生き腐れ

矢田川怪狸

第1話

 死にかけている生き物は臭う。

 比喩やオカルトではなく、本当に死にかけているもの特有の臭いがする。

 生きながら腐れかけているんだろう。微かな腐臭を感じるようになったら、その生き物はもう逃げられない死の運命に囚われていると思っていい。

 例えば蝶の幼虫ーー健康な青虫は微かに食草の匂いがする。モンシロチョウならキャベツの匂いがするし、アゲハの幼虫はツンと香り高い柑橘の匂いがする。

 ところが寄生虫にやられた幼虫を飼うと、とあるタイミングから腐臭を感じるようになる。

 本来なら食草の匂いがするはずのフンが、水っぽく汚泥のような見た目に変わる。もちろん不快な、沼のほとりみたいな臭いがする。

 腐りかけた体の中身を垂れ流すような、そんなフンをするようになったら、もうその幼虫は助からない。

 犬猫くらい大きくなると匂いも強烈だ。

 犬なんかは健康な時でも体臭が強いけれど、それは若い男の子が汗臭いのと同じ、生きて健康であるという生命力を感じる臭さだ。

 ところが健康を損なった犬はそれとは全く違う、不快な匂いを放つ。それは皮膚病だったり、歯周病だったり、腐れた組織が放つ匂いだ。

 僕はそんな死の匂いを嗅ぎ分けるのが、子供の頃から得意だった。気のせいだとか神経質だとか言って、他の人は信じてくれなかったけれど、本当だ。

 子供の頃、兄弟でダンゴムシを飼っていたことがある。

 ダンゴムシは飼いやすい生き物で、プラスチックケースに砂と、隠れ家になる小石と、落ち葉や草のかけらを入れておけばまず死ぬことはない。程よい湿気を与えていれば、むしろわさわさと増える。

 まあ子供のやることだから、弟がダンゴムシの詰まったプラスチックケースをひなたに置きっぱなしにして遊びに出かけてしまい、通気性の悪いケースの中は蒸れて、何十匹といたダンゴムシは茹だって死んだ。

 生きているときのダンゴムシは、鼻をよくよく近づけるとほのかに土の匂いがする程度で、ほぼ無臭に近い生き物だ。

 これが死んだ途端に死体であるという存在感として匂いを放ち始める。ダンゴムシの死の匂いは酢に似て酸っぱい。

 僕はプラスチックケースを触ることすら怖くて、弟にこれを始末させた。弟は「お墓つくろうぜ!」と砂場の真ん中にプラスチックケースの中身をぶちまけたけれど、僕はそこに近づくことすら嫌悪した。

 神経質だと笑うだろうか、それとも潔癖だと?

 僕はそれから砂場の砂をいじるたびに酸っぱい匂いを感じて不快な気分になった。匂いが完全に消えるまでに一ヶ月かかった。

 やがて成長して、人間の死体と対面する機会が何度かあった。別に特別なことじゃない、身内が死んだり、友人が死んだり、葬式というものを何度か経験したというだけの話だ。

 意外なことに、葬式はほとんど死の匂いがしない。死体は腐らないようにドライアイスでキンキンに冷やしてあるし、線香が焚かれていて、死の匂いは完全に管理されているのだから、まあ、当たり前と言えば当たり前。

 むしろ死の匂いに満ち溢れているのは病院の方だ。すれ違う人から濃厚な膿の匂いがしたり、誰かが撒き散らかした日向に置いた生ゴミの匂いが染み付いていたり。

 友人の見舞いに行く。大した病気でなく、検査入院だったりする。

 だけど隣のベッドに寝ているおっさんはコフコフと強く咳き込み、離れていても臭いと感じるほどに濃い痰を吐き出したりしていると、死を感じて気が滅入る。

 こういうおっさんは次に行った時に、もういなくなっている。治癒して退院したのか、それとも……僕はそういうことは聞かないことにしている。名前も知らない他人のプライベートを聞くなんて不躾で無礼だと思うし。

 祖父の死の間際、入院中の祖父から死の匂いを感じたことがある。その時も僕は、なんの病気だとか、状態は悪いのかとか、そういうことは何一切尋ねなかった。聞いたところで何が変わるわけでもないし、なにかできるわけでもないし。

 祖父が肺の末期癌だったことを聞いたのは、葬式が終わった後でだった。なるほど、確かに祖父の呼気には腐った内臓特有の、苦味混じりの悪臭がしていた。

 そんなに匂いに敏感なら、自分のことはどうか、と思われるだろう。

 実は二ヶ月ほど前から、強い腐敗臭を感じるようになった。からだのどこがにおうのか、自分で嗅いでもわからない。妻に匂いを嗅いでもらったけれど、「なんも臭わないわよ、考えすぎよ」と言われてしまった。

 だが、確かに臭い。

 例えていうならば肥溜めの匂い、排泄物が発酵して、ぼこぼこと表面に立った泡が弾けた時に放たれる、ツンと鼻の奥を刺すような臭い。

 いったい、この臭いがどこからくるのか、もう何度も医者に行って、検査を受けているけれどわからない。

 わからないからこそ思う。ぼくはもう、中から腐れ始めているのだと。







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