、自分にできる精一杯を尽くす為に。昔から抱いている喪失感に蓋をして、目の前で悲しみに暮れている女の子の手に触れる。
「あ……」
まだ触れ合うことができないのに、重なり合った手には確かな感触が温もりと共に返ってくる。
「ユキくん、これって……」
「……多分、一時的なものなんだろうけど」
突然のことに呆然としている間も、春香から伝わる仄かな熱は血液を思わせる奔流となって僕の中に流れ込んでくる。
「春香の霊力が伝わってくる……」
迸りは黒色を帯びていき、僕と春香の間にある糸のようにか細いものを一層強固に結びつけてくれる。
「春香、立てそう?」
「だ、大丈夫、これなら……」
重ねていた手と手を握りしめて、互いに支え合うように立ち上がる。腰を上げてから春香の顔を見ると、失望に染まっていた表情には元通りの瑞々しい笑顔が戻っていた。
「ユキくんすごい! いつの間に霊力を操れるようになっていたの⁉」
「操れてるのかな、これって……」
本当に霊力を物にできているのか疑問に思って、春香と繋ぎっぱなしの右手を何となく覗いてみる。
「あれ?」
「消えちゃってる……」
霊力の流れは既に止んでおり、春香と繋いでいた手の感触さえいつの間にか無くなっている。やはり今の僕では、春香とはほんの少しの間しか触れ合えないらしい。
「……でも、今はこれだけで十分だ」
霊力の流れは無くなっても、春香から貰った温もりは身体中を巡っている。たったそれだけのことを強く意識すれば、公園の入り口にたむろする黒影達に臆することなく向き合うことだってできる。
「あ、あいつ……!」
「やっと来たみたいだね……」
黒影達を自ら掻き分けて、真っ白な和服に身を包んだ女性が僕らの前に現れる。
「雪女……」
春香と同じ真っ白な長髪に、見ているだけで吸い寄せられそうになる赤い瞳。雪女は典型的な幽霊らしく宙に浮いており、瞳に穏やかな揺らぎを湛えたまま黒靄の群れの先頭に立つ。
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