第3話 日本料理店“Suntory”

8月18日   

 カーテンの隙間から入ってくる光で部屋は薄明るくなっていた。8時頃の気がした。眠れたのは2時間ぐらいだが、目があいてしまったら不思議と眠くはない。日本にいる時の私は、眠るの大好き人間なのだが、メキシコに来てからまともに睡眠をとっていない。精神的、肉体的興奮だけではないような気がする。標高が2000メートル以上に位置するメキシコシティの気圧が作用しているとか、考えられないだろうか。

 ラウルが目を覚ました。「オハヨウ」と言って、私は彼にmorning kiss 。私を見る彼の顔は白っぽい。私のせいで寝不足のはずだ。

 「Today , she is going to see her friend ,so I can be with you all day long 」ことさら元気そうに私は言った。(今日は彼女友達に会うから、私たち一日中一緒よ)

 手早く身支度をして「See you later 」ラウルに言い残し、私は一度ホテルアラメダに帰る。時刻は9時近くになっていた。

 「ただいまー」私は居間を通り抜け、ベッドルームに入っていった。無言で私を迎えたヨシの目は赤く、表情が強張っている。

「どうした?」訊こうとして私は黙った。ヨシはグレーのワンピースをきちんと着て、薄化粧でカバーをかけたベッドに足を投げ出し座っているのだが、苛立つしぐさで煙草に火をつけた。見るとすでに、部屋の3個の灰皿はどれも吸い殻が山になっている。

 「わたし、こんな旅行初めてよ。ホームシックになるなんて、こんなひどい旅行初めてだわ。全然眠れないんだもの」

ヒステリックな声で彼女が言った。眠れなかったのが私のせいみたいな言い方だ。

私がいなかったので眠れなかったと言っているのか。私も心身くたくただ。

今、彼女の感情のお守りなどする余裕はない。

「あなた、彼のところへ行っていいわよ」と彼女が言うのを聞いてから、私は一晩抜けたわけだし、一人で眠れなかったという責任はとれない。そうか、一昨日の飛行場での出来事がまだ尾を引いているのだ。

「ゆうべは、私も眠れなかったの。なんか頭がおかしくなってね。一瞬なんだけど窓から飛び降りたいと思った」

「そう、頭のいい人は違うわね!」口を醜くゆがめ、吐き出すように彼女が言った。この類の皮肉に私は太刀打ちできない。私が黙ったので彼女も黙った。

 数分後、「とにかく食事に行こう」彼女を促し部屋を出た。

 一階でエレベーターのドアが開き、すぐラウルの姿が目に入った。待たせてしまったらしい。三人で外に出て、昨日のレストランに入った。今日は窓際の U 字になった席に案内され、私が真ん中に座った。

 赤い目をして押し黙っている私。腫れぼったい目でふくれっ面のヨシ。思ってもみなかった今朝の彼女の態度に私は疎ましさを感じ、わざと知らんふりをする。

ラウルは心配そうに私を見てから、ヨシに話しかけた。

「Did you sleep well last night ? 」「No,I didn’t ・・・やだ、私ったら、涙が出てくる」

彼女は涙声で答え、自分の涙に狼狽し、ハンカチで目を拭くとまた押し黙った。何とも気まずい朝食になってしまった。一体どうしたの?と私を見るラウルに、肩をすくめ私は知らんふりを続ける。

 注文したアメリカ料理が運ばれてきた。私たちはそれぞれの思いを抱えたまま黙々と食事を続ける。ラウルが沈黙を破りブラジルの話を始めた。それから、ポルトガル語とスペイン語の似ているところ、その結果間違えやすいところを話す。どうにかしなくっちゃと思っていたのは彼女も同じらしく、二人共その話題に飛びつき、食事が終わるころには、どうにかまともな空気になっていた。

 今日のヨシの予定はメキシコシティに住んでいる友人と待ち合わせだという。

その友人が迎えに来るからと、ホテルに戻る彼女と私たちはレストランの前で別れた。

 「Where shall we go now Yuko ? 」ラウルが私に訊く。

そうだ、今日は一日中彼と一緒にいられるんだ、と思ったら、素晴らしく解放された気分になった。

「I want go Post office ,息子に頼まれた切手を買いたいの」

「Ok, let us go ・・・but where post office is ? 」「I know , this way 」私は先に立って大通りに向かって歩き出した。

「How did you know ? 」ラウルが大げさに驚いている。昨日のツアーでセントラル郵便局の前を通ったのだ。

 ラウルと腕を組み、アラメダの前をしばらく歩いて左に曲がると、セントラル郵便局があった。古い建物らしくクラシックな造りである。中に入ると、天井がとても高いのに気付いた。窓口で訊いてみる。切手は二階に展示されているということだ。

階段を二階に上がると沢山の切手が種類別なのか、値段別なのか、額に収まって、ずら-っと並んでいた。

「欲しい切手の番号をメモして」と、ラウルが言うので、私は額の前を移動しながら、絵が面白いのや、珍しそうなのを基準に選び、メモしながら廊下の端まで歩いた。

 突然、私の背後から日本語が聞こえ、思わず振り向く。女の子と男の子、その母親らしい女性がいる。旅行者ではないらしい日本人をここで見るのは珍しい。

 窓口には7.8人が並んで待っている。人の頭越しに中をのぞくと、係は急ぐ様子もなくのんびりと仕事をしているようだ。かなり待って私の番になり、メモをチェックした係は、スペイン語で何か言った。

私は後ろを振り返ってラウルに合図を送って、そばに来てもらい、彼の通訳で欲しい切手を買うことができた。

 「well Yuko ,what do you want to do now ?」

「Let walk ・・・そうだ、ショッピングはどう?」私は提案して、彼と腕を組んで歩き出した。

 街には垢抜けているとは思えない商店が立ち並んで、流行遅れに見える商品が飾ってある。ショーウインドウは、手入れが行き届いていないのか曇っているし、車道を走る車は型も古く、しかもかなりぼろが多い。そう、ここは20年前のラウルがいたころの新宿に雰囲気が少しだが似ている感じがする。

ラウルと私は、20年ぶりに腕を組みながら古い街を歩く。

 歩道に露店を広げて、少年がチューインガムやキャンディーを売っているのに出会った。昔の新宿にもこういう露店があった。懐かしい思いで立ち止まる。

私がガムを二つ手に取り、ラウルが少年にコインを渡した。こんな小さなことが私にはうれしい。

 私たちはホテルの方へ向かっていたが、来た時と違う道を歩こうと、ラウルが私の肘を持ちエスコートしてくれながら、大通りを渡って劇場の方へと歩いていた。

「Yuko, you must be careful here ここでは車が優先なんだよ」とラウルが言う。

確かに渡ろうと待っていても、クルマはスピードを緩めようとはしない。危険極まりなくて、見ている方はひやひやするが、土地の人たちは実にうまく車の間を縫うように急ぐ様子もなく歩いている。

 「何年か前、日本に行く話があってね。結局それはだめになったんだが・・・」

「えっ!」何を言おうとしているの?立ち止まり私は彼の顔を見た。

「でも、日本に行ってもあなたに自由に会えないでしょう?」

「えっ、それは大丈夫よ」彼に向けた私はどんな表情をしていたのだろう。

ラウルはどうして?と不審な顔で私を見ている。

「何故かって、私、夫とは離婚しました・・・・・わたし、夫に失望、いいえ絶望したのよ」

「そうだったのか」ラウルはショックを受けたように見えた。彼への手紙に私は一度もこのことは書いていない。

「私は最初の妻と離婚した。彼女は貴女の写真を見つけると、引き裂き、私が寝言でYukoの名前を呼んだとひどく怒ったよ」

まさか、それだけが離婚の原因だとは思えないし、そんな簡単なことではないだろうと思う。

「5・6年前にYuko あなたに3通続けて手紙を出した。ブラジルからね。憶えているかな、でもあなたは返事をくれなかった。So I thought Yuko is no more ,why didn’t you give me an answer ?」

ブラジルからの手紙?ああ、覚えてる、封筒のブラジルの住所がさっぱりわからなくて、返事を出すのを伸ばしに伸ばし、結局読めないまま書いてある通りのスペルをつづり、やっと返事を出したのだった。でも彼の手紙には離婚のことはほのめかしてさえいなかったから、私は何も感じ取ることは出来なかった。知ったとしても何ができただろう。

「私の離婚の最大の原因は、夫のギャンブルのやり過ぎにあるの。彼はひと月分の給料を一晩で使ってしまう。それを何年も続けてきたわ。今だって子供の養育費さえくれない」

「自分の子供のために父親がお金を出さないのは理解できないね。ただ、わかるのはあなたの夫は、自分勝手な心の弱い人だと思うよ」

selfishとweek という単語が耳に残り、むなしくなり「もうやめましょうこの話」

私は振り払うように頭を振った。

 私はラウルとまた腕を組んで、無言でホテルの方へと足を運んだ。今日も暑くなりそうな気がする。

 アラメダホテルの左側はカフェになっていて、何組かの客の姿が見えている。

「Would you like something to drink ? 」「Yes I feel thirsty ! 」

私たちは通路に面した空いているテーブルの席に座った。オーダーは

もちろん、

「Two beer please ! 」

隣のテーブルには、初老の男と女、そして彼らより少し若い女が座を占めていてテーブルの上には琥珀色の液体が入った奇妙な形のグラスがそれぞれの前に置いてある。上がラッパ上に開いて、中間はすーっと細くなり、下は横に膨らんだ一輪挿しのようなグラスだ。

「もしかして、あれビール?まさかー、私もあれを飲むの?」

「そうだよ、Yuko 」

ラウルが愉快そうに笑いながら頷いた。

まもなく、私の前に置かれたビールは形もさることながら、なんと高さが40センチはありそうで、びっくり、こんなラッパ状に開いているふちから、うまくビールを飲めるだろうか。自信がない。とうてい無理だ。

 隣のテーブルの人たちに注目されている気配を感じながら、私はグラスを持ち口につけて慎重に傾けていった。冷たいビールを舌に感じおいしい!と思ったとたん、唇の両端をビールがだらだらと流れ落ちたのだ。やっぱりね。黄色のシャツの胸にはシミが広がってしまった。

「Yuko ,グラスを取り替えてもらおうか?」「Yes ,please 」

ウエイターがフツーのグラスを持って来てくれた。私はやっと安心して美味しいビールを堪能できたのだった。

ラウルは、私が目を大きくして注目する中、悠然とビールのグラスを徐々に傾けて、一滴もこぼさず飲み干してしまった。

なんということ!Oh my good ness Raul !!


 「Well Yuko , we go shopping now ,but where is ?・・・」

丁度その時、いつもアラメダホテルの売店にいる中年の男性がドアを開けて出てきたので、ラウルがショッピングにいいところはないかと尋ねた。男性は持っていたバケツを足元に置くと、手振りをしながら、親切に教えてくれた。ブロックを3つか4つ行った先に人気のあるマーケットがあるらしい。

 ラウルと私はまた腕を組んで、むかし、新宿の街を歩いたように、新宿のようなメキシコシティの歩道を人々に混じり歩く。私はメキシコ人ような顔をしてすまして歩く。すました顔の内側は少しくすぐったい。

「いいなー、こういうの、夢みたい!」昨夜から私は“ 夢みたい ”と何回言っただろう。

「Yes Yuko ,dreams come true !」ラウルはその度に答えるのだ。


 二度、角を曲がり、20分ほど歩くとそのマーケットはあった。まだ新しそうな二階建てのビルの中には、小さな店がぎっしりと並んでいる。

銀製品の店。サラぺ。革製品 等々。

「ここでは値切るのがルールだよ」ラウルが言う。「OK、分かった」答えたが、あまり値切るのには慣れていない私だけど。

 一軒のシルバーの店にまず私は入ってみた。小柄な細い顔の鼻の下に髭をたくわえたメキシコ人が、素早く私に寄り添ってきた。

「Mire mire senyori-ta ・・・」英語にスペイン語ごちゃまぜで、盛んにしゃべりまくる。あのネックレスどうかな?と私が言うと、素早い動作で壁から外してきて、うやうやしい手つきで私の首にかけてくれる。「素晴らしい、セニョリータ、とてもきれい」と、大仰な動作ですごくお世辞がうまい。

このブローチどうかしらと眺めていると、さっと私の手から持ってい

って、白い粉をつけた布で磨き上げ、更にピカピカになったブローチを、どう?素敵でしょう?

それを掲げて、自慢げに自分でうんうんと頷いている。

ブローチを2個、ペンダント、指輪2個を選んで、

「おいくら?ペソはないからドルで払うわ」男が値を言ったが、よくわからないので、ラウルを見ると彼は首を振って、男に何か言った。男が答える。ラウルはまた首を振り、男が値をまたラウルに言う。今度はラウルが頷いた。

「Yuko , he said it’s a hundred dollar for all 」交渉は成立したらしいが、日本での価格を考えると数個で100ドルは安いのかも知れないと思い、それら全部を私は買うことにした。

 隣のサラぺ屋で、手ごろな値段の、グリーンが基調の好みのサラぺが見つかり22ドルでそれを買った。私たちは何軒かの店を冷やかしながら歩く。革製品は雑なつくりの印象で、衣服類は安っぽく感じて、欲しいものはなかった。

 ラウルと私はマーケットを後にして、また街に出た。

「パンダのぬいぐるみが欲しいがあるかなー」ラウルが言う。

「見つけましょう」

私たちはウインドウショッピングをしながらパンダを見つけて歩く。

一軒の店のガラス窓の向こうに沢山のぬいぐるみが見えた。中に入ると、チョコレートや菓子も売っていてガラスケースの中には沢山のチョコレートが並んでいる。メキシコのチョコだ。食べてみたい。

「ここからここまで、一個ずつ下さい」

私は10数種あるすべての種類を店員に言った。

女性の店員は、ブツブツ何か言いながら、チョコレートを紙の袋に入れてくれた。

私はなんとなくだが、店員が一個ずつだなんて面倒な、とスペイン語で言っているのではないかと思ってしまった。

 ラウルと私はパンダが入った袋とチョコレートが入った袋をそれぞれの手に持ち、紙袋からチョコを取り出して食べながら歩いていた。

「こんにちは、こんにちは」あ、日本語?と思ったのと、

ラウルが「Yuko ! 」と教えてくれたのが同時だった。

声がした方を見ると、公衆電話の前に背の高い日本人が立っている。ツアーの仲間で、私が唯一名前を知っている伊藤さんだ。ラウルをバスに乗せていいですかと皆に聞いた時「空いているからいいんじゃないんですか」と答えてくれたのは彼だったし、昨日の朝エレベーターで会った時「Donde esta comedor ?」と食堂の場所をボーイに聞いていた。積極的な伊藤さんみたいな日本人を私は好ましいと思い、

「一緒にいかが?」と誘ってみたのだが、エレベーターが止まってラウルと落ち合うと、悪いからやめとくと、遠慮してしまったのだった。

伊藤さんは、昨日のツアーに参加しておらず、気づいた田中さんと皆で、アラメダに引き返したが、伊藤さんはいなかったのだ。

「僕ね、高校生に伝言頼んだんですよ。忘れちゃったのかな」というのだ。それで電話をしていたらしい。でも、もう昨日のことだし済んだことだしと、私は言ったが、

「いや、やっぱり、もう一度コールしてみます」伊藤さんはまた、公衆電話に向かった。彼は日本人らしい几帳面さも持っていた。

そこはもう、アラメダホテルのそばだった。


 「Yuko, we’ ll going to Japanese restaurant to eat japanese food 」「え、日本食があるの?」

「Yes there is a very nice restaurant, name is Santory 」

サントリーって、ウイスキーと同じだ。

 荷物は置いていこうと、エレベーターで5階の私たちの部屋に上がった。

「It’s good room Yuko 」部屋に入り見回しながらラウルが言う。

私は今朝の嫌な雰囲気を思い出してしまった。明日がもう一日ある。嫌だなー、どうしようか、ストンとベッドに腰を落とした私を見て、ラウルが「どうしたの?Yuko 」と言いながら、彼女のベッドに座りそうになったのを見て「No ! 」と私が叫び、驚いたラウルが慌てたように移動して窓際の椅子に腰を落ち着けた。

「I’m in the trouble with her ,今朝、私たち言い合いをしてしまったの」

「Yes I know ,her look talked about that ,is it jealousy ? 」

(彼女の表情からわかるよ。ジェラシイかな?)

「I think it’s a kind of jealousy ,ラウル、あなたが空港で彼女を驚かせてしまったのよ」

「I know, I shot her 、でも、ほかに一緒にいる方法はなかったよ、今となっては仕方がないが・・・彼女は、Yukoと私が一緒にいるのを好まないようだね。明日は逢わない方がいいかもしれない」

「でも、ラウル、 彼女は私のこの旅の目的、あなたに逢うということを知っているはずよ」

「そう、でも人は大抵 Selfish で jealoas なものだよ」(自分勝手で嫉妬深い)

「こうなるとサンディエゴ行きは考える必要があるかも。でも、しばらくは計画をキープしておいてね。I’m sorry Raul こんなトラブルになるなんて。もう彼女のことは考えないようにする」

「謝る必要はないよ、Yuko、今の私は大人だから。昔とは違う」ラウルは逆に私を慰めるように言ってくれた。

「I’ m so hungry ,さあて、外へ美味しいものを食べに出かけよう!」ラウルはそう言って椅子から立ち上がった。

 ピカーッ!!突如白い閃光が室内を走った。続いて猛烈な雷鳴が轟き、とたんに部屋は暗くなって、カーテン越しに激しい雨が降り出すのが見えた。

「雨だ。タクシーで行こう」とラウルが言う。

 ホテルの玄関前で客待ちをしていたタクシーに私たちは乗り込んだ。型が相当古い大型な車だ。運転席には皮膚がたれさがっているような顔をしたメキシコ人の男がハンドルを握っている。

 激しく降る雨の中、どうにか大通りに出たタクシーは、くるまの洪水にの中に突っ込みのろのろと走る。ラウルの説明によると、メキシコシティでは雨が降ると車が動かなくなるそうで、タクシーに乗る意味がないが、レストランまでの距離を私は知らないし、滝のように降る雨の中を私たちのタクシーはまるで、網にかかった獲物のように周囲をぎっしりと他の車に囲まれて、それでもゆるやかに動いてはいた。

 ラウルと運転手は何やら声高にスペイン語で喋っている。さっき、ホテルを出てすぐに、このタクシーは白バイの警官につかまり切符を切られ、その場で運転手は罰金を払っていた。

理由はUターンの反則をやってしまったそうで、罰金はいくらだったのか、運転手に落ち込む様子は見えず、ハンドルを左手に握り、身体を斜め後ろに反り返って、上機嫌で後部席のラウルと喋っている。

 私はひどい眠気に襲われ上瞼が自然に落ちてきて、頭をラウルの肩に乗せ、彼らの話を遠く聞きながらうつらうつらしていた。

「Yuko,can you guess his age ? 」(運転手の年、幾つだと思う?)

突然、頭の中に入ってきた彼の声に眠りから引き戻され、ぼーっとした目で運転席を見る。すごく年寄りのようだが、考えるのが面倒で、

「さあー?」と言ったら、「He is eighty years old 」ラウルが答えてしまった。

(えっ!80歳 おどろ き)ストン、私は本当に眠ってしまったようだ。気配で目を覚ますと、丁度レストランに着いたところだった。

 

 ”Santory” と書いてあるレストランの入り口を入ると正面の大きなガラスケースの中に、日本の花嫁衣装、金色ピカピカの打掛がデーンと飾ってあるのが目に飛び込んできた。

左手のレジの横にいたメキシコ人の少女が、すぐさま私たちに近づいてきて喫茶室へと案内したのだが、少女は和服に赤い半幅帯という姿をしており、それがとても似合っている。

 食事は二階になっているらしいが、とりあえず私たちはビールを注文した。どこからともなく琴の音が聞こえてきて、厚い窓ガラスの向こうには日本庭園が広がって見えていて、確かに日本の雰囲気を作り出している。

 「I wonder that ここは、日本食レストランだから、スタッフは日本語を話すのかしら?」「Try Yuko 」試してごらん、とラウルが言う。

 ウエイターが近づいてきて、私たちは二階の窓際の日本庭園が見える席に案内された。

メニューを広げてみると、日本文字とローマ字で書いてある。すき焼き、寿司、定食、天ぷら、しゃぶしゃぶ等々。迷ったが定食に決めてオーダーを済ませた。

値段は500ペソ、2000円ぐらいだが、内容はどうなんだろう。

 ラウルがトイレに立った。私一人のところにウエイターが近づいてきて、テーブルのわきに立ってなにかしゃべっている。スペイン語だ。チャンス、今聞いてみよう。

「I don’t speak Spanish ,do you speak any Japanese ? 」

(スペイン語は話せないの。日本語、話せますか?)

「Sorry I don’t speak Japanese 」ウエイターが答えた。そうか、やっぱりね、日本語はダメなんだ。

「would you like something to drink ? 」今度は英語だ。

「We had a glass of beer at down stair 」私の返事を聞いて、一度姿を消したウエイターが再び現れた時、トレイの上には飲みかけのビールグラスがちゃんと乗っていて、丁寧に私の前に置いてくれた。

 後ろから手が伸びてきて、私の目の前に何かを置いた。振り返ると着物姿のウエートレスで、紙を折って作った箸置きを置いたのだった。なんとそれには “燦鳥”と書いてあった。

 定食が運ばれてきた。次々にテーブルに並んでいく。ご飯と天ぷら、刺身、漬物そして味噌汁。私はまず、味噌汁に口をつけた。塩辛いだけでだしの味がまったくしない。天つゆは濃い醤油色、大根おろしはついていない、天ぷらは少なめ、刺身もちょっぴりだ。男性には到底足らないだろうこの量では。

「Not enough for you Raul ?」見ると、彼は、左手をきちんと膝に置いて、ご飯茶碗をテーブルに置いたまま、右手に箸を持ちぎこちなくご飯を食べている。その仕草は少し奇妙だ。あらあら、日本のマナーは茶碗を手に持って、と注意をした。忘れちゃたのかな、日本にいた時、日本食が好きでよく食べていたのに。

 

 帰りもタクシーにしよう。レストランの前でタクシーを拾った。若い男性の運転手は、神風タクシーかと思うぐらいの荒々しい運転で、雨上がりの大通りをぶっ飛ばし、瞬く間にホテルアラメダに到着してしまった。

  「洗濯をして、シャワーを浴びて、7時までにあなたの部屋に行くわ OK?」

アラメダホテルの前でラウルにそう告げて、私は一人でエレベーターに乗った。

 下着やブラウスを洗濯して、バスタオルで絞り、居間のテーブルに広げて干した。それから、シャワーを浴びてシャンプーをしたら、7時を20分も過ぎてしまった。私は大慌てで、素顔のままで、ラウルのパンダのぬいぐるみをつかんで、ホテルサンフランシスコに向かった。エレベーターは一人だったのでホッとし、彼の部屋をノックした。

「Yuko 、遅いから眠ってしまったよ」ドアを開けてくれながらラウルがあくび交じりの声で言った。

 部屋に迎え入れた私をラウルは背後から優しく抱きしめ、抱擁をとくと白いセーターを脱がしてくれて、私たちは素裸になってベッドに倒れ込んだ。

ラウルの濃密な make love を私は受け入れ、気分は落ち着いていて昨日の悲壮感のようなものは消えている。限りなく幸せで官能的な時間をむさぼり続ける。最後には彼に追い上げられ、私は高くそして高く舞う。

 

 裸のままラウルはベッドを抜け出ると、何かを手にして戻ってきた。

「This is my daughter 」彼が言いながら見せてくれた小型の写真には、可愛い女の子が笑っている。小さくて色白なキュートな女の子だ。

「She is so pretty 」私は言いながら、女の子を通して彼の妻を透かし見ようと写真に見入る。自分でも思いもよらず彼女たちに嫉妬しているのだった。

 「I’m so hungry , Yuko 何かを外に食べに行こう」下着をつけながらラウルが言った。

私はまだベッドの中に、うつ伏せでベターっと裸でいる。身も心も満ち足りているこの気分を、身動きしたりしてまだ壊したくない。どうして男はすぐ動き出したり、何か食べようなどと言い出すのだろう。

「No,I don’t want 」「Oh Yuko , I’m so hungry ! 」

夕食は早すぎたし、量も確かに少なかった。OK. 私はついに起きてセーターに腕を通し始める。

 鏡に向かって髪をとかしていたラウルが、「この櫛、むかし、Yukoのプレゼントだよ」と言う。櫛などプレゼントしたことなどあったかしらと思いながら、私は緩慢な動作でスカートを足元におろして足を入れる。官能の余韻がまだ残っているのか私の動きは鈍く、ラウルのそばに行って、20年以上前に私が送ったという櫛に対面するのを逃してしまった。このことに気づいたのはずっと後になってからだ。 

 私のカーリーヘアはふんわりと膨らんでいた。水分を補い専用の櫛でとかすと、それでOK、簡単にスタイルできる。ラウルはそれは too lazy だという。彼は相変わらず、ロングヘアにこだわり続けている。

 

 ラウルと私はホテルサンフランシスコの前の大通りを向こう側へ渡って少し歩いて、小さな食堂を見つけた。テーブル席が5・6個のこじんまりとした店だ。

カウンターの前の床には、野菜が泥付きのままどさっと置いてあってテーブルも椅子も黒光りし、長年使われ、傷が目立つのを雑然と並べてある。

 ラウルはメキシコ料理を私はビールを注文した。

店の奥には古い型のジュークボックスが置いてあり、知っているメロディーのスペイン語の曲が流れている。私にはこの店の雰囲気が何とも懐かしい気がする。

一番奥のテーブルでは、メキシコ人の女たちが三人、普段着らしい格好でビールを飲みながら、おしゃべりに夢中だ。料理を運んできたおかみさんは素っ気ないくらい無愛想だったが、親しみを感じたのはなぜだろう。初めてのはずなのに。

 私が腰を掛けている椅子のわきは太い柱で、ふさがれたように向こうが見えない。

何の考えもなく私はただ、向こうを見ようと体をねじって、身を乗り出すように柱から顔を出した。

思いがけないすぐ近くに男の顔があった。視線がぶつかった。子供のような顔をしたその男は鼻の下にひげを蓄えていて、笑いながら私に派手なウインクを送ってきた。

 

 ラウルに送られて私はホテルアラメダに帰った。部屋は暗くヨシはまだ帰っていない。明かりをつけてほっとした。もうすでに10時になるところだ。私はパジャマに着替えた。

 居間の方で鍵を開ける音が、私はドアに向かって走った。部屋に入ってきたヨシは私を見て、一瞬たじろいだ。すでにパジャマの私に驚いたのか。おそらく自分の方が早いと思っていたらしい。

 ベッドルームへとずんずんと歩いた彼女はベッドに腰を下ろした。私を見ようとはせず目を伏せたまま彼女はしゃべる。買い物をしたこと。レストランに行ったこと。

今朝と同じくらいイライラしている様子が分かる。私から目をそらしたまま彼女は話を続けた。

「あなたは来ないし、今日は私ずーっと一人で、小野さんは良くしてくれたけど・・・、今度の旅は全く想像通りになったわ、想像通りよ」

「想像通りでいいじゃない? なぜいけないの? ねえなぜ?」彼女は不安そうに顔を上げてやっと私を見た。

「だってそうでしょ。あなたは私の旅の目的知ってるはずだし、別行動といったって今日一日だけよ。それも一人だったわけじゃない。小野さんにあちこち連れていってもらったんでしょ・・・あのねえ私、あなたとうまくやっていきたいのよ。

この旅行失敗にしたくないの。私が彼に会わなければあなたは満足なのね。だったらいいわ、会わないわ、それでいいの?あなたと一緒にいればいいのね?」

「そうはいかないでしょう、彼に会うのがあなたの目的なんだから」

低い声で吐き出すように彼女は言った。

頭でわかっていても感情が許さないということなのか。

彼女のこういう態度は予想外のことだ。いや、その兆しはあった。旅行を決めた時、彼からの手紙のスケジュールを話したが、それでも行きたいと言ったのは彼女の方だ。でも一度「一人で行きなさいよ。その方がいいじゃない」とひがんだ言い方もしたが、その後、行くという態度は変わらなかったので、彼女は自身のプランを持ったものと思い込んでいたのだが、どういうことなんだろう。ひがみで言っているのか、ただ単に私が癪に障るのか。だとすると今更どうしようもない。

今後、どうするか。

私も「彼に会わなければいいのね」とは言ったが、正直そうするつもりはない。

自分の目的を変えてまで彼女に付き合う気はまったくない。

「今朝の彼の言い方、もし良かったら一緒に来ませんか?って、あれ社交辞令でしょ。本当には誘ってない!アメリカに行ったら、彼とどこへでも行きなさいよ。私はオプションに入るからいい!」

彼女のひがみはどこまでエスカレートするのか。

「今朝のラウルの言い方は、あなたが小野さんと会うのを知っていたからよ、で、もし良かったらと言ったんだわ、アメリカのスケジュールはもう決まっているでしょ? L・A に帰ったら、車の整備しとくって言ってた。彼はあちこちドライブしてくれるつもりなのよ」

「でも、もういいの! 私はオプションツアーで行くからいいの!」

「そう、サンディエゴもディズニーも断るのね。断っていいのね!」

「いいわ!」

彼女ははっきりと言い切った。彼女の覚悟はどの程度なのか、明日になれば分かるだろう。

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