第2話  テキーラの味

8月17日                        

 今日はツアーに組まれている一日だけの観光である。集合は9時30分。

私はヨシと8時30分に身支度を終え、朝食を取るためにエレベーターで下に降りた。

 「Good morning !」ラウルはエレベーターの正面に置かれた椅子にすでに座っていた。「このホテルにもレストランはあるが外に行こうか」ラウルが言う。

私も彼女も異存がなく、アラメダから数軒行ったところのレストランに入った。

 アメリカンスタイルのインテリア、いい感じだ。メニューにはメキシコ料理が並んでいる。ラウルが私たちに合いそうな料理を選んで、注文を終えた。

 まず、オレンジジュース、搾りたての氷なし、すごく美味しい。次にモーニングカップにたっぷりと入ったコーヒー、これも美味しそうだ、飲んだ、ぬるい!なんとなまぬるいコーヒーだ。ラウルがウエートレスを呼んで、

「Mas caliente cafe por favor ? 」(もっと熱いコーヒーを)と頼んでくれたが、運ばれてきた二杯目のコーヒーも全く同じぬるいコーヒーだった。メキシコに熱いコーヒーはないのかと早くも懸念がわく。

 料理が運ばれてきた。タコスの上に茶色のソース、ビーンズとチーズを練ったような付け合わせが添えてある。あ、これ、レストランの外まで漂っていた同じ匂いだ。あれはタコスだったんだと気が付いた。

味はまずまずでメキシコ料理も悪くない。

 私の右側に座っているラウルと目が合うと、彼は左目をパシッと、ウインクを送ってくる。うれしいが照れくさい。私はあいまいな笑顔を返すことになる。

「よく眠れなかったようだね、赤い目をしてる」「そうね、ふー」答えになっていない。とろとろと浅い眠りで朝になっていた。アタマの興奮状態は鎮火しないまま今日が始まっている。しかし、気分は上々食欲もあった。

 今朝のメキシコシティは涼しくて爽やかで、日本の10月ごろを思わせる心地よさだ。しかし昼はかなりの暑さになるという。私たちは食事を済ませてホテルに戻った。

「At six thirty, see you in the lobby, そして、ディナーを一緒に食べよう、OK?」

早口でこれだけ言うとラウルは、すたすたと道路の方向へ行ってしまった。

えっ、6時半?早すぎる。帰り着く予定は5時半なのだ。

「もっと遅くして!」という間もなく、彼の姿は消えていた。


 ガイドは昨日の田中さん、ロビーに全員が集合すると、私たちを引き連れてホテルの外へ、昨日と同じバス、運転席にはアントニオがいる。

「Buenos dias ! 」口々に言いながら私たちはバスに乗り込んだ。

 朝の街をもうすでに人々がぞろぞろと歩いている。バスはゆっくりと人々の間を走って、周囲を古い建物に囲まれた小さな広場で止まった。カクタスの上で蛇をくわえている鷹の銅像がある。これはメキシコのシンボルなのだそうだ。

 私たちはメキシコ人に混じってしばらく歩く。彼らの服装はまちまちで、夏服の人、厚ぼったいジャンバーやカーディガンの人がいる。男たちの皮膚は浅黒く、黒い髪に個性的な顔立ちが多い。何人かの女たちは瞼に濃いアイシャドウを入れて、つけまつげのような濃いまつげ。唇には真っ赤な口紅を塗り、舞台化粧をまじかで見るようで、少し気味が悪い。素顔の少女たちはとても美しい。

 バスは土産物屋の前で停車した。

 店の主人らしい大柄なメキシコ人が私たちを集めて話し始めた。上手い日本語だ。「これ、メキシコの龍舌蘭という植物です。全部何かに使う。捨てるところはないよ。真ん中を切って置いておくとお酒になります。葉は裂くと糸になり、硬いところはそのまま針になって使うのね、ほら」作って見せてくれた。なるほど!へー!とか誰かが言っている。

突然、時が来たとばかり、脇に待機していたらしいロバが大きい笑い声をあげた。

それは確かに笑い声に聞こえた。

「お話はそれで終わり、早くビールをくれーって言っているのね」店主がビールの栓を抜き、ロバの前の地面に置いた。ロバは待ってましたとばかり、ビール瓶を口にくわえグーンと首を伸ばして上を向き、瓶を傾けてごくごく瞬く間に空にしてしまった。ロバの目は幸せそうに笑っていた。

 私たちはまたバスに乗り30分ほどで停車した。

 広い礼拝堂でたくさんの人たちがミサを行っている、古い大きな教会の前だった。むかし、ここでたくさんの奇跡が起きたのだという。ここはとても神聖とされていて、信者は今でも膝をついていざって進まなければいけないのだそうだ。実際に膝をついて教会の入り口に進む人を、私は驚きと共に目撃した。

 私たちはまたバスに乗りテオティワカンの遺跡へと向かう。太陽はカンカン照り、バスの中はひどい暑さになりつつあり、窓から入ってくる乾いた風が唯一の冷房だ。

 バスは自然の風景の中を走っていた。龍舌蘭の畑、知らない植物などが沢山見えていた緑が姿を消して、見渡す限り茶色の小山がもこもこと盛り上がっているところに到着した。荒れ果て荒涼とした場所である。

風化で上の部分が無くなってしまった神殿のわずかに残る朱の色が印象的だ。

 補修中の神殿があって、シートで覆われている。石で造った虎の顔が突き出て並んでいるのが面白いので、私はカメラを向けた。他にも何人かカメラを構えている。すると、どこからかいきなり男が現れて、手を大きく顔の前で振りながら何かわめき出した。「写真を撮ってはならない。三日前からそうなった」と、言っているらしい。意味がよくわからない。男が横を向いた隙に、カシャカシャとあちこちでシャッター音が聞こえた。

 太陽と月のピラミッドが遠くに見えている。私たちはバスに乗り、ピラミッドのすぐそばまで運ばれていった。

麓から上を見上げた。完全なピラミッドの形をしている。そしてそれは、反り返って見る程に聳えている。太陽は私たちの真上にあって、一片の雲さえ見えない真っ青な空が広がり、眩しい光がサングラスを貫いてじかに入ってくる感じだ。

 「ワーオ!」「スゲー!」若者たちがエキサイトの声を上げ、ピラミッドに駆け寄ると早速登り始めた。

 わたし、どうしようか、あんなに高いところに登る気力が今日はない。寝不足だし、めまいを起こしそうだ。ヨシは私より体力がないと思うし、「やめとく?残念だけど」で、二人でバスに残ることにした。

 むせかえる太陽の光がバスの中に溢れて、ハレーションを起こしたように、何もかもがぼやけて輪郭が薄く、あいまいに見えるバスの中で、目を閉じ、心地いい風に頬を撫でられながら、ラジオから流れるエキゾチックな歌声を聞いていると、とてつもなくのどかで平和で幸せな気分だった。

 観光地であるにもかかわらずあたりは静寂そのもので、ピラミッドを登る人の声が、透明な空気の中をストレートに通過してくるのか、意外な近さに聞こえていた。

 時刻はもう午後2時、私たちのバスは昼食のためにレストランへと向かい、木立に囲まれた大きなレストランに到着した。

 用意されていた白いクロスのリザーブ席に自分の席を確保すると、私は大きな皿を手に料理が並ぶコーナーに行った。

生野菜、ポテトサラダ、焼き肉風肉、タコス、ぼそぼそしてそうなピラフ、何かわからない茶色のもの、ほうれん草のバター炒め等々。これらはメキシコ料理なのだろうかと思いながら、少しづつ皿にとって、席に戻った。

 飲み物は、やっぱりビール。初めてのメキシコのビール、カルタブランカは味は薄く炭酸も弱く、残念だが期待外れだ。

テーブルの白いクロスの上に、じかに最初から置いてあったフランスパンが私には一番おいしかったし、絶え間なくマリンバが流れる、メキシコらしいレストランであった。

 私たちが次に向かったのは土産物屋だった。

 「買いたいものがあったら私に言って下さい。伝票を書きますよ」ハンサムな男性店員がうまい日本語でそう言った。買いたいものをこの店員に言うと、伝票を書いてくれる。それを持って格子に囲まれた窓で支払い、もう一枚の伝票を反対側のカウンターに差し出し、包装された品物を受け取る、という、合理的なシステムの土産物屋だ。

私は三個の小さな物を買った。ドルで支払ってペソの釣銭を受け取ったのだが、計算に悩まされた。ペソをドルに、それを円に計算するので、高いのか安いのか判断がややこしい。

 次に立ち寄った宝石屋で私は最もメキシコらしいアイテム、14金のソンブレロのペンダントに出会ってしまい、買ってしまった。


 ホテルへ帰るバスの中で、田中さんがメキシコのタクシーの乗り方を話してくれた。

「メキシコには相乗りのタクシーがあります。これは、大通りをまっすぐ走るだけで、料金は一定です。曲がりたいときは乗り換えるわけです。ほらー今、横を走っている緑色のタクシーがそうですよ。それからメトロ、地上も走りますが、まず駅に行ったら地図をよく見ること、駅ごとに絵が決まっているので、自分の降りる駅の絵を覚えておいて、そこで降りればいいのです。難しい駅の文字を記憶する必要はない。メキシコには文盲のひとが多いのでこうなっているわけです」

 朝、ホテルを出発した時から、バスの中、広場で教会でと田中さんはしゃべり続けていて、メキシコにはどこかに膨大な金が埋まっているはずで、それを掘り当てれば、彼らはもっと大金持ちになれるはずだとか、その他、歴史の話、その場でのガイド、かなり熱心に話していた。話していたという印象はあるが、ほとんど私の耳を通り抜けていたようだ。拾い読みした本のように、所々頭に残るだけ、昨日のあの強烈な感激、ラウルの顔を見つけた時のドッキン!心臓の音、彼の姿が瞼に焼きつき、何度もあのシーンがよみがえり、脳裏をよぎる。その度に私の意識は昨日に立ち戻っていた。


 駆け足一日観光は日暮れとともに終わり、私たちはいささか疲れてホテルアラメダに帰り着いた。時計はすでに6時を過ぎ、ラウルとの約束が迫っている。

 食事の時間、やっぱり1時間後にしてもらおう。彼女とそう決めて、上がったばかりの5階から私だけ1階に降りる。ラウルはすでにエレベーターの正面の椅子に座っていた。ベージュのジャケットにダーク色のネクタイをしめている。とても素敵だ。私は一日中外で過ごして、化粧は剝げ落ち薄汚れて見えるに違いない。

「We just got buck a little while ago,so we need time to get ready for dinner・・・I’m sorry 」

分かって!そう念じながら私は言った。

「Why ? 」とラウル。私は同じ言葉を繰り返した。自分の英語に自信がなくて、消え入りそうな声、ラウルにだけ聞こえればよくて、ロビーにいる他の人たちには聞かれたくない。

「O k ,see you in an hour later 」ラウルはやれやれという風に頭を振りながら言って承諾してくれた。

 二人共シャワーを浴びるには十分な時間ではないので、顔と手を入念に洗って、メーキャップを丁寧にして、私はアイボリーのラメ入りセーターに黄色のスカートでおしゃれを終えた。

 エレベーターの中の鏡に映る自分の姿をチェックしながら1階に降りる。ドアが開いてあら、ラウルがいない。まさか怒ったわけではないよね。ロビーを見回していると、エントランスを入ってくる彼の姿が見えた。

「They have very nice restaurant at 17th floor 」(17階に素敵なレストランがある) ラウルが提案した。もちろん、私たちは賛成して、3人で乗ったエレベーターは17階までの距離のせいか横揺れが長かった。

 天井に散りばめられた無数の星、テーブルの上のキャンドルの淡い光、薄暗い中をテーブルに案内するウエイターの背中が白く浮かんで私たちの前を行く。

 窓際の席に座ったとたん、私は声をあげた。

「うわー!、すてき、すてき 見て 見て!」窓の外には、飛行機の上から見たのと同じ眩いあふれるばかりの光が輝いている。

室内の異常なほどの暗さはこのメキシコシティのきらびやかな夜の化粧を際立たせるためなんだと、気づいた。私の向かいに座るヨシの肩越しに、見事にライトアップしたラテンタワーが手が届く近さに見えている。

「私、下を見ないようにするわ。めまいがしそう」彼女が言う。この素晴らしい夜のメキシコシティを見ないだなんて、今、華やかな光で着飾った街は、昼のくすんだシティから想像ができない程変貌している。

 渡されたメニューはスペイン語でさっぱりわからない。

「Fish or beef which would you like ?」ラウルが私たちに訊いた。

「Fish ! 」二人の返事は同時だった。

「O K 」ラウルはメニューを見る。見ようとした。「N O 」彼は小さく言って、メニューをローソクにかざすようにした。

「Oh no I can’ t see it 」暗すぎるせいなのか、老眼のせいなのか、困ったラウルは「そうだ、彼に頼もう」さっきのウエイターを呼んだ。

中年のウエイターはラウルのわきに立って、口をすぼめた気取った表情でメニューを読み上げる。頷きながら聞いていたラウルはエビ料理に決めた。

「Want to drink something Yuko ? 」「Beer please 」彼女もビールで、ラウルはなぜかミネラルウオーターを注文した。

 レストランの中はとても静かで、テーブルの上だけがぼうっと明るく極端に照明が少ない。人々がひっそりと食事をしている光景は、影絵のようで、現実感が薄い感じさえある。外の世界、光の賑わいとは対照的な雰囲気だ。

 琥珀色のビールがたっぷりと入ったおしゃれなグラスが私の前に置かれた。

「乾杯!サルー!」飲んでびっくり。口当たりの良い素晴らしく美味しいビールなのだ。これもメキシコのビールなのか、カルタブランカよりはるかに美味しいではないか。すきっ腹に入ったビールは効き目も早く、身体がフワッとなってきた。

 エビ料理が運ばれてきた。大きな皿の真ん中に一塊という感じにエビが乗っている。味、付け合わせの量、ソース、どれもが絶妙なバランス、素晴らしく美味。

「It’s good ! very good ! 」彼女と私は連発しながら、スティックパンと一緒に全部平らげた。

デザートはコーヒーとケーキにした。

イチゴとジャムがべったりと乗ったチーズケーキ、信じられない甘さに、これ、本当にチーズケーキなの?

コーヒーは熱々で味も申し分ない美味しさだった。

 私は食後のタバコを吸いたい、と切実に思う。彼女を見るとすでに煙草を手にして「これ、私のデザート」と言いながら吸っているが、ラウルを気にして少し遠慮しているように見える。私はタイミングを逃がし吸うのを諦めてしまった。

 「Would you like to go to the Club last night ?」ラウルが私たちに訊いた。

「Sure, very nice !」ラウルの提案に彼女も私も大賛成。三人で昨夜のナイトクラブへ向かった。

 私はすでにほろ酔い。ヨシも酔ってしまったーと、頬をピンクに染めて暑い暑いと手で顔を仰いでいる。しらふはラウルだけだ。

 「I’d like Tequila 」席に着くと私は即座に言い、ラウルもテキーラを、彼女はワインを注文した。

 大きめのショットグラスに透明のテキーラとレモンと塩が運ばれてきた。

 私はラウルの真似をして、左手の親指の付け根に乗せた塩を舌の先でなめて、テキーラを一口ぐいっとやり、レモンをかじる。テキーラはぐいっとやるのが肝心らしい。しかし、私は完全に酔ってしまうのは怖い。それでテキーラをちびちびと舐める。実際もうすでに酔ってしまっているのか自分でもわからない。

 ステージでは昨日と同じ6人組が素晴らしい歌声を張り上げていたのが、いつの間にかバンドはチェンジしていた。石炭色の服の男たち三人組だ。さっきの若さと迫力に比べて、こちらはしっとりとしたムード派のようだ。

 ギターを抱えて三人組の真ん中にいる、小柄でしかも貧相に見える中年の男。彼がリードボーカルなのだろうか。品格がまるで感じられない。私は訝しく思いながら見ていた。

男が歌い始めた。想像もしていなかった素晴らしいハスキーがかった張りのある、それでいてセクシーな歌声がその唇からこぼれだしたのだ。そのつややかにのびる歌声、男のスペイン語を発音するその唇の動きが、何とも魅力的。私はすっかり見惚れてしまった。

 色が濃すぎるせいで真っ黒に見えるワインを、ヨシは舐めるような飲み方をしている。顔を赤く染めて、

「暑い、暑くてしょうがない」と楽しそうに見える。

「今夜、あなた行ってもいいわよ、どうぞ」私の耳に口を寄せて彼女が言った。

「I’ ll be with you tonight 」ラウルの耳に私は囁いた。

 ラウルも一緒に私たちの部屋に帰り、彼を待たせて、私は化粧品や下着をまとめてスカーフに包み、小脇に抱えヨシに向かって、

「じゃね・・・行くわ・・・これ何かへん」なんだろう。やっぱりへん。テレてるのか私。

 彼と腕を組んでホテルサンフランシスコに向かった。ホテルは今朝のレストランの角を曲がってすぐ右側にあった。

 アラメダより狭い感じのロビーを通り抜けて、エレベーターで3階で降りて、最初のドアがラウルの部屋だった。

 低いツインベッドが並ぶ部屋は何か殺風景な印象である。今、何時ごろなんだろう。時間の感覚がなくなったようで見当がつかない。私はさっきから時計をわざと見ていない。時間を知りたくないのだ。

 ラウルは服を脱ぎ始め、自分が終わると、優しい手つきで私のサマーセーターを脱がせにかかり、それが終わると下着に手をかけた。

「No ! never ! don’ t , I ‘m not young any more 」私は叫んで、ショーツ一枚で部屋の中、ベッドの上を駆け回る。なんで?自分でもわからない。

「Why Yuko ,ほんのちょっとだけ年を取っただけじゃないか・・恥ずかしい?」

「Yes ・・・I need take shower 」

「OK take shower together 」「NO ! 」

「Why not ,we usuary take bath together ,覚えてないの?」

忘れてはいないけど、今は恥ずかしい。2年ではない。20年も過ぎてしまった。

 結局私は一人でバスルームに行くのを許された。湯と水の調節がうまくいかないシャワーで、手早く身体を洗い、備え付けのバスタオルを身体に巻きつける。なんと、タオルが小さすぎて身体の真ん中を覆うだけだ。やだ、どうしよう、でもしょうがない、エイッとばかり勇気を出して、バスルームを出て、すでにピタリと寄せられたツインベッドの中に駆け込む。ラウルはしっかりと私を受け止め強く抱きしめた。情熱的でやさしいキスを絶え間なく私に浴びせながら、甘いささやきを熱い吐息とともに私の耳に吹き込んでくる。

「If you want Yuko ,I make you love all night through 」彼は限りなくやさしく、so strong 。私の意識はやがて朦朧として、身体は浮遊し、何度も舞いながら、頭は空白になった。

 

 私たちは小休止をして、離れかけるベッドをくっつけ直す。そんな時ラウルはいろんな話をした。私は彼の英語に慣れ始め、二人きりのせいか私の言葉もスムースに出てくる。

一緒に見た映画の話、やっと実現させた旅行、熱海や奈良の思い出。私たちは20年を遡り、再び青春の中にいた。彼が話すと私はそれを追いかけ、それらはまったく一致している。記憶が一致しているって、すごくうれしい。

 何度目かの抱擁の後、愛し合った余韻を残したまま、私は彼と並んで静かにベッドに横たわった。眠ろう。眠らなくっちゃ、昨夜もあまり寝ていないのだから。

目をつぶった。すると、突然収容しきれない考えや想いがどっと押し寄せてきた。

まったく昨夜と同じだ。どうしてこうなるのか。私は目を閉じた。だが、頭と心の興奮状態は静まってくれそうもない。

身体は疲れているのだから、すーっと眠りに入っていけばいいはずなのに。

 と、次の瞬間、私は今までの生活を思い出した。ギャンブルに明け暮れる夫と暮らした年月、あれは何だったのだろう。何も築くこともなく終わってしまった。

ここで私は後悔しているのだろうか。

 今、私はどこにいる? メキシコシティのホテルの部屋にラウルといる。これは一体現実なの? そばにいるはずの ” 彼 ”は本当に存在しているのか、暗い部屋のベッドの中はひどく孤独で、情熱の後に潜んでいた不安はどんどん膨れ上がり、私の胸を圧迫してくる。呼吸さえ苦しい。この不安から逃れたい。出口を探してせりあがってくる何か、絶叫すれば収まるかも。でもそれはできない。からだの中を駆け回る奇妙な不安を彼に知られたくない。

狂いそうな意識を抑え込み、ことさらゆっくりと呼吸を詰めて起き上がりベッドから降りた。

窓に近づきカーテンをそっと開けて、下を見下ろす。ここから飛び降りたら?どうなる?

窓を開けなくちゃ、彼が起きてしまう。部屋の中を歩き回ってみようか。

(ああ、はやく明るくなって!)願いと同時に私は何か声を発したらしい。

ラウルの声が答えた。

「What happened Yuko ? 眠れないの?明かりならバスルームの電気をつけて、ドアを少し開けておくといいよ」

言われたとおりにすると部屋は薄明るくなり、不安は多少減ったようだ。私はベッドに横になった。

 と、まもなく、天井を向いてぽっかり開いている私の目から涙がじんわり湧き出した。暖かい涙があとからあとから溢れ出る。私は身じろぎもせず、声も出さずに涙をあふれさせ泣いている。どうしようもない。自分でも呆れるばかり。

「What the matter ? are you cry ?」そう言ってラウルは私のほほにそっと触れて、

「What ‘ s wrong Yuko ? 」彼が途方に暮れた表情をしているのがぼんやりと見える。

ほっといてくれればいいのに。彼が眠っていてくれたら。部屋の中を歩き回るか、声を出さずに思いっきり泣けばさっぱりするのに。気にしてくれるラウルが今はうらめしい。

 起き上がり頭を抱えて、私は声を出した。ついに声が出た。

「あー、弱ったなー、こまった、あー困った、まいったなー」乾いたのんびりとした声だ。これ私の声なの?その声を聴いて安心しているもう一人の自分がいる。

頭と体が分離して、頭は冴えて、身体は壊れてしまったような奇妙な感覚。泣きたいわけでもないのに、勝手に涙がぶわーんと溜まってくる。

「Yukoの身体は突然の愛にびっくりして壊れたのかな?」

そうあなたの言う通りよ。心がつぶやく。

 寒い。急に感覚が戻ったらしい。なんと私は裸だったのだ。ショーツとペティコートを着たが、上に着るものがない。パジャマを忘れてきた。

「Are you cold ? 私の T シャツを着るといいよ」気配に気づいたラウルが言って、白いシャツを貸してくれた。

 カーテンの隙間がかすかに白んできている。夜明けが近いのだ。私は窓際のゆったりとした椅子に腰を掛け心が落ち着くのを待った。目を閉じてみる。すーっと眠れそうだ。私はベッドのラウルのかたわらに滑り込んだ。

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