第三章 ハンカチに書いた卒業証書 三
気づかないほうが、身のためにはよかったのかもしれない。
でも、こっちが何か気づいた、というのを気づかれてしまったみたいだ。
スイは、黙って僕の言葉を待っている。
厄介なことになったぞ。ライブに影響を与える、へそを曲げさせてしまう言動は慎まなければ。
まったく。扱いが難しいんだよな、この子は。
顔色を覗ってみた。
だいじょうぶ、まだ機嫌は悪くない。けど、ここからが大事。果たして、何を言ってほしいのか。
……見当もつかない。
黙りこんでしまった僕に対し、しょうがないなという態で、ヒントをくれる。
「今日、何の日か知ってる?」
「そっか。誕生……」
おっと。トラップだ。スイが僕に、こんな簡単に、素直に、自分の個人情報をさらすわけがない。
とすると。
誰でも知っている、今日は、えっと……。
僕は、
現在日時 2061年3月4日、20時――
顔を見た。もろに目が合う。
水晶の目だ。意地の悪い性格に反し、瞳はなぜか、澄みわたっている。
スイは、背は高くないけど、顔は大人びている。僕と同じ高校生に見えてしまうけど、世界中のJKはバタフライ・ロストで飛ばされたから……。
それに、鉄子さんとの結婚式に乱入してきた時、自分でぽろっと十五歳って言ってなかったっけ?
とすると、今の学年は、LJC――中学三年生。
中三にとっての三月。
ははん。これか。気づいてほしかった、こっちから触れてほしかった話題は。
「卒業式。今日は、地球にいたとしたら、君の卒業式だった日なんだ」
スイは、僕が一発で当てられたのが意外だったらしい。ちょっと悔しそうな顔もしている。
「やる? 卒業式」
「えっ」
我ながら、いい思いつきだとは思った。だけど、乗ってくるとは思えなかった。キャラ的に、この子はそういうのが嫌いなはず。
「うん」
耳を疑った。『えっ』と声に出してしまいそうになった。
以前鉄子さんがやらかした結婚式ごっこよりは、よっぽど乗り気だ。なんだかんだ言いながら、照れくさそうなはにかみ笑いすら浮かべている。
「何するの?
ヘタレ君は誰役?」
矢継ぎ早に、僕が呼ばれたくない名前をわざわざ使って催促してくる。
「もちろん……」
何も考えてなんかいない。アドリブでいくしか。
「校長だよ、僕は。見て分かんない?」
スイは、僕の高校の制服姿を、改めて上から下まで確認してから、笑いをこらえようと腰を折り、でもこらえきれずに、
「ぷっ」
と、例の、胡椒の玉をぶつけられたように目口をすぼめる変な笑い方で、一つ吹き出した。
「校長がやること……そうだ。卒業証書、書いてやるよ」
瞳が光を映し、緑がかってきらめいた。少しは興味を示してくれたけど。
「でも、紙なんてどこにもないよ」
輝きはすぐに消えかかる。
締め付けられるような痛みを感じた。
光を消したくない。
強く、そう願ってしまった。
「ペンならあるんだけど」
即座に、僕は制服の上着の胸ポケットに手を突っ込んで言った。
「あとは……。もうこの際、紙じゃなくても」
腰ポケットのほうには、入れっぱなしにしていたハンカチがある。
両方、エックスパーツに来た当初から持っていたものだ。ノートなんてないし、ここでは汗もほとんどかかなくなったから、持ってるのすら忘れていた。
ペンとハンカチ、両方とも使おう。
ハンカチは白い無地で、まだなんとか代用にはなりそうだったけど、サインペンは細口。文字を書いても読みづらい。でも、そんなこと言ってられない。
うろ覚えの適当な文章を、僕はつらつらと書き連ねていく。ハンカチが、にわかににぎやかになっていく。
文面を書き終えそうになったところで、
「名前欄、何て書いとく?」
と尋ねた。
〈スイ〉か、〈水晶髑髏〉か。
いや、格好自体を嫌ってるんだし、ここは『空白でけっこうです』とか何とか。そんな反応になる。きっと。
ここまでのつき合いで、おまえの思考などお見通しだ、水晶髑髏。
――と思っていたのに。
不意を突かれた。
スイは、いともあっさりと僕に本名を告げた。本当の名前なんて、絶対教えはしないと高をくくっていたのに。
しどろもどろになっているのを悟られないように、必要以上にうつむいて、顔を全部隠しながら、スイの口にした名前をそのまま空白部分に書き込み、埋めた。
僕は、ちょっともったいぶってゆっくりペンを仕舞ってから、スイの顔を見た。
そうして僕は、スイの本名と自作の文面を読み上げる。
「卒業生代表、――さん。
あなたはこの三年間――」
受け取り手こそ本物の、中学の卒業生だけど、それを除けば、本格的な要素は何一つない。
屋外。学校どころか家屋の一棟もない広野。
卒業生徒、一名。
参列者、ゼロ。
「よって、ここに――」
渡すのは一介の高校生。
書いたのもそう。
文面は適当。
「卒業後も――」
何もかもがちぐはぐで。チープで。
「ふふっ」
スイが笑った。
たぶん、思っていたのは僕と同じことだ。
こんなことで機嫌がとれるとは。何でもやってみるもんだ。
スイは、途中ではっとして、姿勢を正し、手を後ろに回して組み、再び静聴する。
「西暦二〇六一年三月四日」
最後の行、今日の日付を読み終えた。目が合う。
「校長、――」
お返しってわけじゃないけど、最後に、何気に自分の名前も明かしてしまった。
僕はちょっともったいぶって間を置いてから、ハンカチを上下逆に持ち替えた。文字が、相手のほうを向く。
スイは、神妙な面持ちで頭を下げてから、僕の差し出した、ハンカチに書いた卒業証書を、うやうやしく諸手をかざして受け取った。
その後の反応も面白かった。
スイは、もらったそれを、折りたたむのではなく、右から左へと丸めたのだ。
授与されたハンカチは、スイにとって、布ではなく、厚紙なのだ。
「この卒業証書、もらっちゃっていい?」
「使わなくなったし、いいけど」
スイは、満足げにそれをドレスのポケットに仕舞いながら、
「何か、お返しあげないとね」
と言い出した。本人も、らしくないことを言い出しちゃったと自覚したっぽい。なんだか照れくさそうに、顔を赤らめてさえいる。でも、一度言ったからには、後には退かない。そこは、負けん気の強いスイらしかった。
「スイは、何もマテリアリゼーションなんてできないだろ」
「そういうんじゃなくって、うんとねー……。
こういうのなら」
全く予測なんてつかない。何を始めようとしているのか、さっぱり見当がつかなかった。
誰もいなくなった無人のステージ前で始まったのは――。
「サイリウムの振り方、教えてあげるよ」
「へっ?」
「この前、マテリアリゼーションしてたでしょ。今、それ持ってる?」
「あ、うん」
僕は素直に、ハンカチの入っていたのとは逆側、右の腰ポケットから一本、未使用のサイリウムを取り出してしまった。
「振り方くらい……」
不意に手首を掴まれた。
「ほんとに分かってる?」
そんなの教えられなくたって、と言い返す前に、右の斜め後ろから、左肩と右腕をそれぞれ左右の手で掴まれだ。スイは、僕の体を操ろうとする。
「こうだよ。こう振るの」
「……うん」
「こうだよ」
始まったのは、〈サイリウム振り方講座〉だった。
スイは、僕に寄り添ったまま、サイリウムの振り方を教えてくれる。……頼んでなんかいないのに。
光っていない、未使用の棒が振られる。
何のつもりだ?
この子は、僕のことを、いったいどんな存在だと思っているんだろうか。
たった一人しかいないファンか? それとも、衣装係か? 雑用係か?
いや、雑用係だと思っていたら、こんなことまでやってはくれないだろう。
「こう」
前に。後ろに。前に。後ろに。
押して。引いて。押して。引いて。
「こうだよ。こう」
自信ありげに言いきっているわりには、スイの動作もぎこちない。でも、その動きに身を任せているのも心地よかった。
……ということは、もっと特別な存在だと思っていたのか。
いつからそう思うようになった? きっかけはどんな出来事だったんだ?
通信可能日ぼっち組の頃からか? それとも、もっと後になってから?
……思い当たる節は、ない。全くないぞ。
スイの気持ちの変遷は、充分に伝わっていなかった。ずっと、分かってあげられなかった。
この子からは、ずっと、事あるごとに睨まれ続けていた気がする。
けど、必ずしも、それは、そのままの感情表現ではなかったってことなのか。本心を、真の感情を隠すために、逆の表情をつくっていたっていうのか。気づかせないために。
分からないことだらけだ。心の中が、この段になっても、見透かせずにいた。
難しい。本当に扱いが難しい奴だ。
くよくよしているうちにも、時間は過ぎていく。考えこんでいるのに合わせて、相手は、待っていてはくれなかった。
「ヘタレ君、表情が固いよ。
楽しいでしょ」
「うん」
「それなら、もっと楽しそうに振らなきゃ」
スイは、すっかりお姉さんのオーラを醸し出していて、年上面をかまして、僕に手ほどきをする。――しているつもりになっている。でも。
前へ、後ろへ。
前へ、後ろへ。
サイリウムを振る行為の最中、スイはもう、必要な言葉以外、漏らさなくなっていた。寡黙に、事を進める。息が、時折り漏れる程度。だから、何を考えているか察するのは困難になった。
説教かましたからには、自分も楽しんでいるんだろうけど、目つきはいやに真剣だ。一心に集中し、耽っている様子だった。
こうなったら、自分の気持ちも、今、伝えるしかなかった。言葉のやりとりではない、サイリウムの振り方で。
僕だって、スイに負けないくらい、真剣な目つきになっているのだろう。
もういいや。それが全部、ばれてしまっても。気持ちが、思いの丈が、伝わるのなら。
二人で、重なって、同じ動作をする。
僕が動けば、スイの体もつられて動く。
スイが動けば、僕の体もつられて動く。
押して。引いて。押して。引いて。
この一体感は、何事にも替え難い心地良さがあった。
スイは「こうだよ」と言って、サイリウムを振り続ける。
僕も「こうか」と返し、同じようにサイリウムを振り続ける。
スイはまったく飽きることなく、しつこいくらいに単調な動きを繰り返している。
でも、それは、僕も同じだった。
僕たちは、それしかできなかった。
前へ。後ろへ。前へ。後ろへ。
「こう?」
「そう」
「こう?」
指図通り動かすのは癪なので、僕は少しリズムを狂わせ、でも、そうすると、スイは睨んでくる。
呼吸が粗くなってくるのを隠したいけど、隠しきれない。
でも、それは、スイも同じだった。バレバレだ。だから、こっちのも、バレバレに違いない。いいや、お互い様だ。
「そう。そうだよ」
「こう?」
「そんな感じで」
「こう?」
「いいよ。続けて」
「こう?」
「うん。そう。そうだよ」
ドレスの滑らかな生地越しに、スイの体温が上がっているのが伝わってくる。無駄な肉のついていない華奢な身体。スイの腹部とか胸とかの体温の上昇は、いよいよ隠しようがないレベルに達していた。火照りまくっていた。自分ではよく分からないけど、僕も、同じように火照ってしまっているのか。
宇宙の果てで、僕は今、アイドルに、サイリウムの振り方を教えてもらっている。
広い宇宙の端の端で。
僕たちは……。僕たちは……。
*
夜が明け、何も明るさは変わらないまま、しかしライブ当日がやってきた。いよいよ、OPSにとっては二回目の、セカンドライブ――ラストライブ、本番だ。
この大事な日、いきなりメンバーの動揺を誘う事件が発生した。
リモートチャージ場で、
二十メートル先に見える、OPSがこれからライブを行うステージを、右手を水平やや上に持ち上げ、人差し指で指し示す――という不可解なポーズのまま。
「リモートチャージの接続ができてなかったのかな」
最初は皆、鉄子さんのこの言葉のように、
だけど、キティラーが、
事ここに至り、メンバーたちは、ざわつき、焦り、取り乱し始めた。
「そんな……」
「おかしくないですか?」
「私だって分からないわよ。どういうこと?」
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