第4話 窓のない会議室
2030年7月8日 PM 10:00 (UTC 01:00)
都内 窓のない会議室
ラプラスの啓示
1. この世界は上位世界でのシミュレーションである
2. このシミュレーションは内部時間で31日以内に終了し、データは永久に削除される
3. シミュレーション内に隠された7つの迷宮を解いたものだけが、現実世界に招待される
「これが、昨夜21時00分頃に世界中で同時多発した集団幻覚において『ラプラス』と名乗る存在が話したとされる内容です」
「集団幻覚の内容は細部は人によって異なりますが、内容を総合すると概ね上記のようなメッセージになると考えています。以後、これを『ラプラスの啓示』と呼称します」
重厚な木製の扉が閉ざされたその空間には、外界の光も音も一切届かない。防音材が埋め込まれた壁と、わずかに揺らめく照明。時計の針が刻む微かな音が、やけに耳につくほどの沈黙が支配していた。
空調の送風音が唯一の生活音となっているその部屋の中央、長机を囲むようにして十数名の男と女が腰掛けていた。いずれも国家の中枢に関わる官僚や専門家たち。だが、その中にあっても、中央の席に座る菅野博人――現内閣官房長官の存在感は群を抜いていた。
菅野は一見、無表情に机上の資料を見つめていたが、その内心は激しく揺れていた。
(こんなはずではなかった)
政界に足を踏み入れて三十年。官僚としてキャリアを積み重ね、調整型の政治家として、矛盾と対立の多い国政を巧みに渡ってきた。どんな混乱も冷静に処理し、メディアの前では穏やかな笑顔を絶やさなかった。
だが今、自身の統治能力を試すにはあまりにも非常識な事態が眼前にあった。
『ラプラスの啓示』――。
まるで神の語りのようなその言葉に、科学も常識も意味を失いかけている。国の屋台骨すら、今や空中に浮かぶ薄氷の上のようなものだ。
それでも彼は、立ち上がらねばならない。国民は、リーダーの沈着冷静を見て動くのだ。混乱のなかで進む道を照らす灯火が必要なのだ。
薄暗い部屋の中、若い官僚風の男が真剣な面持ちで話している。
「改めて、お忙しい中お集まりいただきありがとうございます。私は内閣情報調査室の風間隆一と申します。本件に関する対外的な情報共有を担当しています。本日は本件に関する情報を共有し、有識者である皆様から政府としての今後の対応をご相談させていただいと考えています。なお、ここでお話しする内容は国家機密に属するため、ここにいる全員が完全な守秘義務を負っていることを、ご理解ください」
「また、既にチェック済みかと思いますが、所事情により通信機器の使用はもちろん、紙を含むあらゆる媒体へのメモも厳禁ですので、ここで話す内容は全て皆さんの脳内のみに保存してください。これからお渡しする資料も全て、会議終了時に回収・廃棄致します」
官僚風の若い男――風間が、どこか頼りなげながらも懸命に説明を続けている。菅野は彼の言葉に耳を傾けながら、会議室の隅々まで目を配っていた。
情報調査室の人間はこういう時、責任を押し付けられやすい立場にある。風間には荷が重いだろう。だがそれは、ここにいる誰にも言えることかもしれなかった。
重々しい空気が漂うその空間には、刑事数名と、日本政府高官、そして各分野の専門家たち十数名が集められていた。
彼が視線を一巡させると、一同は神妙な面持ちで頷いた。その目には緊張と不安が交錯し、誰もがこの非常事態の重さを感じているのが明らかだった。
「まずは啓示そのものの真偽よりも、集団幻覚による影響の方が憂慮すべきかと思われます。その点について、警視庁の方から情報共有があります」
「警視庁サイバーセキュリティー課の喜多川です。昨夜21時00分から22時にかけて、SNSや掲示板上で『幻覚』や『白昼夢』を見たという投稿が急増しました。大まかな調査によると人口の約半数ほどの人間が先の幻覚を見たようですが、見た人間の年齢・性別・人種ともにほぼ均一と言って良く、特定のクラスタは見つけられていません。サイバー攻撃であるとしますとインターネット全体をハックできるほど超大規模のものとしか考えられません」
「現在、Twitter、INFOXなどの海外のソーシャルメディア企業と情報交換しながら調査を進めておりますが、向こうからの返答はサイバー攻撃を受けた可能性は薄いとのことです」
彼の報告を聞きながら、菅野は思わず視線を向かいにいる防衛大臣・岩井勝彦へと向けた。
彼のことは、正直あまり信頼していない。
声は大きく、軍事に対する発言も威勢がいいが、肝心な局面での判断力には疑問符がつく。彼の発言一つで余計な混乱を招く可能性がある。それをどう抑えるかも、今日の彼の役割のひとつだった。
深刻な表情で聞いていた菅野が反応する。
「一旦はそれを信じるしかないということか。引き続き調査を頼む。正しい情報がなければ何もできん」
「それとまずは原因が何であれ、現状の国民の不安を払拭することが先決だ。世論の反応はどうなってる?」
「はい。現在ネット上では幻覚に関しての憶測などが散見されますが、幻覚の内容に関しては懐疑的な投稿がほとんどです。一方で、この後詳細な共有があると思いますが、例の『消失』に関する投稿が拡散されており、こちらの混乱は時間を追うごとに増しています。既に情報を封じ込めるといった段階は超えていますが、おそらく、今夜再び注目が集まれば、より収拾はつかなくなるかと」
「その『消失』に関して、羅博士…お願いできますか」
会議室の一角で姿勢を正したのは、知的な印象を湛えた30代後半の女性研究者だった。
「羅です。既に一般の天体愛好家の間でも噂になっているようですが…国立天文台では、昨夜19時を境に、銀河系外の天体が一斉に観測不能となりました。この現象は、地上観測および宇宙望遠鏡の双方で確認されています」
一瞬、会議室の空気が張り詰めた。菅野は、思わず背筋を伸ばす。
(星が…消えたというのか?バカな。何を考えているんだ私は。観測できなくなっただけだ。)
「まず、地上観測です。国立天文台が所有する複数の大型望遠鏡――例えば、岡山天体物理観測所やハワイのすばる望遠鏡――で、通常観測している銀河系外天体が完全に検出不能となりました」
発見の経緯:
・19時頃、観測データが一斉にゼロ値を示す。
望遠鏡やセンサーの故障を疑い、別の施設でも確認作業を実施。
・確認結果:
故障ではなく、観測範囲内の銀河系外天体からの光が一斉に遮られた、もしくは物理的に消失したとしか説明がつかない。
「次に、人工衛星の宇宙望遠鏡についてです。日本が参加している観測プロジェクトの『あかり』や、NASAのハッブル宇宙望遠鏡でも、同様の異常が確認されています」
ハッブル宇宙望遠鏡の観測データ:
・銀河系外の星雲や銀河群が、19時以降、全方位で観測不能。
検出されるのは太陽系内および銀河系内の天体のみ。
・「あかり」衛星の確認結果
赤外線観測においても、銀河系外の光源が一切記録されていない。
観測可能な波長すべてで一致した結果であり、天文学的に極めて異常な事態。
「現象の可能性について、以下の仮説を検討しています」
①物理的消失
銀河系外の天体そのものが消滅した。
しかし、これほど大規模な現象は既存の物理理論では説明不能。
②観測の遮断
上位世界または外部からの干渉により、銀河系外の光が遮られている。
銀河系外から発せられる光が途中でカットされることで観測できなくなった可能性。
菅野は、羅の言葉を聞きながら思考を巡らせていた。
(宇宙が、切り取られたとでも言うのか?)
「そりゃ機器の不調とか未解明の自然現象の可能性もあるんじゃねえか?」
防衛大臣・岩井勝彦が口を挟む。
来た、というように菅野は目を伏せて息を整える。
「通常、故障の可能性は最初に疑います。しかし、複数の施設、異なる観測手法、さらには地上観測と宇宙望遠鏡のデータが一致している以上、故障の可能性は考えにくいです」
「しかし率直に言って、現在の天文学で説明がつかない事態なのは確かです」
「そんじゃあまさか、地球外文明からの攻撃とかか?」
「いえ、そう結論づけるのは早急かと。現状は『銀河系外の天体が観測不能』以上のことは何も……」
「ふん。」
「……それで、星が見えなくなることがどう国防に影響する?」
会議室に数秒の沈黙が流れる。
「失礼、さらに補足ですが、銀河系外天体の消失に加えて、我々はナノレベルの観測実験でも異常を検出しています。」
全員の視線が会議室の最後方の女性に集まる。
慌てて風間が補足する。
「彼女はRTPG、昨夜よりアメリカ政府主体で秘密裏に組織された本件への対策機関の人間です」
※RTPG:Reality Threat Protection Governance(現実への脅威に対する保護・統制機関)
「初めまして、RTPGの神崎です」
背筋を真っ直ぐに伸ばしながら立ち上がった女性は、どこか軍人のような鋭さと、科学者の冷徹な合理性を併せ持つような目をしていた。会議室の重苦しい空気の中で、その一言一言が鋭利な刃のように響いた。
「どうやら皆さんは、まだ事態の深刻さを1mmも理解されていない」
「我々はまだ一度も、ラプラスの啓示の内容を真正面から吟味していないではありませんか。そこから目を背けていては何も始まりません」
「我々米国上層部は、既に世界中の研究機関での観測結果を総括し、不都合ながらラプラスの啓示は真実であると結論づけています」
小さな波が会議室に広がる。
数人がわずかに身じろぎし、ある者は視線を交わし合い、ある者はまるで意味を理解するのを拒むかのように無言のまま沈黙を貫いている。
この世界がシミュレーションだと?
そのような非現実的な妄想を受け入れろと言うのか。
証明も反証もできない、悪魔の証明。
そのような議題がこのような現実の議題として上がること事態が既に異常だ。
菅野の脳裏には、先ほどまで頭の片隅に追いやっていた単語が、鮮烈に蘇っていた。
“ラプラス”
世界中の人間が見た幻覚。その中で自らを名乗ったその存在。
もしこの世界が本当にシミュレーションだとしたら、そのシミュレーションの実行主は、我々にとっては神と等しい存在と言えるだろう。
神と近しい存在。
全ての事柄を知り尽くす、全ての未来を予測する、全ての選択肢を網羅する、全ての可能性を網羅する。
世界の外側にあって、世界の中にいる我々を見下ろす、全知全能の存在。
ラプラスの悪魔……か。
挿絵:
https://kakuyomu.jp/users/I_am_a_teapot/news/16818792438751498740
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