第2章『疑いの森』

どれくらい走り続けたのか、カイにはもうわからなかった。脇腹の傷が脈打つたびに熱を放ち、思考を鈍らせていく。背後からは、追手の怒声と馬の蹄の音が、幻聴のようにまとわりついていた。

「はぁっ、はぁっ……!」

憎悪だけが、カイの足を前に進める唯一の燃料だった。あの光景、あの声、あの匂い。全てが脳裏に焼き付いて、彼を狂気へと駆り立てていた。このままでは、憎しみに心が食い尽くされてしまいそうだった。


「ここまで、か……!」

ついに足がもつれ、カイは濡れた落ち葉の上に倒れ込んだ。目の前に広がるのは、不気味なほど静まり返った森。木々はどれも奇妙な形にねじくれ、濃い霧が立ち込めている。

「ここは……禁断の森……」

村の誰もが、決して入ってはならないと口を揃える「惑わしの森」。だが、もはや彼に選ぶ道など残されてはいなかった。追手に捕まり、あの騎士団に首を差し出すくらいなら、この森で朽ち果てたほうがましだった。


朦朧とする意識の中、ふと誰かの気配を感じた。ゆっくりと顔を上げると、そこに一人の少女が立っていた。月光を編み込んだような銀の髪、森の湖のように澄んだ碧眼。人間とは明らかに違う、神々しいまでの美しさを持つエルフだった。

「……エルフ……」

おとぎ話でしか聞いたことのない存在。彼女は、カイを無感情に見下ろしていた。その瞳には、何の温度も感じられない。まるで、道端の石でも見るかのように。


「人間……。しかも、ひどい怪我をしているのね」

少女――ルーナは、鈴を転がすような声で言った。だが、その声色には氷のような冷たさが含まれている。

「なぜ、あなたがこの聖なる森にいるのかしら?答えて」

「お、追われて……ここまで……」

かろうじて声を絞り出すカイに、彼女はすっと眉をひそめた。その瞳に浮かんだのは、憐憫ではなく、あからさまな軽蔑の色だった。


「穢れた裏切り者の一族が、この森を汚しに来たというわけね」

「ちが……僕たちは、何も……!」

何かを言い返そうとしたカイの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。ルーナがすっと右手をかざす。

「風よ、彼の者を捕らえなさい。『風の枷(シルフィド・バインド)』」

詠唱と共に、緑色の光を放つ風が渦を巻き、カイの身体を瞬く間に縛り上げた。身動き一つ、取ることができない。これが、本物の魔法……!


「ルーナ様!ご無事ですか!」

「人間がいると聞いて、駆けつけましたが……」

森の奥から、同じように美しいエルフたちが数人現れた。彼らはカイを見て、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめる。

「心配はいりません。すでに捕らえましたわ」

「しかし、なぜ人間がここに……」

「さあ?ですが、ろくな理由でないことだけは確かでしょう」

彼らの会話は、カイが存在しないかのように進んでいく。その視線は、刃よりも冷たく突き刺さった。


カイはなすすべもなく、彼らに囲まれていた。その時、ズキン、と割れるような頭痛が走る。目の前のエルフたちの姿に、青い光の文字が重なって見えた。

【警戒】【不信】【敵意】【侮蔑】

「う……なんだ、これは……やめろ……!」

望まぬ情報が、脳に直接流れ込んでくる。彼らが抱く感情の冷たさが、理解したくもないのに心を抉った。これが、僕の新しい力だというのか。


「この人間、どうなさいますか?」

「長老様のご判断を仰ぎましょう。里へ連れて行きますわ」

ルーナのその一言で、カイの処遇は決まった。彼はまるで罪人のように、エルフたちに引きずられていく。霧の深い森を抜けると、そこには信じられないほど美しい里が広がっていた。木々の上に築かれた家々は、淡い光を放っている。まるでおとぎ話の世界だった。


だが、その光景も、今のカイの心には響かない。連れてこられたのは、太い木の根で格子が作られた、牢獄のような場所だった。

「ここで、大人しくしていなさい」

冷たく言い放ち、ルーナはカイをその中に乱暴に突き飛ばす。

「あなたたちの罪が、どれほど深いものなのか。その身で思い知るといいですわ」

鉄格子ならぬ木の格子が、無情にも閉ざされた。


カイは、冷たい石の床に横たわったまま、動けなかった。故郷を焼いたのは、燃え盛る炎のような憎悪。だが、今彼を包んでいるのは、どこまでも冷たい、氷のような孤独と絶望だった。憎むべき相手さえ、ここにはいない。ただ、人族であるという、それだけの理由で向けられる、絶対的な拒絶があるだけだった。

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