第5話 役に立つ仮定

2030年7月8日 PM 10:10 (UTC 01:10)

都内 窓のない会議室





「馬鹿馬鹿しいな。この世界が本当にシミュレーションだとでも言うのか?」



菅野は思わず眉をひそめた。昨夜からの異常事態に、彼の心はまだ追いついていなかった。政治家としての冷静な判断を下す前に、一人の人間としての恐怖と混乱が先に押し寄せてくる。



「おっしゃる通り、この世界がシミュレーションであるという証明はできないし、その逆も証明できない。どちらも同じだけ信じるに値する仮定です」


「ただし昨夜の事件を受けて、今はその天秤が大きく傾いている。我々は今一度常識を疑い直し、何ひとつ確かなことの見つからない状況の中で『何を仮定したら役に立つのか』を考え直すべきでしょう」



会議室のモニターに、なにやら物理実験の観測結果のような映像が映し出される。



「昨夜、CERN(欧州原子核研究機構)を含む複数の国際的な研究機関から、極めて異常な観測結果が報告されました。これらは、量子力学や情報理論の基本法則に対して恣意的な干渉が行われたとしか思えない現象です」



モニターの映像を見つめる数名の研究者たちが、息を呑む。誰も口には出さないが、空気が一段と重くなった。



「具体的な事例の一つとして、電子単体での観測が不可能になっていることが挙げられます」


「測定装置は正常に動作しており、周囲の電子回路にも異常は見られませんでした。それにも関わらず、対象とした電子のみが存在しないかのように、何の反応も返さなかったのです」


「異常なのは、同じ回路内でマクロレベルでは正常に電流が流れていた点です。電子単体は観測不能でありながら、電流値は理論通りに計測されている。我々が観測しようとしない限り、何事もなかったかのように振る舞っているかのように」



一部のメンバーが顔を見合わせ、小さくざわつく。



「これら一連の現象から、今研究者の間では『LOD仮説』が冗談混じりに囁かれています。」


「ゲームエンジンの世界では、視点から遠くにあるオブジェクトや注目されない細部は、リソース節約のために粗いモデルや簡略な計算で表現されます。これを"Level of Detail"と呼びます。LOD仮説は、それと同様に『この世界でも"観測されない範囲"は簡略な情報で処理され、詳細な情報は必要に応じて生成される』という仮説です」


「LOD仮説に基けば、我々がいるこのシミュレーション内ではために量子レベルの計算は確率的にしか処理されないように出来ており、それが不確定性原理として我々に認識されていたと言えます」

「シミュレーションの計算は原子レベル、分子レベル、物体レベルなど各レイヤーごとに計算され、我々が観測する範囲のみが整合性をとるように計算される。例えば、我々が普通に生活しているうちは『机の上の紙がどう重なっているか』とか『グラスの表面にどう反射・屈折して奥の景色が見えるのか』とか『私の声がどう反響して皆さんの耳に聞こえるか』とか、そういう物体レベルの計算だけでいい。全ての原子や量子状態を計算する必要はありません」

「しかし一度、我々観測主体が量子レベルの現象を観測しようと試みると、より低レイヤーの計算として我々がまだ知らない的な確率によって処理される」


「突拍子もない仮説ですが、昨晩からの量子レベルの観測異常と銀河系外天体の消失により、にわかにを帯びてきています」



この会議室の天井はそこまで高くはない。

完全に閉じているはずの空間だというのに、神崎の言葉はまるでこの部屋の壁を突き破り、遥か彼方の真空へと貫通していくように思えた。



「いいですか皆さん、ここから先は特に重要な部分です」



彼女の声が再び部屋に落ちる。ざわついていた空気が静まり返る。



「LOD仮説が正しい場合、それは確実にもう一つの恐ろしい帰結をもたらします。」


「シミュレーションの実行主は、我々の観測に干渉できる。我々が何を話し、何を企てようと全て筒抜けと言うことです。そして、場合によっては我々の行動や認識さえ変えることが出来てしまうかもしれない」



菅野は、あの白昼夢を見た時に真っ先に感じたある恐ろしい帰結を思い出した。

もしこれが本当なら、彼のこれまでの人生は何だったのか。妻との出会い、子供の誕生、政治家としての栄光と挫折――全てが、誰かのシミュレーションの一部だったのか。その考えが、彼の心を深い闇に引きずり込んでいく。

誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。



「我々は、いつデータを消去されてもおかしくない、ゲームの中のキャラクターと言うことか」


「ええ、その可能性はあります」



菅野の問いかけに、神崎が無慈悲に答える。



「それでは、我々はどうすればいい?」

「馬鹿馬鹿しい……。そんなどうしようにもない状況を仮定しても話が進まんじゃないか!」



岩井の声が響く。だが誰も発言しようとしないこの状況において、菅野自身もその意見は有り難かった。



「ええ、全くその通りです」


「ですから、いくつかの仮定を置きつつ、場合分けして考える必要があります」



神崎が極めて冷静に言葉を繋いでいく。



「まず、ラプラスの啓示の内容が事実であると仮定します」


「『この世界はシミュレーションであり、そのシミュレーションはあと1ヶ月で終了する。7つの迷宮を解いた者だけが上位世界に招待される』と、ラプラスは言いました」


「その上で、ラプラスの啓示にはいくつかの謎が残ります」



「第一の謎。このは何か?」



「第二の謎。ラプラスが我々には何か?なぜこのタイミングなのか?」



「第三の謎。7つの迷宮を用意し、そのは何か?」



「これらの謎に答えが出せれば、自分たちをシミュートしている上位世界の存在がどういうものかもわかるかもしれません」



会議室の全員が、事態を正しく理解し始めていた。


物音ひとつ立てることさえ憚られる。

今この瞬間も、ラプラスは自分を監視しているのだとしたら?

その指先一つで(奴に『指』というものが存在すればだが)、私の存在を一瞬で無に帰すことができるとしたら?



菅野は浅く長い呼吸ののち、切り出した。



「その謎に答えるために、我々はどうすればいい?」


「二つ目の謎のヒントになりそうな情報は、我々が既に掴んでいます」



神崎は即答し、静かに隣の人物を示した。


「ご紹介します。草薙教授。人工意識の分野で長年研究を続けてこられた方で、現在は我々の対策チームにも協力していただいています。今回の異常現象について、彼からも報告があります」


彼女の隣に座っていた中高年の男性が軽く会釈し、PCを操作してモニターを切り替える。


神崎と草薙以外の誰も、目線ひとつ動かそうとしない。呼吸ひとつしようとしない。

空気が固体になったかのように、部屋の時間が止まって感じられる。

草薙は緊張で体をこわばらせ、直立不動のまま、原稿を読むように空間上の一点を見つめている。


「草薙です。現在、アメリカ政府が主導しているスターゲート計画の下、産学官共同で人工意識に関する研究を行っています」


「一昨日7月6日10時頃、トロントのCyberMind研究所でが行われました。平たく言うと世界初となる量子計算機を用いた汎用人工知能(AGI)の統合シミュレーション実験です」


「私と神崎さんは、この実験がラプラスの言う我々シミュレーション世界の終了条件になってしまったと考えています」


続きを神崎が引き継ぐ。

今や彼女は、この会議室において唯一精神的に自由な存在だった。

彼女は流暢な日本語で流れるように説明を続ける。


「今我々にできることは、証明できるかどうかはともかく、現状を矛盾なく説明する仮説を立てることです」


「上位世界でも有限の計算量しか扱えないと仮定しよう。その場合、シミュレーション内部でシミュレーションを生成できるようになってしまえば、それは全体の計算量を大きく圧迫することになる」


「『ある程度の自由度と計算量を持つシミュレーションをシミュレーション内部で生成されること』がシミュレーションの終了条件になっているのではないか?」


「それが、『なぜ今ラプラスが啓示を行ったのか?』に対する私の仮説です」



「では次に、我々の置かれた状況と取りうる戦略について、体系的に整理したいと思います」



神崎はホワイトボードに向かい、マトリックスを描き始めた。


菅野は彼女の背中を見つめながら、奇妙な感覚に襲われていた。

この状況は、まるでSF小説のようだ。

そのSFが現実になった時、人間はどう振る舞うべきなのか。政治家としての判断を下す前に、私はまず一人の人間として、この現実を受け止めなければならない。

しかしまずは、この絶望的なはずの事態の中において自由に突拍子もない推論を繰り広げるこの奇人の話に集中すべきだろう。

菅野はパンク寸前の頭ながら、再び全神経を彼女の話にフォーカスした。



「まず、上位世界からの検閲の段階を4つに分類します」



縦軸に沿って、彼女は明確に書き出していく。


「第一段階、部分物理検閲。これは現在我々が確実に把握している状況です。銀河系外の観測や量子レベルの観測に干渉が入っていますが、"上位世界は常に全ての事象を監視しているわけではない"という場合です」


「第二段階、完全物理検閲。この段階では、物理的な事象は全て観測・把握されています。"いかなる物理的な行動も上位世界に把握されている"という場合です」


岩井が顔を固定したまま静かに眉をひそめる。軍人の彼にとって、完全な監視下に置かれるという状況は、最悪の事態に映るのだろう。


「第三段階、脳内検閲。我々の思考が読み取られており、しかし何らかの理由で干渉まではできない場合です」


会議室の空気が一段と重くなる。菅野は自分の思考を意識し、その自分自身の脳内を俯瞰して見るもう一つの瞳を想像した。


「第四段階、脳内検閲および干渉。最も深刻な段階です。思考を読み取られ、かつ直接的な操作も可能な場合です」


誰かが小さく息を呑む。その段階に至れば、もはや人間のも存在しえない。


次に神崎が横軸を示す。


「対して、我々の取りうる戦略は3つに分類できます」


「受容戦略。啓示の通りに従順に七つの迷宮の探索・攻略を行う選択です」


風間が強張りながらも資料に目を落としている。彼の表情からは、既にこの選択肢を真剣に検討していることが窺えた。


「物理戦略。何らかの物理的手段を用いて上位世界への干渉や対抗を試みる戦略です。もちろんそのような戦略が存在すればの話ですが」


「論理戦略。シミュレーションの目的や構造による上位世界への対抗策が存在する場合、それを用いる戦略です」


神崎は一旦マーカーを置き、参加者たちの反応を確認する。会議室には重い沈黙が流れていた。


「ここで重要な点が二つあります」


彼女は再びマーカーを手に取り、マトリックスの特定のマスに印を付けていく。


「まず、部分物理検閲と物理干渉が可能だということは、我々は既に確認しています。これは極めて重要な事実です」


「次に、各検閲段階での戦略の実行可能性を考えましょう」


赤×印が、いくつかのマスを埋めていく。


「脳内検閲および干渉の段階では、いかなる戦略も無効です。我々の思考自体が操作される状況では、抵抗の余地はありません」


「完全物理検閲下での物理戦略も、原理的に不可能です。仮に部分物理検閲だったとしても物理戦略は大規模なものになるでしょうから実行に移すのは非常に困難でしょう」


岩井が腕を組み、唸るような声を漏らす。軍事的な対応の限界を、彼も理解し始めているようだった。


「つまり、──」


神崎が一同を見つめながら、長い推論を締め括る。


「我々が賭けるべき戦略領域は、上位世界が第三段階以前の場合において脳内だけで完結するような論理戦略を用いること。または上位世界が第一段階である場合において非常に上手く意図を隠蔽しながら物理戦略を行うこと。そして受容戦略を行うことの3通りです」



菅野は深いため息をつく。

これは単なる分析ではない。残り1ヶ月の人類の命運を左右する、貴重な洞察だ。

そして残念ながら、自分はこの洞察をただ享受する側ではいられない。

私を含め、おそらく今これを聞いたここにいる全員の一挙手一足跡、そして思考の過程全てが、そのまま人類の未来を決めることになるのだから。



時計の針が動く音が、正確に一秒を刻む。

止まっていた会議室の時間が、ようやく動き出したように感じられた。




挿絵:

https://kakuyomu.jp/users/I_am_a_teapot/news/16818792438824422105

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ラプラスの迷宮 茶器🫖 @I_am_a_teapot

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