ここは、観音通りだ。突然飛び出してきて怒り狂う人間なんて、ありふれているのかもしれない。

 円花は、自分の身体を動かしていた、怒りを原動力とする勢いが、一気にしぼんでいくのを感じた。ここは、観音通りだ。円花の縄張りではない。この男や娼婦たちの縄張りなのだ。そう思うと、無防備に大声を出した自分が恥ずかしくすらなってくる。

 「あのイケメンの彼女?」

 キサラギと話していた娼婦が、思いついたように言って、円花の顔を覗き込んできた。 

 「ああ、そういうこと?」

 それを聞いたキサラギも、納得したように軽く頷く。

 そうなると円花は、首を横に振ることができなかった。ただのクラスメイトで、観音通りで顔を合わせてすら無視されるような存在だと、そんなことを口にするのはあまりに惨めすぎる。

 黙って突っ立っているしかできない円花の前で、キサラギは細長い煙草を一本取出し、形のいい唇に咥えて、蛍光色のライターで火をつけた。

 「なに、それで文句言いにきたの?」

 気だるげな物言いだった。明らかに円花を鬱陶しがっている。細く白い指で、ゆるくウェーブのかかった黒髪をかき上げながら、キサラギは軽く笑った。

 「彼氏と話し合いなよ。俺は関係ないから。」

 「キサラギ、つめたーい。」

 娼婦がふざけたみたいな声を出すけれど、キサラギは軽く目を眇めてその言葉を流し、あっさり円花に背を向けた。

 「……待ってよ。」

 円花は、その背中に必死の思いで言葉を投げつけた。

 「関係ないわけないでしょ。」 

 だって井上くんはキサラギを好きなのだ。そんなの、見ればわかる。部活も勉強も友人関係も、全部手放していいくらいに、キサラギを好きなのだ。それなのに、関係ないわけがない。

 キサラギは、繊細に薄い肩越しに円花を振り返ると、いくら持ってんの? と、平然と言ってよこしてきた。

 「俺と話したいなら、金。」

 円花はその言葉を聞いて、見るからに学生の自分にそんなことを言うなんて信じられない、と思うと同時に、公正な態度だな、と思いもしたのだ。ガキだろうとなんだろうと、この男の時間を使いたいなら、金。分かりやすい基準だ。それに従って、井上くんだって金を払っているのだろう。

 ぐっと唇を噛んで、しばらく躊躇った円花は、スクールバッグから財布を取出し、中身の札を全部抜きだした。六千円。つかみ出して、男に突き付ける。

 「これで、何分?」

 男はなんの躊躇もなく金を手の中に収めると、妖艶な笑みを浮かべ、30分、と答えた。

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