ギザギザの空

 ​壁のシミが、じっとこちらを見ている。黒い犬の形だ。吠えない犬。そいつは僕の思考を吸い取っていく。今、僕が「リンゴは赤いな」と考えたこと、もう隣の部屋の男に伝わってしまったに違いない。思考伝播。だから男は時々、壁をドンと叩くんだ。「うるさい」って。僕の声は、僕だけのものじゃない。


 ​窓の外は、晴れ。晴れているのに、空はギザギザに見える。あのギザギザは世界の綻びだ。そこから、冷たい風が吹いてくる。風、かぜ、風邪をひく。ひっくり返る。世界がさかさまだ。だから僕はベッドから出られない。


 ​何か大事なことを思い出そうとしていた。昨日の夜、母さんと電話で話したこと。何を話したんだっけ。思い出そうとすると、頭の中からすーっと何かが抜き取られていく。空っぽになった頭蓋骨の中で、誰かの声が響く。「お前はもう何も考えるな」。これは僕の考えじゃない。誰かが無理やり押し込んでくるんだ。やめろ。


 ​猫が鳴いている。にゃあ。にゃあにゃあ、泣いている。泣いているのは空。空から雨。雨、飴、甘い。甘い記憶なんて、どこにもない。ない、ナイフ、危ない。あの角を曲がると、黒い服の男がいつも立っている。僕を待っている。


 ​部屋の隅に、昨日脱いだシャツが落ちている。まるで白い旗だ。降参の合図。愛ってなんだ。わからない。わからないから、言葉がバラバラになる。机、鉛筆、消しゴム、落下、無音。意味が繋がらない。言葉がただ、浮かんで、消える。


 ​僕は新しい言葉を編む。ギシギシと軋む世界を表現するために。『ゾワリム』。それは足元から這い上がってくる不安の塊だ。『カラッポイド』。それは虚無が詰まった人型の何か。誰も理解できない。僕だけの言葉。僕だけの牢獄。


 ​もう一度、壁の犬を見る。犬はいつの間にか、笑っているように見えた。僕の思考が全部聞こえているんだ。面白いかい。僕のこの、壊れた頭の中が。


 ​やがて夜が来る。来る、狂う、クルミを割る。固い殻の中に、柔らかい実がある。僕の頭も、誰かが割ってくれたら、何かまともなものが出てくるんだろうか。それとも、ただ空っぽが広がっているだけだろうか。わからない。ただ、瞼を閉じる。暗闇だけが、今の僕に許された唯一の安息だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る