ラクダ



『別に、道に迷ったんじゃねえよ俺たちは。

ただ、迷路に迷い込んだだけだ。何せ、迷う路って書いて迷路なんだから、当たり前だろ? 』


 あの時も例に漏れず僕達はファミレスにいた。そして桑重は小さい声で、聞き続けると呪われてしまいそうなほど、たらたらと喋っていた。


『入口があって、出口もある。何も怖いことなんかない。つまり今、物事の摂理に基づいてる途中ってわけだな。うん。だから、歩いてたらいつかは外に出られる。これは、間違いない』


 桑重は自分に言い聞かせるよう言った。こんな大層に語っているが、卒論の期日が明日に迫る中、まだ書き終えていないというだけのことだった。


 しかも僕と三好はそれを手伝っていて、当の本人は顔を青くさせながら、泥水のような色のドリンクを飲んでいた。不味かったのか、それとも卒論の進捗度合いに絶望して青くなっているのかは分からない。


『とりあえず手は動かしなよ、桑重』


 三好はふうと息をついて、桑重にペンを握らせた。左手に泥水ドリンク、右手にペン。それは3歳児のような構図だった。


 計画性の無さに定評のある桑重だったが、これほどまでに焦っているところを初めて見た。


 いつもだったら、終わらない終わらないと言いながらも、ちゃんと期日までには完成させるのが桑重だったから。その点、今回は彼らしくなかった。


 だから、こうなるに至った理由があったのではないかと、僕が桑重に尋ねたのは無事卒論を仕上げて、そのままファミレスで遅い夕飯を食べている時だった。


『まあ、あれだな。ばあちゃんが死んだからだな』


 一瞬、桑重はすべての電源を切ったような雰囲気になった。一週間前のことだったらしい。桑重の唯一の身内である祖母が亡くなり、葬儀やら、相続やらで卒論どころではなかったとの事だった。


 それまで祖母と二人暮しをしていたことも、この時、初めて知った。


『人ってあんなあっさり死んじゃうんだな。不思議だよなー、前の日まであんな元気だったのに』


 彼は誰に知らせるでもなく、ひっそりと天涯孤独になっていた。


『大丈夫か、桑重』


 訊くと桑重は唐突に『俺、結婚したいなあ』と言い始めたのである。それが桑重の切実な願いのようにも聞こえて、僕は簡単に茶化すことが出来なかった。



 そんなことがあったな、と航太くんが電話に出ている間、僕はふと思い出していたが、航太くんの電話する声に現実に引き戻される。こころなしか声が震えているようにも聞こえる。


 そちらに視線を向けると、彼の肩が少し上がって凍りついたように隆起していた。電話の相手は誰なのだろうか。人の会話を盗み聞きするみたいで、電話中に凝視するのは避けたいところだったが、どうも様子がおかしくて気になってしまう。



「何かあった?」


「いや、あの、先生が事故にあったって」


「え? 桑重が?」


「うん。……病院、病院行かなくちゃ」


 航太くんは狼狽えながら準備をしはじめた。

クローゼットからカバンを取り出して、鍵を持ち、携帯をポケットの中に入れようとする。しかし、気持ちが急くあまり、携帯はポケットを上滑りしてなかなか入らない。


「落ち着いて、航太くん」


「でも、でも……」


 息が乱れている。子供が泣き出す一歩手前のような顔のまま「吉野さん、どうしよう」と声を震わした。


「今の、病院からだったんだよね? 桑重の状態とか、何か言ってなかった?」


「車に跳ねられて、運ばれたってことしか……」


「そっか、じゃあとりあえず病院行こっか。車、マンションの下にまわすから、前で待ってて」


「……先生、死んだらどうしよう」


 僕は両親も健在だし、おばあちゃんとおじいちゃんだってまだ生きている。親戚のお葬式には出たことがあるが、それもぼんやりとした記憶でしかない。


 大切な人を亡くす恐怖というものが、実感としてまだピンときていないのだ。

でも、想像はできる。いや、想像しなければならない。人間であるならば。


 大切な人をなくした時、手を差し伸べてくれた人を親鳥のように慕ってしまうのも。そして、もしその人までいなくなったら、と不安になってしまうことも。想像できる。正解、不正解など一旦隅に置いておいて、そういうこともあるかもしれないと留めておくのだ。


「あの人、ラクダに蹴り飛ばされたけど無事だったから、大丈夫だと思うよ」


 僕は逡巡した後、柔らかく答えた。


「え? ラクダ?」


 航太くんは目を丸くさせた。

なに、聞き間違いでもなんでもない、あのラクダだ。


「鳥取でラクダに乗れる体験があって、その時に、後ろ足で蹴り飛ばされてた。桑重のふてぶてしさにラクダも怒っちゃったのかね。あんな吹っ飛ぶんだって感心したくらいだよ。だからまあ、大丈夫だって」


とは言ったものの、航太くんの不安を払拭できるほどの力は僕にはなく、駐車場に停めておいた車を取りにマンションを出た。


 車に乗り込んで、頭上のサンバイザーに挟んでいた駐車券を取り出す時に、ひらりと懐かしい写真が落ちてきた。


 それは鳥取で桑重がラクダに蹴られるほんの数分前に撮った写真だった。あの時は気づかなかったけれど、よく見たら、この時すでに桑重はラクダに睨まれているではないか。


 ラクダの蹴りを食らってもピンピンしてたんだから、大丈夫だよね? と写真の中の桑重に訊いてみると


「あいつ、後ろ足で蹴りやがったうえにゴミ虫でも見るような目で見てきたのが、尚更ムカついたぜ」


と唾を飛ばしている気がした。


 当時、写真を撮り終えてようやくラクダに跨がれるという運びになった僕達だったが、数分後いや数秒後には、目の前では尻もちをついて目をまん丸にさせている桑重がいた。


 砂丘の真ん中で『ラクダのこぶは脂肪なんだろ? ぽよぽよじゃねぇか、とかなんとか言うから蹴られるんだよ』と元木が呆れ


『ホントのことじゃねえかよ』と桑重が不貞腐れる。


気まずそうにラクダ使いが桑重に謝罪して、居心地悪そうに腰を低くしていたのをよく覚えている。あんまり仲良くない人の結婚式に来てしまった人のような佇まいだった。



 砂まみれになった服を払いながら桑重は立ち上がった。気にするな、と格好よく手で制しているが、ラクダに蹴り飛ばされた男だと思うと、何をしても面白いだけだった。


『考えてみてよ、桑重が力こぶを披露してる時に、それホントは全部脂肪だろ、って言われたら嫌な気持ちになるでしょ。嫌な気持ちにまではならなくても、ムッとはするはずだよ。それと一緒。ラクダもムッとなったんだ』


『いや、俺、力こぶ見せびらかしたりしないし』


『もー、例えばだよ。例えば』


元木は真っ白になった桑重の服を叩くのを手伝っていた。その隙にラクダとラクダ使いの人はさっさと逃げるように他の場所に移ってしまった。


『一つだけ言っておくけどな、元木。俺の上腕二頭筋はれっきとした筋肉だ。脂肪なんかじゃない』口を尖らせて桑重は言う。


『ちゃんとムッとしてるじゃん』




 車をマンションの前までまわした僕は、項垂れる航太くんを乗せて病院へ向かった。さっきサンバイザーから出てきた、桑重がラクダに蹴り飛ばされる奇跡的な瞬間を収めた写真を航太くんに渡す。


「これ……」しげしげと写真を見つめて「さっきの話、まじだったんですね」と目を細めた。


「俺を落ち着かせるための冗談かと思ってました」


「嘘みたいな話だけど、ほんとだよ。それ、あげるからお守りにでもしてよ、何祈願か分からないけどね」


「ラクダに蹴飛ばされない祈願ですか?」


「やけにピンポイントなお守りだね」


僕はくすりと笑う。そういば、と鳥取でラクダ使いが言っていた言葉を思い出した。


「そういえばね、ラクダは一日に80kmも歩けるらしいよ。だからその写真を持ってたら、たとえ迷子になっても、ちゃんと行きたかったところにたどり着けるんじゃないかな。迷っても、歩いていたらいつかは外に出られるよ。そういうお守り。どう?」


「迷わないようになるんじゃなくて、迷っても大丈夫っていうお守り、珍しいっすね。まあせっかくなんで、いただいときます」


 言いながら、航太くんはその写真をぎゅっと握って、しばらく眺めていた。信号が赤に変わる。僕は一旦停止して、窓を開けた。セミの鳴き声が景色を歪めるほどに響いている。


 夏も本番だった。





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