俺が1番だった
机を挟んで向かい側に、航太くんがノートと教科書を広げて真剣な眼差しで問題を解いている。
桑重が夕飯の買い出しにでて僕と航太くんの二人きりになると、家はびっくりするほど静かになってしまった。
それはアクション映画を観た後、映画館の外の音がやけに小さく聞こえる現象に似ている。
ともかく、桑重の頼みで航太くんの勉強をみることになった僕は、二人の暮らすアパートへと訪れていた。桑重も僕も同じ大学を出ているため、学力にさほど差はないと思うのだが、僕を呼んだのは他に理由があるからなのだろうか。
黙々と問題を解く航太くんを見守る。
お茶菓子をつまんで、冷たいお茶を飲みながら、僕は勝手に休日を満喫している。勉強している彼には悪いけれど。
彼は賢く、僕が教えることも少ないので数分に一回は僕がここに来た理由を見失いそうになる。お菓子を食べに来たのだっけ? と。
そういえば、大学時代の四年間を過ごした、あの懐かしのアパートから桑重は引っ越していた。
夜通しカードゲームや麻雀をして飽きたら雑魚寝をしたあのアパートではなく、部屋の広さだけでいえば倍はありそうな清潔で整頓されたアパートに僕は招かれた。
桑重から息子ができたたと言われた時は、ありとあらゆる心配が頭をよぎったが、しかし僕の不安など当人たちにとったら他人の戯言のようなものだ。
彼らがいかに上手く二人で暮らしているかは、この部屋をみれば一目瞭然だった。
「吉野さんって、先生と付き合い長いんですか?」
唐突に航太くんが口を開いた。勉強を始めて2時間が経つ。そろそろ休憩を挟んでもいい頃合いだった。
「え、ああ……どうだろう。大学時代の友人だよ。でもそうだね、たった4年間の付き合いだけど、桑重の家には腐るほど入り浸ってたかな」
「……そうですか。先生から俺の勉強みるように言われて、正直めんどくさいなって思いましたよね。俺だったら、絶対断るし。なのに断らなかったのって、何でなんですか」
「ううん、なんで、なんだろうね。あんまり考えてなかったかも。確かに、せっかくの休日を家庭教師として過ごすって、結構変かもね。時給も発生しないし」
「何の得もない」
「まあでも、お菓子は食べれてる」
航太くんは視線を落とし、シャープペンをくるくる回す。最後の一問が、まだ解けていないようだ。
「なんで僕がここに来たのかといえば、そうだね、桑重のことをなんだかんだ信用しているからかもね。あんな傍若無人な人だけど、僕に頼んだのには理由がある気がするんだ」
「理由ですか? あるのかなあ、先生ってマジで考えてること分かんないんですよね」
航太くんは頭をかいて、机に突っ伏した。
僕なんか4年間一緒にいたけど、まだ分からないことだらけだ。なんなら、理由なんてないような気もする。
「分からないけれど、僕は一つだけ知ってるよ」
僕は内緒話をするみたいに声をひそめて言う。
「桑重はね、普通の人がくよくよ悩んで、覗き込むのも恐ろしい崖縁を、縁ではなく、ただの道の途中にしてしまえるような、とんでもない男だよ」
それがどこまで計算されたものなのか、こちらにはちらりとも匂わせないのだ。だから、僕はふと思う、桑重の心の井戸に石ころを投げ込んだら、どんな音がするのだろうと。
「そういえば────」
と航太くんがゆっくり顔を上げた。
「俺の両親のお葬式の時に、先生が俺を引き取るってことに決まったらしくて」
記憶を辿るように話す。航太くんが桑重に引き取られた経緯の詳しいところを、僕は何も知らなかった。
とくに詮索するつもりもなかったせいか、これは僕が聞いてもいいことなのだろうか、と隣の部屋の会話を盗み聞きしてしまったような気持ちになる。
「初めて先生の家に来た時に、俺、『嫌な役回りさせてごめん』って先生に謝ったんです。俺なんか邪魔だと思ったから。そしたら、あの人なんて言ったと思います?」
突然のクイズに動揺した。
「う、うーん、なんだろう」なんて言ったのだろうかと真面目に考えてみる。桑重のことだから、慰めや謙遜なんかは口にしないだろう。
ううん、と僕は首を捻る。
航太くんは僕に答えを求めているわけではないようで、思い出したようにクスッと笑うと、すぐに続きを話してくれた。
「先生はね『俺が一番だったから』って言ったんです」
「それは、どういう意味だろう」
「俺も最初、何言ってるのかわかんなくて聞きましたよ。そしたら」
『誰が引き取る?って話になったから、俺が一番に手を挙げたんだ』って。
『こういうのって早いもん勝ちだろ? 整理券配ってる飲食店にジャンケンで入んねえもんな』とも言ってましたよと航太君は笑った。
僕もぷっと笑う。桑重らしい答えだった。
「すごいね」
「俺を誰が引き取るかの押し付け合いになるって分かってたから、絶対に迷惑だって、そう思ってたから謝ったのに。
なのにあの人……変すぎる。
一年一緒に暮らしても、本当のところどう思ってるのか、なんだかよく分からないんですよね」
「僕達に航太くんのこと話してくれた時、桑重は誇らしそうだったよ。だから、その言葉に嘘は無いと思う」
そう言うと、航太くんは苦笑いと照れ笑いが混ざったような表情になった。
「まあ、ちょっと嬉しかったんですよね」
航太くんの崖の縁は『嫌な役回りをさせたこと』だったのだろう。そしてその崖縁を桑重は、スキップで歩いていった。
その場しのぎの同情や気遣いとは別格の『ただ引き取りたかったから一番に手を挙げた』という単純明快な純心さが彼の崖縁に道を掛けた。
こんなの桑重にしかできない。仮に僕が同じことを言っても、同情や気遣いに受け取られてしまうだろう。
「先生がよく大学時代の話をしてくれるけれど、先生の周りの人って何でこんなに優しい人ばかりなんだろう」
航太くんは大きく伸びをして言う。
時計を見ると桑重が出て行ってからもう30分は経っている。まったく、どこをほっつき歩いているのか、帰ってくる気配はない。
「桑重は航太くんに何を話して聞かせてるんだろう。変なこと言ってないかな」
「吉野さんのことマザーテレサって言ってましたよ」
「それは、どうなんだろう。喜んでいいのかな」
「あれはたぶん褒めてました、先生」
ううん、と僕も航太くんにならって苦笑いと照れ笑いを半分こした表情を作ってみせた。
その時、電話の鳴る音がした。
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