元介護士の異世界ボードゲームカフェ

ヨンドメ

第1話 雪夜の別れ

雪が降っていた。


佐藤真人は、特別養護老人ホーム「グリーンガーデン」から出ると大きくため息をついた。時計を見ると午後11時15分。今日も長い一日だった。


「本当にありがとうございました。佐藤さんがいてくださって、本当に助かりました」


つい30分前、入居者のご家族からの涙ながらの感謝の言葉が胸に響いていた。認知症が進行した88歳の田中さん。夜中に何度も起き上がろうとして転倒リスクが高く、ご家族も心配されていた。


半年かけて築いた信頼関係があった。田中さんが元大工だったことを知り、木工作業のレクリエーションを提案したことで、夜間の不安も和らいでいった。今日は、バイタルチェックと環境調整で、久しぶりに一晩安眠できた。


達成感があった。確かに今日は一人の入居者の方と、一つのご家族を安心させることができた。これが自分の仕事の意味だった。


しかし。


アパートに帰ると、テーブルの上に積まれた介護記録用紙の山が目に入った。明日の状態変化報告書、ケアプラン更新3件、家族面談の準備、そして今日新たに発生したインシデント報告書が5件。


「また明日も...」


達成感は一瞬で現実の重圧に押し潰された。入居者120名に対して夜勤スタッフは2名という慢性的な人手不足。同僚も皆疲弊していて、助けを求める余裕もない。


真人の性格も問題だった。頼まれると断れない。15分の身体介護で、本当は30分かけてお話を聞いてあげたい。でも現実は、次の方が待っている。時間が、圧倒的に足りない。


シャワーを浴び、コンビニ弁当の夕食を済ませた後、午前0時を過ぎてから、真人は一人で『トレジャーアイランド』のルールブックを開いた。協力型のゲームで、プレイヤー全員が一緒に沈みゆく島から宝物を回収する。勝つも負けるも、みんな一緒。


「これなんだよな...」


現実の仕事では、一人で抱え込むことばかり。でも、このゲームの中では違う。みんなで協力して問題を解決する。


「パイロット」が自由に移動して情報を集め、「エンジニア」が島の修復を担当し、「ダイバー」が水没した場所にも潜れる。それぞれが異なる能力を持ち、それぞれが欠かせない役割を果たす。


一人じゃできないことも、みんなでなら必ずできる。


ルールブックのイラストを見つめながら、真人は理想的なチームケアを想像していた。看護師、理学療法士、栄養士、相談員、介護職員...まるで『トレジャーアイランド』の役割分担のように。


でも現実は、人手不足で連携する時間もない。一人ひとりが目の前の業務に追われて、「チーム」として機能していない。


インターネットの動画で、ボードゲームカフェの様子を見ることがある。年齢も職業も違う人たちが、一つのテーブルを囲んで、心から楽しそうに笑い合っている。まるで、理想的なチームケアのような温かい光景。


「いつか退職したら...ボードゲームカフェを開きたいな」


それは真人の密かな夢だった。人を笑顔にしたいという想いは今の仕事と同じだが、時間に追われることなく、一人ひとりとじっくり向き合える場所。


入居者の方々とも、本当はこんな風に、ゆっくりと、心から楽しみながら過ごしたかった。一人ひとりの人生に耳を傾けて、時間を気にせずに聞いてあげたかった。


でも、それは遠い将来の話だった。


‐‐‐


それは日曜日の午後だった。


「佐藤さん、すみません。緊急のケースが入りまして...」


休日なのに、施設から緊急連絡が入った。入居者の田村さん(82歳)が体調を崩し、バイタルサインが不安定になっているという。


「分かりました。すぐに向かいます」


施設での対応は午後6時過ぎまでかかったが、田村さんの容体は安定した。実は不安から来る心因性のものが大きかった。ゆっくりと話を聞き、手を握って「大丈夫です」と何度も伝えると、表情が和らいだ。


「今日は本当にお疲れさまでした。佐藤さんのおかげで、おじいちゃんも安心できます」


また一人の入居者の方の安全を守ることができた。でも、疲労は確実に蓄積されていた。


外は真っ暗で、雪が降り始めていた。


雪道を歩きながら、真人はふらつく自分の足に気づいた。この数ヶ月、まともに休んだ記憶がない。体が限界に近づいていることは、自分でも分かっていた。


「でも、明日もまた誰かが困っているかもしれない...」


雪はどんどん激しくなってきた。体が重くて思うように進まない。


そして、絶望が訪れた。


「本当に人を幸せにできているのかな...」


毎日必死に働いて、残業して、休日出勤して。でも、同じような状況の方が、明日もまた現れるだろう。一人を助けても、また一人。永遠に続く繰り返し。


「ボードゲームの世界みたいにはいかないんだ...」


ゲームの中では、みんなで協力すれば必ず問題を解決できる。でも現実は、一人で抱え込むことばかり。


足がもつれた。


雪で滑りやすくなった歩道で、真人はバランスを崩した。疲労困憊した体では支えきれない。


雪の上に倒れ込んだ時、真人の意識はもうほとんど残っていなかった。


「もっと...もっと多くの人を笑顔にしたかった...」


それでも、真人の心に浮かんだのは、ボードゲーム動画で見た光景だった。年齢も職業も違う人たちが、一つのテーブルを囲んで、心から楽しそうに笑い合っている。


「いつか...人を笑顔にしたかった...」


「いつか...ボードゲームカフェを...みんなが笑顔になれる場所を...」


「一人で抱え込まなくていい場所を...『トレジャーアイランド』みたいに...みんなで一緒に問題を解決できる場所を...」


「入居者の方々と...時間を気にせず...一人ひとりとじっくり向き合える...そんな場所を...」


雪が静かに降り続ける中、真人の体は冷たくなっていった。


でも、その想いは消えることはなかった。人を笑顔にしたいという純粋な願い、一人ひとりとじっくり向き合える場所を作りたいという夢は、雪の夜空に静かに舞い上がり、別の世界へと旅立っていく。


手には、凍りついたボードゲームのルールブック『トレジャーアイランド』が握られていた。最後まで、彼の心の支えだったのかもしれない。


‐‐‐


翌朝、近所の人に発見された時、真人の表情は安らかだった。


佐藤真人、享年35歳。


生前、彼を知る人々の口からは、一様に「優しい人だった」「本当に入居者のことを考えている人だった」という言葉が聞かれた。


「佐藤さんがいなかったら、私たちはどうなっていたか...」


田中さんのご家族は涙ながらに語った。「おじいちゃんが最後に安らかに眠れたのは、佐藤さんのおかげです」


彼が最後まで大切にしていたボードゲームのことを知る人は少なかった。でも、もしかすると、それこそが彼の本当の夢だったのかもしれない。


人を笑顔にしたい。一人ひとりとじっくり向き合える場所を作りたい。時間に追われることなく、みんなで協力し合える温かい場所を作りたい。


その想いは、雪の向こうの世界で、新しい形となって花開くことになる。

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元介護士の異世界ボードゲームカフェ ヨンドメ @kikuchiren

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