第6話




 数ヶ月ぶりに戻った村は、なにも変わっていなかった。畑にはぽつりぽつりと作物が実り、そこかしこで農作業に精を出している人がいる。小さな子どもが数人、転がるように駆けていくのを横目で見ながら、穂摘の足は自然と家に向かっていた。

 細いあぜ道を歩き、柏木の屋敷の裏を通ってついた家は、やはり焼け跡でしかなかった。あの火事から何度か雨露に濡れたのか、炭化した柱は触れるとしっとりと湿っていた。

 全てが焼け焦げたなかをしばらく眺めていた穂摘だったが、ふと思い立って墓場に足を向けた。

 あまり交流はなかったが、村の人が弔ってくれたのではと期待を込めて墓場を見て回り、ようやく小さな石が添えられただけの墓を見つけた。名前はなかったが、墓には生前母が好んでつけていた櫛が供えられていたため、それとわかった。

 次に来たときには花を添えよう。そう思いながら墓に手を合わせてしゃがみこんでいると、ざりっと砂利を踏む音がして、穂摘は瞑っていた双眸を開いた。

 誰かがこちらに歩いてくる姿が見える。手に弓を持ち、ざりざりと足裏でわざと土を蹴るように歩く姿には、見覚えがあった。

(重吉さん)

 こちらを訝しげに見ながら近付いてくる男は、瀕死の穂摘を山道に放って逃げた重吉だった。

 彼だと気付いた穂摘はあわてて目をそらしたが、重吉は穂摘だと気付いていないのか、土を蹴りながら近付いてくると、傍らに立ち止まって顔を覗き込んできた。

「なんだお前、どこのだ」

「え……」

 好かれてはいなかったが、顔をすぐに忘れられるほど短い付き合いではない。まさか二ヶ月見なかっただけで忘れたのかと驚きと怒りに思わず立ち上がると、重吉は目を二三度瞬かせたあと、にやと笑った。

「名前、教えろよ。俺は柏木の重吉だ。そら、そこの屋敷は俺の家だ」

 この男はなにを言っているのか。

 怒りに眩暈すら覚えながら口を開こうとすると、へらへらと笑ったままの重吉が唐突に近付き、穂摘の肩を抱いた。

「頼むよ、名前を教えてくれ。お前みたいな別嬪、見たことねえ」

「……重吉さん」

「ん?」

 仮にも許婚だった人間を見捨てた罰にでも当たって、記憶を飛ばしでもしたのだろうか。

 そら恐ろしささえ感じながら穂摘が重吉を呼ぶと、軽薄を絵に描いたような彼は、上機嫌で顔を向けてきた。

「穂摘」

「あ? ほづみ? お前、穂摘ってえのか。俺には巡りの悪い名前かと思ったら、そうでもないもん……だ……?」

 穂摘が名乗ってなお軽口をたたいていた重吉だったが、じっと穂摘が見つめると、やがて顔色がさあっと変わった。口がもつれ、驚愕に目が見開く。肩を抱いていた手が離れ、ざりっと砂利を鳴らしながらたたらを踏んだ重吉は、自分を見つめてくる人物にようやく心当たりを見出したのか、顔面を蒼白にしながら口を開いた。

「お前……お前、あの穂摘かっ」

「そうです」

「なんで生きて……」

「親切な方に助けていただいたんです」

 ひんやりとした怒りに満ちていた胸が、志郎を思い出した瞬間だけふわりと温もりを抱く。無意識に瓢箪を抱き締めながらぐっと体をこわばらせると、重吉はまだ信じられないものを見るように目を擦り、頭を振った。

「夢か? いや、お前、痘痕だらけだっただろ。白粉でも塗ってるのか」

「白粉なんて塗ってません。火傷を治していただいたんです。痘痕はわからないけど……」

「嘘つくな、どこにも痕がない、痘痕も火傷もだ」

 そう言われても、鏡など持っていない穂摘はわかりようもない。ただ、あらためて腕を見てみると、確かに痘痕などないといまさら気が付いた。火傷の痕はもちろん、幼い頃に転んでつくった傷痕もまったく見当たらない。白くすべすべとした肌はまさに玉の肌だ。記憶にあった自分の肌とはまったく違う。

 信じられない気持ちで腕や足を見ていると、おもむろに手を掴まれた。顔をあげると、重吉が至近距離にいた。

「まあ、今のお前なら、嫁にもらってやってもいいなぁ。女でもこんな別嬪はそうそういやしねえ。お前、親父には会ったのか」

「まだ会ってません」

 掴まれた手をさり気なく振りほどき、穂摘は一歩後ずさった。にやにやと笑っているこの男は、途方もないひとでなしだ。重蔵も、世話にはなったが再び会いたい相手ではない。

 両親の弔いさえ済んでいるならすぐに村から離れようと考えていた穂摘が首を振ると、重吉は一歩踏み出して距離を縮めた。

「そりゃあいけねえ、親父にはお前も世話になっただろ」

「挨拶なら一人で行けますっ」

 とにかく重吉から離れたい。悲鳴のような声をあげて彼の脇を駆け抜けると、重吉は慌てた様子でしばらく穂摘、穂摘と叫んでいたが、墓場から抜け出してしまうとその声も聞こえなくなり、姿も見えなくなった。

 勢いのまま村を駆け抜けた穂摘は、気付けば山道の手前にいた。

 濃い緑に囲まれた山道を見上げても、そびえる山の至るところを探しても、穂摘を守ってくれる大きな手のひらの持ち主はもうどこにもいなかった。




「う、ん……あれ、志郎さ……」

 夜半、月の光が瞼にあたって目が覚めた穂摘は、ぼんやりと起き上がった。

 寝ぼけまなこをこすりながら周囲を見渡し、ため息が漏れる。

 ここはもう、志郎の家ではない。村の片隅にある、朽ちかけた小屋だ。

 墓場で重吉から逃げた穂摘だったが、結局行く先がなく途方に暮れた。

 家はなく、交流のあった村人もほとんどいない。重蔵と重吉、それに薬屋をのぞいてしまえば皆無と言ってもよかった。

 村から出て宿をとることも考えたが、隣の村までは山を越えて行かなければならず、傾いた陽に赤く染まる山に踏み入ることははばかられた。

 結局村のはずれにあるぼろ小屋に入り、小屋の壁にかけられていた蓑を敷いて眠ることになったのが、数刻前のことだった。

 幸いにも冬ではない。少し寒くはあるが、腕を組んで体をぎゅっと縮めていれば、我慢できた。

 まだ月は中天を過ぎたばかりだ。陽が昇るまでまだ数刻ありそうだと蓑の上に寝転んだ穂摘の耳に、がさりと音がぶつかった。

 風か、それとも木の葉が落ちた音か。

 耳をそばだてていると、再度がさりと音がした。草を踏み分け、明らかに何かが近づいてきている。

 人か、獣か――あやかしか。

「……」

 盗賊ならば、身ぐるみはがされてしまうかもしれない。

 獣なら襲われてしまうかもしれない。

 あやかしなら、

(志郎さん…)

 彼ならば、どんなにいいことだろう。

 人を食う妖怪もいると聞くが、実際に穂摘が関わったことのあるあやかしは志郎とお梅だけだ。彼らは穂摘に優しくしてくれた。

 がさりがさりと近付く音は、身を縮めている穂摘にじょじょに寄ってくる。不意にゆらりと差し込んできた影に悲鳴をあげそうになったが、とっさに呼吸ごと叫びを飲み込んだ。

「にゃーあ」

「っ……」

 がさりと一際大きくあがった音に目を見開いた瞬間、板壁の隙間からするりと小さな獣が忍び込んできた。よちよちと歩いてくるのは、薄汚れた子猫だった。

「あ……ああ」

 音の正体が子猫だったということに安堵して体の力を抜く。指先を軽く揺らして招くと、子猫は恐れもせずに寄ってきた。

 片手で掴めてしまうほど小さな子猫は、穂摘を見ると大きな瞳を細めてにゃあと鳴いた。

「……可愛いね、お前」

 人間を恐れる気配のない子猫をそっと抱き上げ、胸元に抱く。温かくて、ほっとした。

 しかし突然、先ほどよりもはるかに大きな音がして、身構える間もなくばりばりと板戸がはがされた。

 丸い月を背後にたたずむ影を前に、穂摘は瞬きをするしかなかった。




 甘えるようににゃあにゃあと鳴く子猫を膝の上に乗せて、穂摘は呆然としていた。

 あたりは暗く、障子の向こうにぼんやりと光る月以外の明かりはない。

 どうしてこうなったのか考えれば考えるほど、恐怖が胸をついて仕方なかった。

 月を背に現れた影は、重吉だった。

 穂積が墓場で逃げ出してからずっと探し回っていたと言う彼は、有無を言わさず腕を掴みんだ。そしてあっという間に穂摘を柏木家まで引っ張っていくと、部屋の柱にくくりつけ、静かにしろよと凄んでどこかへ行ってしまった。

 これからどうなるのかわかりようもないが、少なくとも良い方向に事が転びそうにない。逃げ出さなければと身をよじるが、きつく縛られた腕が軋んで痛むだけで、解けはしなかった。

 ごそごそと身じろぐたびに、胸元に入れた巾着の中で金の粒がちゃりちゃりと音を立てる。些細な音ではあるが、聞きつけた重吉が戻って来そうでひやひやした。

 重吉が穂摘をどうするつもりなのか、穂摘には全く見当がつかなかった。

 許婚という間柄ではあったが、彼は穂摘を嫌っていた。穂摘自身は重吉をどうとも思っていないが、お前なんぞを嫁にできるかと罵倒されたこともある。

 だが、再会した重吉はどういうわけか穂摘追い回し、あまつさえ軟禁までしている。昼間に会った時に娶ってやってもいいなどと言っていたが、まさか本気ではないだろうと思っていると、たすたすと板間を踏んでこちらに近付いてくる足音が響いた。

 はっとして顔をあげると、すらりと障子が開いた。月明かりを背にして入ってくるのは、やはり重吉だった。

 音を立ないようにそっと障子を閉めた重吉は、火を入れた小皿を片手に持ったまま穂摘の膝の子猫を追いやり、目の前に膝をつくとずいと顔を寄せてきた。

「おう、やっぱり綺麗なもんだ。本当にあの穂摘か?」

 ちらちらと揺れる火で穂摘の顔を照らす重吉は、ためすすがめつしていまだに訝しんでいる。それでも瞳の奥に秘められた好色な色は夜陰にも隠しきれておらず、柱を抱くように後ろ手に縛られた穂摘の腕には鳥肌が立った。

 気持ちが悪い。思わず穂摘が顔を背けると、ちっと舌打ちをして重吉は火皿を少し離れた場所に置いた。

「まあなんでもいい。そら、脚広げろ」

「嫌、です」

 経験などないが、穂摘とて多少の知識はある。脚を広げたらなにをされるかなどわかっていたし、今まで秘されていた場所をむざむざと晒す気など毛頭なかった。

 腕の自由はきかないが、縄をかけられていない脚は動かせる。とっさに膝を合わせて腿を寄せると、立てた膝頭に重吉の手がかかった。

「悪いようにはしねえよ。大丈夫だ、男も女もそう変わりゃしねえだろ」

「嫌だっ」

「暴れんじゃねえっ」

 ばしっと音がして、じんわりと頬が熱を持つ。熱はやがて痛みに変わり、平手で頬を張られたのだと穂摘が気付いたのは、一瞬くらりと揺らいだ視線が定まってからだった。

 さすがに暴力を受けたのは初めてで、驚きと恐怖に穂摘が呆然としていると、けたたましく子猫が鳴きだした。抗議するように濁った声でぎゃあぎゃあと泣き喚き、うるさい黙れと苛立ちを露わにする重吉の背に駆けのぼって爪を立てた。

「いてっ、てっ、やめっ、この野郎っ」

 腕を振り回して子猫を捕まえようとする重吉だが、ひらりひらりと躱されてしまう。それでもどうにか捕まえると、そのまま障子を開けて、外に放り出してしまった。

「なにするんですか!」

 ごみでも捨てるような乱雑さで放られたのか、どっという音とみぎゃっという鋭い悲鳴があがる。我に返った穂摘が抗議を唱えたが、重吉はさっさと障子を閉めた。

「これで邪魔者もいねえ」

 完全に二人になった空間が、ずっしりと重みを増して穂摘に圧し掛かる。ぶるりと肩を震わせると、それを宥めるように重吉の手のひらが頬を撫でた。

「ああ、すげえな。女郎なんぞよりいい肌してんじゃねえか」

 ざりざりと粗い指先が、何度も頬をなぞる。そのたびに悪寒が走るのを感じていやいやと首を振ると、穂摘の態度が軟化する様子が無いことを悟ったのか、また軽く頬を叩かれた。

「素直にしてねえと、痛い目見るのはお前だぞ。そら、脚開け」

「嫌だ、やっ、志郎さ……っ」

 力任せに左右に開かれた膝の間に重吉の腰が割り込み、一気に恐怖が増した穂摘が思わず志郎を呼んだ瞬間だった。

 にゃーおと恨めし気な猫の鳴き声が障子越しに響いて、ぴたりと重吉の動きが止まった。

 夜目にもわかるぎらぎらとした双眸で睨むように穂摘を見つめた彼は、ざりっと畳を膝で擦って、なおもにじり寄った。

「志郎? ――なんだお前、綺麗ななりに化けて、どこぞで男を誑たらしこんでやがったのか。いけねえなあ、許婚がいるってのに」

 重吉の吐息が頬にあたり、膝を割っていた手のひらが足の間に伸ばされる。ざらりと乾いた感触が内股を撫でるのが嫌で体を竦ませると、さすがに後ろ手に手を縛ったままだと体勢が悪いと思ったのか、重吉が伸びあがって穂摘の手首を縛っていた紐をほどいた。

「逃げんじゃねえぞ。逃げたらどうなるか、わかってんだろうな」

 解いた紐を背後に投げ捨てながら脅し文句を連ねる重吉だが、そう言われて大人しくするわけがない。手首から戒めが解けるなりごろりと横に転がってとっさに距離を取った穂摘に、重吉は尚も近寄った。

「逃げんじゃねえって言ってんだろ。悪いこたぁしねえよ、ほら、来い」

「嫌です!」

 背後はおそらく押し入れで、そこに逃げても道はない。じっとりといやな汗を掻く背をじりじりと横に移動させ、少しでも外へと続く障子に近寄る。

 獣同士の間の取り合いのような緊迫した雰囲気の中、穂摘は首から下がった小袋の存在を思い出した。

 別れの間際、志郎が穂摘に託してくれた小さな包み。中には薬効のわからない薬が入っている。そのまま飲ませてもいいと、志郎は言っていた。茶に混ぜてもいいと言っていたが、呑気に茶をくれなどと言える雰囲気ではない。

 視線を重吉に向けたままそろりと胸元に手をやり、小袋を紐から引きちぎり、手探りで中の薬を出す。ふと、鼻先を覚えのある匂いが漂った。

 その瞬間、にゃーおと先ほどよりもだいぶ大きな猫の鳴き声がした。ざあっと強い風が吹いた音がしたが、今の穂摘には関係のないことだった。

「なにしてんだ、お前。それぁなんだ」

 ずいと距離を詰めて、大きな手のひらが近づいてくる。

 こちらから彼の懐に飛び込めば、薬を口に放り込んでやることも出来たかもしれない。けれど、もし失敗したらどうなるかを考えれば、その選択肢はあっという間に掻き消えた。

 もし失敗すれば、組み敷かれ、秘した体を暴かれる。重吉のことだから、穂摘が隠し通してきた秘密を知れば面白おかしく騒ぎ立て、これまで以上に気味が悪いと詰るだろう。

 志郎が治してくれたこの体を無碍にしたくはなかったが、それ以上に重吉に汚されることは我慢ならない。

 伸びてきた手のひらが一瞬穂摘の手首をかすったが、それを振り払い、自らの口腔に薬を放り込んだ。

「―――あぐぅ……ッ」

 口蓋を、冷たい刃がなぞったのかと思った。

 喉から食道、鼻腔にかけて真冬の空気のような冷感が抜ける。ぐらりと視界が歪み、喉が焼け付くように痛んだ。麻痺したように動かない顎のあたりに伝っているのが涎なのか、それとも血でも吐いてしまったのか、穂摘にはわかりようもなかった。

 突然、にぎゃあと猫の鳴く声がした。

 バンと激しい音が鼓膜をたたき、庭に面した障子が吹き飛んだのは、閉じゆく瞼の隙間から垣間見えた。

 庭にいくつもの光る火の玉が浮き上がったかと思えば、それらはぞわりと膨らんだ。すると先陣を切るように巨大な蝦蟇が暗闇から飛び出してきた。その瞬間、穂摘の意識は冷たい痛みの中に落ちていった。





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