12

 その夜は、一晩眠れなかった。身体の中で熾火がうずいているみたいで、ずっと布団の中で点々と寝返りを打ちながら、じりじりしていた。

 井上くんの端正な横顔を思い出して、次にはキサラギのきれいな顔を思い出して、井上くんに素通りされたことや、キサラギの寂しい物言いを思い出して、その繰り返しだ。全然眠れない。だから翌朝、洗面所の鏡を見た円花は、くっきりと隈の出た、若干青ざめた自分の顔を見て、やっぱり、と思いながらがっかりもした。

 もうちょっと、強いと思っていた。自分は。

 両親に顔を見られたら心配されそうだったので、遅刻しそう、と大きな声で繰り返しながら、自分の部屋から荷物を取って、そのまま玄関を駆けだす。20分くらい電車に乗るから、その間に少しでも目をつぶっていれば楽になるかな、とも思ったのだけれど、目を閉じればやっぱり、井上くんとキサラギの顔が思い浮かんで胸がざわついて、どうしようもなくなる。それで円花は、好きな音楽を聞きながらスマホを弄り、なんとか気をそらせようと努力しながら学校まで来た。

 井上くんは、自分の席に突っ伏して、眠っていた。アルバイトで睡眠時間を削っているのだろう。

 「円花、ひどい顔ね。」

 円花の席までやってきて、そう声をかけたのは笙子だった。円花は俯いた。恥ずかしかったのだ。笙子の言う通り、自分には無関係な場所に首を突っ込んで、こんなふうに心を削られて体調まで崩していることが。

 「……ほんとだった。」

 耳元で囁くと、笙子はすぐに、なにを言われているのかを察した。

 「井上くん?」

 「……うん。」

 「本当に、見に行ったのね。」

 「行ったよ。」

 行かなければよかった、とは、口に出せなかった。内心では深く、そう思っていたけれど。

 「……男だった。」

 そう円花が呟くと、今度はさすがの笙子も意味を捉えられなかったらしく、首を傾げた。

 「え?」

 「男。男娼って言うの?」

 「……ああ。」

 ぽつりと、笙子が低くため息をついた。

 「本当に、本気なんじゃないの。」

 やっぱり低い、笙子の声。円花はこくりと頷いた。本気。井上くんは明らかに、キサラギに本気だった。全然関係のない円花が、端から見ていて分かるくらいに。

 「もう、関わるのやめな。」

 笙子が、宥めるように円花の肩に手を置き、静かに言った。

 「円花が関わることじゃない。分かったでしょ?」

 円花は、じっと黙って、下を向いた。

 円花が関わることじゃない。それは、分かっている。でも、自分は多分、また観音通りに行くだろう。井上くんを追いかける、という名分もなくして、それでも、キサラギに金を差し出して。

 それが、昨夜眠れない間、ずっと頭の中にあったことだった。

 多分、私は、井上くんと同じ穴に落ちかけている。

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