*


 僕の家路に蜜成も着いてきた。僕らは坂道の頂上に自転車を止めて、通行人や車の往来の邪魔にならないよう道端に寄せた。蜜成と僕は電波塔の根本に続く斜面を慎重に下った。

 天使は体ごとこちらに背中を向けて寝ていた。

「確かに、ほとんど人間だ。まあ昔の絵画なんかに描かれていた天使も、体つきは人間とほとんど同じだったし、違和感は無い」

 蜜成は言った。天使は彼の声で目覚めたのか、小さな唸り声を上げた。腕を思い切り伸ばして伸びをしている。覚醒時の仕草までもが人間そっくりだった。僕らに羽が生えたら目の前の天使のようになるのだろう。

「来客?」

 天使は体ごと振り返る。眠たげな眼は焦点を調整中なのか、なかなか僕や蜜成の目と合わない。

「深町に話を聞いて、来た。一目見ようと思って」

「私は見世物じゃないのだけれど」

「見世物になっても、ならなくても、どうせお前はそこで寝ているだけだろう?」

 僕は皮肉を言ったが、天使はそれも意に介さず「それでも見世物じゃないことに変わりはない。誰だって寝たきりの人間を知り合いに見せようなんて思わないでしょう?」

「しかし君は寝たきりでも無ければ、人間でも無い。天使はこの世界では特別な扱いを受けてて、だから見世物にされるんだ。天使は珍しいし美しいからね」

「天使が珍しいかつ美しくて特別な扱いを受ける生物だとすれば、こんなところに電波塔を建てるべきじゃないと思うのだけれど。だって、私は電波塔のせいで羽を失って……」

 僕は冗談交じりに言ったのだが、天使には冗談が通じないのか、あるいはただ彼女が頑固なだけなのか、怒りのこもった口調で返された。

「もう、いいだろ。電波塔に恨み節を吐いたところで何も変わらないし、君だって昨日の時点で『既に羽に対する未練は無い』と言っていたじゃないか」

 僕は天使をなだめるように言った。蜜成は無表情で僕と天使のやり取りを聞いていた。彼の無表情は、静かな草花を思わせた。揺れて、音を立て始めた途端に何か恐ろしいものに豹変してしまうような危うさがあった。いわゆる怒ると怖い類の人間なのだ。

「まあ、そうだけど。私が言いたいのは、この世界では別に天使は特別な扱いを受けてないって話」

「あれは冗談だ」

 僕は言った。

「冗談? もういい、あなたと話してると疲れる」

 天使は大きくため息を吐いた。露骨に不機嫌になってみせる天使は、やはり人間のようだった。

「もう帰るよ。暑い。だけど良いものを見せてもらったとは思う」

 蜜成は退屈そうに呟いた。良いものを見せてもらったが、実際の天使はこんなもんか。彼の言葉の続きを勝手に想像した。

 彼を引き止める理由も特に無かった。彼が斜面を登りきったのを確認すると、電波塔の根本の石板に座った。天使のつま先が目の前にある。彼女は白いワンピースを纏っている。スカートの中が見えそうだったが、天使の裸など絵画で何度も目にしている僕にとってそれは常時外気に晒されている手足や頭と同類だった。彼女がどれほど艶っぽいポーズをとったとしても、スカートの中の神秘性が急速に輝きを増すことは無い。いや、そもそも、初めから天使のスカートの中に神秘性を見出していないのだから、神秘性に伴う光やその輝度も存在すらしないわけだ。

「そんなところでずっと寝ていたら熱中症になるぞ」

「天使に体温は無い。だから汗もかかないし熱中症にもならない。試しに触ってみる? 手くらいなら良いよ」

 天使は起き上がった。つま先が視界からフェードアウトし、彼女の整った顔が眼前に来る。そんなに近づかなくても良いのだが、彼女の表情を見るに、冗談のつもりで顔を接近させているようだ。僕は彼女のスカートの中よりも、顔に性的な衝動を覚えた。僕のことを何とも思っていなさそうな、余裕気な目つきをどうにかしてやりたくなった。僕は彼女の合図も待たずに、いきなり手を握った。確かに体温が無かった。冷たくもなければ熱くもない。ぬるいというわけでもない。ただそこに手があるというのは確かな事実だが、温度が感じられなかった。夢の中で好きな子とキスをして、相手の唇の感触を感じるより先に目覚めた三年前の夏の朝のような気分だった。あの時、好きな子の唇の感触を知らないまま目覚めたように、天使の温度がわからないのだ。

「そんなに触りたかったの?」

 彼女は相変わらず、余裕気だった。僕は、僕の計画が一瞬にして失敗し、終わったことを悟った。唇にキスをすれば、少しは相手もたじろぐかもしれないが、僕の理性がその衝動を抑制した。

 天使の手をずっと握っていると、徐々に自分の体温が失われていくような気がしてきて、静かに手を離した。じわじわと揺れる草花の波形のように、遅々とした速度で、けれど着実に僕の体温が天使の体に移送されていくような不快感があった。

 羽の切れた天使は天使である意味を失くし、いっそのこと人間になろうと思い付き、そうするにはまずは体温が必要だと考え、僕から奪うことにした。天使は僕から体温を奪い、自らは羽のある人間となる。一方で、体温を失った僕は羽の無い天使となる。そういうシナリオが頭の中を駆け巡った。僕は、天使の余裕気な眼差しから少量ながらも敵意を感じ取っていたのかもしれない。こんなにも容易に天使に触れることができるのは、その後で巨大な代償が待ち受けているからなのだと、僕は無意識に考えていたのかもしれない。

 とにかく僕は天使から手を離した。彼女は「もう良いの?」と言った。

「君はいつまでそこにいるつもりなんだ」

 僕は彼女の問いかけを無視した。

「死ぬまで」

「死ねるのか、天使が?」

「死ねる天使もいる」

 天使は言った。さも当然かのような言い方をしていたが、天界の存在である天使が死ぬというのは変な感じだ。

「死んだら天国に行く。天国でも死んだら、消える。それだけ。天使は死んだら消えるの」

 天使は言った。

「じゃあ訊くが、どうやって死ぬつもりだ。熱中症はダメなんだろう?」

「餓死」

「飛び降りは?」

「昨夜、私は羽が切れて自由落下したのよ。天使の体は落下に耐えうるの」

 天使は悲しげに言った。そして、「死に方を選べないの」と付け加えた。

「餓死するまで、あとどれくらいかかりそうなんだ?」

「持って三日かな。私、見た目は若いけど実年齢は君より上だし」

 僕は彼女に対して、いなくならないで欲しいだとか、あるいはずっとそばにいて欲しいなどといった欲望は抱かなかった。餓死するなら勝手にそうしてくれとすら思ったくらいだ。

 それでも翌朝、僕が天使のもとへ食料を届けに行ったのは、何かの間違いで彼女にもう一度羽が生えてくれたらと祈ったからだ。僕はコンビニで買ったスティックパンを彼女に押し付けた。彼女は「本当にモノを入れたくなったらセミでも食べる。だから大丈夫」と言って頑なにパンを受け取ろうとしなかった。

「セミなんか食ったら、それこそまずくて死んでしまう」

 僕は一旦、押し付けていたパンを引っ込めた。

「死ねるならそれでも構わないのよ。飛べないのに、戸籍もないのに、生き延びろなんて無茶だから」

「でも、食べ物を口にしたら羽が再生するかもしれない。希望はあるだろ」

「いい加減なこと言わないで。次、羽に関することを口にしたら君を殺すから」

 天使の険しい表情を見て、彼女にしてやれることなど何も無いのだということを思い知らされた。僕にできるのは、切れた天使の羽を、寂しくなった天使の背中を、黙って見守ることだけだ。


  *


 あれから三日後、僕は電波塔を訪れた。天使は干からびたように死んでいた。空腹がよほど苦しかったのか、目元から頬にかけて透明な線が伝っていた。

 天使と主に関わっていたのが蜜成だったなら、天使とも難なく打ち解けて、羽を失った天使の絶望的な状況を打開することができたかもしれない。天使と出会うべき人はきっと、僕ではなかった。僕は天使に近づくと、まだ鮮やかな白色を保っている羽を引っ張った。天使の背中の中から、まるでロープがちぎれていくような、ブチブチという音が聞こえてきた。

 羽は背中から抜けて、僕の手にある。天使の背中から溢れ出た青い血が緑の地面を汚した。ドロドロと流れる血にどこか生命を感じてしまい、彼女がまだ生きているかのような心地がした。

 なぜこんなことをしたのかと言えば、罪悪感に苛まれていたからだ。天使を救えなかったことは罪であるような気がしてならなかった。僕は早々に天使の介抱を諦めて、彼女を見殺しにしてしまったのだ。それのどこを取れば無罪と言えるのだろう。いや、どこを取っても僕からしてみれば有罪だ。しかし、この世界の法律に則れば天使を見殺しにすることは罪ではない。だから僕はせめてもの償いとして、飛べなくなった彼女から羽を抜き取って天使特有のアイデンティティを失わせ、彼女を人間とし、僕は殺人容疑でつかまろうと考えたのだ。体温が無いという特性は、冷たくなったという見解で割り切ることができそうだと考えた。だからその点について詳しい策を練ったりすることはしなかった。

 だが、天使の血が青いとわかった今、彼女が人間として見られる日は来ないだろうと思う。

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スワンソング 筆入優 @i_sunnyman

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