第3話 夢現
2030年7月8日 AM 12:00(UTC 03:00)
東京都杉並区
静まり返った住宅街に、蝉の声が代わりに鳴り響く。
水瀬家の二階、南向きの窓から夜風が入る部屋で、令一はベッドの上に仰向けになっていた。
水瀬令一、29歳。職業:作家。
数年前に一度だけ文壇を賑わせた。
SF小説が本屋大賞に選ばれることは異例のことで、その時は世間的にも多少話題になった。
しかし以降、幾つか世に出した新作の売れ行きは低迷し、悲しいかな現在では「一発屋」とも一部で囁かれている。
彼の部屋は執筆資料と、昨晩集めたニュース記事、研究論文、匿名掲示板のスクリーンショットで埋め尽くされていた。机と床の境界も曖昧で、資料はベッドの端まで浸食している。
彼は目を開けたまま、天井を見つめていた。
「寝てたのか……」
ついさっきまで見ていた夢の名残を感じる。行き場のない怖れと苦い感覚だけが自分の脳に色濃く残っていることを自覚しつつ、少しでも思い出せないか試みてみる。が、それは空中に浮かぶシャボン玉のように、掴もうとしても指の間をすり抜けるだけだった。
ずいぶん壮大な夢を見ていたが、あまり良い終わり方ではなかったようだ。
脳が休まった実感もない。
のろのろと体を起こした令一は自分の部屋の惨状を冷静に眺め、昨晩のことを思い出した。
——眠れているはずがない。昨夜、あの『夢』を見てしまったのだから。
それは「夢」と呼ぶにはあまりにも明晰で、あまりにも現実的だった。脳裏に再生された映像。それと全く同時刻に世界中で発生した数多の事故。偶然にしては、あまりに一致していた。
気分を切り替えよう。
やる気を出すための常套手段はまず行動を始めることだ。
令一はまず喉の渇きを癒そうと、階下へ降りた。
世界でも有数の建築家として名を馳せた父の影響で、水瀬宅は現代建築のモデルルームのような様相だったが、令一には昔から無駄に広いだけに思えていた。もっとも、当の父と母は沙月が大学に入ってからというもの、他の国を自由気ままに転々とする生活を送っていたので、実際広さを持て余してはいる。そういう訳で、独身で彼女もいない令一は一人暮らしする意味も見出せないまま、結局この家で妹と二人で暮らしている。
階下に降りると、リビングには既に明かりがついており、妹の沙月がソファに寝転がってテレビを見ていた。彼女は今や大学三年生で、毎晩のように友人たちと飲みに行っているように思える。限り少ない青春を謳歌しているのだろう。
まったくこの妹は、兄の自分とは対照的に元気で活発な性格をしている。
「おそよ〜。ってうわ、お兄ちゃんすごいクマだね……!まさか一睡もしてないんじゃない?」
起き上がった沙月の黒髪の下で小さな耳飾りが揺れる。
「ん、まあ……そんなところかな」
テレビでは朝のニュース番組が流れていた。アナウンサーが深刻な表情で語る。
『——昨夜から今朝にかけて、日本国内外で異常な数の事故が報告されています。東京の首都高速では、複数の車両が玉突き事故を起こし——』
「大変だったんだよ!あと1時間遅かったら、絶対帰れなかったんだから!」
沙月の声には少し怒りと安堵が混ざっていた。彼女も巻き込まれる寸前だったのだ。
テレビでは、海外の事故も紹介されていた。ニューヨークでは東京同様、すべての道路交通網で事故が多発。しかも朝の通勤ラッシュを直撃したため被害は甚大。インドのムンバイ国際空港では離陸直後の旅客機が管制ミスで別機と接触。爆発炎上する大事故で死傷者も大勢出ているという話だ。ロンドンでは工事現場の崩落により複数の観光客が巻き込まれるなど、信じ難い規模の事故が世界中で同時多発的に起きていた。この世の終わりのようなニュース特番を見ながら、令一は思い出していた。
発端は、あの『夢』。
一部のネットユーザーや陰謀論者の間では、それを「集団幻覚」と呼び、世界的な情報ハック、もしくは未知の大脳生理学的同調現象によるものだと騒いでいた。SNSでは「AIによる脳内ハッキング説」や「量子干渉による同調現象説」など、荒唐無稽な噂も大量に飛び交っている。令一も一通りネットの海を漂い調べた結果、誰も原因を分かっていないということが分かったのでそれ以上調べるのをやめた。
世界的なパニック状態。
そんな世界の状態に、令一はどこか既視感を覚えた。
「ねえ、お兄ちゃんは……昨日の白昼夢、見た?」
妹の言葉に、令一は少しだけ黙った。
「……ああ、見たよ。すごいよね。」
目のない存在。だが確かに視線を感じた。声ではなく情報が直接脳内に送られる感覚。
『この世界は、上位世界によるシミュレーションである』
信じられるはずがない。だが、信じざるを得なかった。一晩中、あらゆる報道、観測データ、研究者のコメントを漁り続け、辿り着いたのはその結論だったのだ。
「なかなかに怖いこと言ってたな。全く、どうやったんだろうね。やっぱり世界的なネットのハッキングかな……」
「お兄ちゃんでも分かんないなら、私には分かりませーん」
沙月が肩を透かして苦笑する。
あの幻覚の内容に関してだけ言えば、令一の受け止め方は一般人のそれとはだいぶ異なっていた。
——もしこの世界が仮想であり、現実ではないのだとしたら。それは、ある種の救いでもある。
現実に逃げ場がない人間にとって、「この世界が本物じゃない」という考えは、まるで神の啓示のような慰めになる。いや、実際、その考え方は既に一部の人間にとって信仰の対象になりつつある。例えば、自分自身にとっても。
——真実を知りたい。
あの啓示の意味を考える度に、令一の胸は昨晩からずっと高鳴っていた。
自分の予測が正しければ、これは始まりに過ぎない。
やはり、今すぐ動こう。
今は、この久しぶりの好奇心にただ自分をドライブさせたい。
気が付くと令一は自室に戻り荷支度を始めていた。
「え? お兄ちゃん、どこ行くの!?」
「ああ、うん。たぶん都心とか三鷹の方とか」
心配そうに顔を曇らせる沙月の声を背に、令一は玄関へ向かう。
「こんな時に危なくない?」
「大丈夫、ちょっと取材に行くだけだから」
沙月は少し不機嫌そうに不満をこぼしたが、令一には聞こえることはなかった。
「まったく、ご飯も食べずに行っちゃったよ……」
挿絵:
https://kakuyomu.jp/users/I_am_a_teapot/news/16818792438608516342
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます