第三色 黄色い言葉、希望の芽吹き
「そうか。それはなぜ?」
彼はなんでもないことのように聞いてくる。
その口調には抑揚がなく、平坦だ。
「両親の喧嘩を、なくすため」
それを聞いた彼は高らかに笑った。
すごく失礼な人だ。でも、不思議と怒りは湧いてこない。なぜだろう?
「君が死ねば、両親の喧嘩は無くなるのかい?」
「はい」
「ふーん。それはなぜ?」
「喧嘩の原因が、私だから」
「もっと詳しく知りたいな」
私は「本当に失礼な人だな」と思ったが、口には出さない。
その代わり、私の口は別のことを話し出した。
「母は、私に自由に生きてほしい思ってるんです。それに対して父は、厳しく育てるのが、私のためだと思っています。よくある育児問題ですよ。二人は価値観が合わないから、毎晩のように私のことで言い争っています」
私は言葉を切る。脳裏には、激しく怒鳴り合う両親の姿が浮かんでいた。
「元々は、とても仲の良い夫婦だったのに。でも、私が生まれたせいで……」
自分がずっと思い悩んでいたことを言語化することで、胸の辺りがキュッと締め付けられる。
「なるほど。君は他人のために死ぬのかい?」
「他人じゃない。家族です」
「いいや。家族だろうと友人だろうと、自分以外はみんな等しく他人だよ。君、もしかして他人って漢字を書けないのかい?」
私は押し黙る。
他の人。自分以外の、他の人。
私は彼の言葉を聞いて、妙に納得してしまう。
「ふーん。なるほど」
彼は何かを理解したかのように頷き、こちらを見据えて言う。
「君はとても悩んでいるようだけれど、今までに一度でも、両親の喧嘩を止めるために、何か行動を起こしたのかい?」
私は首を傾げる。いまいち質問の意図をつかめなかった。
それを見た彼が、少し噛み砕いて繰り返す。
「君は今まで、両親の喧嘩をただただ見ていただけなのかい?相談したり、二人の間に入ったりしなかったのかい?」
私はここでやっと、彼の質問の意味を汲み取った。
相談、か。その言葉を聞いて、友人との会話を思い出す。
♢♢♢
あれは、どれくらい前の話だろう。先週くらいだろうか。
いつも通り学校へ行くと、真っ先に友達に声をかけられたことがあった。
「ねえ、縁利。最近顔色悪いよ?何かあったの?」
私は内心、バレた?どうしよう、せっかくこれまで、誰にも気づかれずに過ごしてきたのに……、と気が気でなかったが、
「え?そうかな。たぶん遅い時間までアニメを見まくってるからかもしれない」
私は作り笑いを顔に貼り付ける。心配してくれた友人に嘘をつくのは心苦しかった。
「そう?」
友人は、心配そうな顔をしている。
「何かあったら相談してね?私たち友達なんだから」
「うん。ありがとう」
相談は、できない。心配も、迷惑もかけたくない。
それに、こんなことで悩むのは恥ずかしいことだと思った。
♢♢♢
「で、どうなの?」
少年の言葉に我にかえる。
「いや、私は……」
「してないんだろ?」
私に被せて彼が言う。彼のニヤけた口が開く。
「何もしていないのに、口を挟まず、行動も起こしていないのに、自分が抱えている悩みが解決すると、本気で思っていたのかい?」
不思議な声だった。怒っているわけではない。馬鹿にしているわけでもない。ただただ平坦で、温度のない声。
「私はずっと何もできなかった。だから今日、両親のために行動しようと……」
「行動して、死のうとしたと?」
私は控えめに頷く。
「それは逃げだな。行動とは呼ばない」
私は少しムッとして、彼を軽く睨んだ。
「いやいや。何も、逃げることを否定しているわけではないよ?俺も最後は逃げたしね」
彼の言う「最後」が、私の中で勝手に「最期」と変換された。
「逃げることも大切だ。諦めなければ、どうにかなるわけではないからね。努力は平気で人を裏切るし、何もかもが無駄に終わることだって、たくさんある」
この人は一体、なんの話をしているのだろう。
「あ、そうそう勘違いしているかもしれないけど、別に俺は、君の自殺を阻止しようとしているわけではないよ?ただ、お話ししてみたいだけさ」
ますます意味がわからない。
不信感を募らせる私をよそに、彼は話し続ける。
「では、もう一度聞こう。君は今までに何か、行動を起こしたのかい?」
「いえ、何も……」
私は目をそらす。
「そうか」
彼はあっさりとした口調で頷く。
「なら、まだもったいないな」
「もったいない?」
「ああ、もったいない。何もしてないのに諦めるのは、もったいないだろ?」
彼の軽い言葉に、私は今更のようにイラッとして、奥歯を噛み締める。
「あなたに何がわかるって言うんですか?初めて会った私の、一体何が……」
「何も知らないよ」
彼はまた、私の言葉に被せる。
「俺は君のことを知らない。君がどれだけ苦しんで、どんな覚悟を決めて、これほど長い階段を登ったのかも知らない」
彼は一度言葉を切り、「でも、」と続ける。
「そこから飛び降りたら、もう終わりなんだよ。グシャッて潰れてペシャンコだ。結構あっさりしていて、それなのに、もう決して戻れない」
彼はまるで、体験したことのように語る。
飄々とした彼の態度に、私はだんだんとムカついてきた。
「この景色を見てください」
そう言って後ろの景色を示す。
「こんなに汚い世界で、こんなにも醜い世界で、生きる意味ってなんですか?」
私の眼前には、濁り切った世界が広がっている。
すると、後ろから彼の笑い声が聞こえる。私はもう一度、彼に向き直る。
「何がおかしいんですか?」
「何もかもが、だよ」
私は怒りで何も言えなかった。
彼はしばらく笑い、また口を開く。
「まず、君に生きている意味なんてない」
「え……」
「ああ、違う違う。別に君だけじゃない。生きとし生けるもの、全てに意味なんてないよ」
急になんてことを言い出すんだ、この人は。
私はわけがわからず、黙っていることしかできない。
そんな私に気付いてか、彼は説明を始めた。
「だって、君が生まれたのはたまたまだろ?そんな偶然の産物に、意味なんてあるはずないじゃないか。難しく考えすぎなんだよ。君はもっと、自由に生きなよ。あるはずのない意味になんて、とらわれる必要はないんだ」
私は彼の言葉を聞いて、固まってしまう。
生きる意味なんてない。だからこそ、自由に生きていい。
なんて、優しい言葉だろう。なんて、温かい言葉だろう……。
綺麗な彼の言葉を聞いて、先ほどまでの怒りがどこかへ飛んでいってしまった。
呆然として、黙ったままの私を尻目に「それと」と彼は続ける。
「さっき、『こんな醜い世界』って言ってたよな?」
先ほどの彼の発言に心が震えていて、言葉を口に出す余裕がなかった。
やっとの思いで首を縦に振る。
「じゃあ聞くけど。今まで、綺麗な星空を見たことがないの?空にかかる虹は?煌めく朝日は?淡い夕焼けは?」
「……それが、なんだって言うんですか?」
私は言葉を絞り出し、顔を上げる。
先ほどまでより弱くなった雨が、今も静かに私たちを包んでいた。
服が水分を防ぎ、体温を奪っていく。
対して彼はあまり濡れていないように思う。気のせいだろうか。
雨の中、彼が静かに言う。
「君は、世界を断片的に見過ぎなんだよ。別に君に限ったことではないけど。人間は皆等しく悲観的な生き物だ。『コップの中の水をどう思うか』っていうやつ分かる?」
私は頷く。『コップの半分まで入った水は、半分もあるか、半分しかないか』という質問のことだろう。
ちなみに私は半分しかだ。
「そんなの、状況によるよな?のどが渇いてるときは半分しかだろうし、逆にそれほど重要性がないときは半分もだろうからな。そんなことで、人の本質がわかるかよ」
彼の口調に少しずつ熱がこもっていく。私との会話を楽しんでいるように感じた。
続けて彼が言う。
「人は弱いから、痛みに敏感だから、自分の傷ばかりに注目しがちなんだよ。自分が今、どういう状況なのかも知らずに、自分の擦り傷を大袈裟に痛がる」
今の彼の言葉は、聞き捨てならなかった。
「私の悩みなんて、ちっぽけなものだって言いたいんですか?」
彼の言葉を聞いている中で、少しずつ心を揺さぶられている。そんな自分から目を逸らしたかった。
「知るかよ」
彼の言葉と声のトーンがガラリと変わる。
同時に、私たちを包む空気も、変わった気がした。
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