スワンソング

筆入優

 周りを緑の草と田園に囲まれた緩やかな坂道を登っていく。右手には山がある。一応僕が自転車を走らせているこの道も山に分類されるのだろうが、切り開かれた景色と舗装された道路が僕にここを山だと思わせない。何せ右手のほうは木々が生い茂っていて、いかにも山というようななりをしているからだ。

 額を伝う汗が鎖骨で止まる感覚が妙にくすぐったい。自転車のハンドルから片手を離し、鎖骨を掻くでもなく、くすぐったさを軽減するために適当に触った。そうするうち、汗は制服のワイシャツと腹の間に滑り落ちていった。背中のほうはワイシャツと背中がくっついてしまっていて、汗が余裕で滑る込めるほどの隙間が失われている。だが、僕がそう思っているだけで実際は難なく滑り込むのが現実だろう。まるで、ゴキブリがごく僅かな隙間から侵入してくるように。僕は先日風呂場に出た黒い塊を思い出して震え上がった。全ての汗が一瞬、引いたような気がした。

 この坂道を登り切るのには二分とかからない。僕はもう、電波塔がそばに聳える中腹に来ていた。日中は存在感のあったそれが、今は暗闇に溶け込んでいる。どの集団でもやっていけるような大変人当たりの良い友人を思い出した。彼の基盤となる性格は、僕と同じように付き合う人を選ぶという回路で構成されているが、彼に限って言えば、子宮にいる間に特殊なものでも与えられたのか他に類を見ない社交性も兼ね備えていて、必要な時に限りそれは発揮され、いかなる集団にも溶け込んでいく。彼は、自分に友人が足らないと思えばあまり付き合いたくない人間にもすり寄っていく。「それは付き合う人を選ぶという信条に反しているだろう」と指摘すれば、「相手に一定のラインさえ踏み越えさせなければ、親密になることはない。それはつまり、付き合う人を選べているということだ」と返してくる。実際、彼と親密な人間は彼の気に入っている人々ばかりだった。僕もその中にいるつもりだ。

 彼のことを思い出しているうちに坂道の頂上にたどり着く。後は下った先の平坦な道を進めば家路は終わる。

 自転車のギアを二段上げた。背中から突風が吹き付けた。僕は急ブレーキをかけた。草花の擦れる音に空恐ろしいものを感じた。薄暗がりの中に、揺れる草花の波形を見た。風一つなかった七月の夜にいきなり突風が吹くというのには、どこか人工的な意図を感じずにはいられなかった。僕は自転車を降りて辺りを見回した。右手に暗闇が、左手には街の明かりが見えるばかりだった。巨大な送風機も無ければ、去っていく怪しい人影も無かった。しかし人工的だと感じてしまったのだから、これはきっと人工的な何かなのだろう。突風は稀に見るが、十八年間の中で感じてきたどれよりも人工的だった。

 電波塔のほうから鈍い音がした。僕は一度だけ自殺現場を見たことがあるのだが、当時聞いた落下音に似ていた。しかし、辺鄙な場所に位置する電波塔をわざわざ飛び降りスポットに選ぶ人間がいるという仮説は受け入れ難かった。辺鄙な場所でなくても、同じように受け入れ難い。電波塔を一人の力で登りきることは、ほとんど不可能に近いのだ。僕であれば触ることすら恐れる。電波塔に触るだけで感電するのか、しないのか、それらの答えを知らないからだ。自殺を企てていた人ならあらかじめ調べたうえで自殺をしに行くのかもしれないが、感電死が可能ならわざわざ登る必要は無い。

 小走りで電波塔のそばに行くと、仰向けに倒れている人影があった。その人は泣いていた。暗闇で顔はよく見えなかったが、髪は長く、女の泣き声だった。僕は彼女が生きていることにまず安堵した。そして、彼女が背中を向けた瞬間に見えたモノに目を疑った。彼女の背中から真っ白な羽が生えている。暗闇でよく見えないが、表面は鶏の羽根のように柔らかいテクスチャを描いている。僕は救急車を呼ぶという選択を選択肢の中から取り除いた。片方の羽は短いのではなく切れている、あるいは何者かに切られたのかもしれなかったが、それが手術で元通りになるとは思えなかった。僕はこの時点で彼女を人間だと認識することを諦めていた。電波塔のそばに落ちていたのは人間ではなく、天使だった。僕はいつの間にか止んでしまった揺れる草花の音に救いを求めていた。静けさと暗闇の中で得体のしれない天使と邂逅するということについて、恐怖を覚えないほうがおかしかった。揺れる草花の音に空恐ろしさを感じていたのは事実だが、今では静けさのほうがより恐ろしく、前者がある種の希望、あるいは救済のように映っている。

「そこに誰かいるんでしょ? 私にはわかるの。そう、わかるの。泣いていても、羽を失ったとしても、私はいつものように時間の流れを感じる、景色を見る、そばにいる人あるいは人とは別の何かに話しかけることができる。けどね、羽は元通りにはならない」

 天使は泣きながら言った。嗚咽で震えていた。喋るのも苦しいほどに泣いているのなら無理に喋らなくてもよかったのに、彼女はあえて喋った。それは、彼女が僕とのコミュニケーションを図ろうとしていたからかもしれない。何も言わずに立ち去るのは、彼女に対して無礼だと思った。

「羽はいつどこで切られたんだ?」

 彼女の話を聞いたところ、自ら羽を切断したとは考えにくかった。

「さっき電波塔に引っ掛けたの。今もてっぺんに切れた羽がかかってるわ」

 僕は電波塔のてっぺんを見上げた。羽はもうどこにも無かった。

「突風は君がやったのか? それと、落下のような鈍い音も」

「そう、私よ。引っかかった羽を外そうと思い切り動かしたら、風だけが生まれた。動かしたことによって羽は電波塔に深く食い込んだ。私は自分の力だけではどうにもできないことを悟って、最後の賭けに出た。もう一度羽を大きく動かすと、更に深く食い込んだ──いや、食い込むというのは適切な表現ではないかも。最後の賭けに出た結果として、私の片方の羽は電波塔に貫かれたのよ。自由落下ってこんな感じなのね……知りたくもなかった」

 彼女はもう泣き止んでいた。羽の喪失は、人間に例えると腕を切り落とされるのに近い現象だと思うのだが、どうして彼女は数分間の涙と嗚咽だけで落ち着けるのだろうか。僕が腕を失えば、ショックのあまりどこかから飛び降りてしまうかもしれない。 

 僕は腹の底が沸騰する音を聞いた。彼女がこんなにも冷静でいられることに、僕は納得がいかなかった。

「悲しくないのか。苦しくないのか? 君はさっきまで泣いてたんだろう? 羽を失って、もう飛べないと知って、少し泣いただけで気分が収まるのか? いや、確かにそういう人……天使もいるのかもしれないし僕が勝手に怒っているだけだということについては承知済みだが、それでもさ、一般的に考えてみろよ。巨大な感情はそう簡単に収まるものじゃない」

 僕がそう言うと、天使は鼻息を漏らした。突風は吹かなかった。僕は言い終えた後で、一般的という言葉が天使にひどく不適切であるように思った。僕の振りかざした一般論は人間社会で通用するものだ。

「じゃああなたは、老人の体を見たことがないの? あれはシワだらけで、つまり、天使の羽にもそういうのがあるってことなの。どちらにせよ、近いうちに羽は使えなくなる予定だった。だからそこまで悲しくはないの……歳を食うたびに記憶力が弱くなっていくように、羽もまたあらゆる機能が衰えていくの。でも、失った時その一瞬の間はさすがに少しは悲しかった。それだけのこと」

 まるで僕が天使の羽の特性を知らないのが悪いとでも言いたげな口調だった。しかし、それに対して僕が腹を立てることは無かった。

「この世界は人間とその他の動物に配慮された環境に整えられていて、とても素敵だと思う。天使が舞い降りてくる可能性を微塵も考慮していなくて、おかげで私は羽を失った。ねえ、これは私が悪いのかしら? こんなところに電波塔を建てた社会が悪いとは思わない?」

「そもそも、天界から下界に降りてこなければ電波塔に羽を引っ掛けずに済んだはずだ」

「私が悪いって言うのね?」

「知らないよ……」

 僕は天使のヒステリーに幻滅した。飛べない天使に何を期待していたのかは自分でもわからなかったが、とにかく幻滅した。

「もう帰るけど、救急車はいる? いるなら連絡しておくよ」

「必要ない。私は死ぬまでここに倒れておくから」

 天使は拗ねた声で言ったきり、何も喋らなくなった。僕も彼女と会話をしたいとは思えなかった。天使の羽の問題を社会のせいにすべきか天使のせいにすべきか、を一介の高校生でしかない僕に判断する権利は無い。僕は自転車に乗り、家路を急いだ。


  *


 僕は翌朝の学校で、蜜成に昨夜の出来事を話した。

 聞き終えた彼は開口一番「付き合う人は選んできたつもりだったが、ミスをしたのは初めてかもしれない」と悔しそうに言った。僕は「本当なんだ」と反論したが、「お前はきっと、気が狂っていたんだ。夏だし」と一蹴された。季節は関係ないだろうと言おうとしたが、無駄な抵抗だとわかって口を閉ざした。屋上のアスファルトを飛行機の影が這う。あれが天使だったら蜜成を納得させられたのにと思いかけて、僕の見た天使はもう飛べないのだということを思い出した。飛行機の黒い影は屋上を通り過ぎ、陽光がアスファルトに照りつける。

 僕は天使を思った。彼女はこの熱で干からびて死んでしまうかもしれない。あるいはもう死にかけているのかもしれない。彼女が死んだところで僕の生活に支障が出るわけではないが、あのまま死んでいくのは、いくらなんでも彼女が不憫だ。

「もういいよ。与太話の一つとして処理しといてくれ。別に僕は、蜜成に強く信じてもらいたいという意志も無ければ、信じてもらって二人で天使を救おうというつもりも無かったんだ。僕は羽を失った天使の話を、まるで笑い話でもするみたいな調子で語り聞かせていただけなんだよ」

「確かに面白かった。笑えるかと訊かれると、反応に困るけど」

 蜜成は真顔で言った。

「今日の帰り際にもう一度電波塔に寄ってみる。天使の写真を撮って送るよ。信じてもらう、もらわないじゃなくて、天使がどんな容姿なのかを一目見て欲しいんだ。羽以外は人間とほとんど同じなんだよ」

「そんな手間をかけさせるくらいなら俺が深町に着いていく」

 蜜成は言った。


 

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