第5話
お梅は、あれあれと驚きながらも、ずっと隠していたことを教えてくれた。
「驚かせてごめんよ。あのね、あたしたちは……、あ、ねえ、しろさん。言ってもいいかい?」
志郎は薬を保管している部屋から出て来ない。お梅が一応と伺いを立てると、ひどくくぐもった低い声が分厚い引き戸越しに届いた。
「………ああ」
「しろさんがいいって言ったんなら、あたしも喋れるよ。あのね、あたしたちは……ああ、もちろんしろさんもだし、村の人たちもそうなんだけど……人間には、妖怪って呼ばれてるんだ」
「妖怪……」
ぽつりと呟いた穂摘に、お梅は左右に揺れる声でそうだよと返した。また首を伸ばしているのかもしれない。
思い返してみれば、お梅の声はいつも突然近くに寄ってきた。身体より先に首が伸びてきていたからだったのだ。穂摘が寝付いていた時も足音がしなかったのではなくて、きっと体は土間のあたりにあって、首だけが穂摘の傍に来ていたのだ。
「その……あやかしは、いやかい?」
呆然としたまま穂摘が座り込んでいると、心配そうな声が上に下にと揺れた。
「いっ、……いやじゃない、です……」
正直なところ、恐怖を覚えないと言えば嘘になる。首が伸びる人間など、穂摘は見たことがない。それでも、穂摘は彼女の優しさを知っている。
あわてて首を振る。とたん細い腕に身体を抱きすくめられた。
ふわりと鼻を掠めるのは、いつもよりずっと近くに感じるお梅の香の匂いだ。
「本当かい? ああ、嬉しいねえ嬉しいねえ!」
嬉しい嬉しいと繰り返しながらお梅はぎゅうぎゅうと穂摘を抱きすくめ、驚きにこわばる背を撫でた。
(……おかあ)
優しい手のひらが、火事で喪った母親を不意に思い出させる。目頭がじわりと滲むような熱を持ち始め、泣いてはいけないと、思わず穂摘もお梅の背を抱き返した。
「嬉しいねえ、穂摘ちゃん。――あっ、そうだ! ねえ、妖怪が嫌じゃないなら、しろさんのお内儀さんになっちまいなよ」
「えっ」
明るいお梅の声が、突拍子もないことを叫んだ。思わず滲みかけた涙が引っ込んで、穂摘は包帯の下で目を見開いた。一瞬目のふちが痛んだのであわてて閉じたが、穂摘の驚きに気付いていないお梅は、上機嫌な声をふすまの向こうに投げた。
「聞いたかい、しろさん。穂摘ちゃん、お内儀さんにしちまいなよう」
「えっ、ええっ」
妖怪を厭うつもりはないと答えはしたものの、それが嫁入りに直結するわけではない。それなのにお梅はもう決まったかのようにうきうきと声を張り上げ、返答のないふすまに向かって声をぶつけ続けた。
「ねえ、こんないい子、そうそう居やしないもんだよ。村長にも早く嫁御をもらえって言われてたじゃないか。いい機会なんだから、決めちまいなよ」
「お、お梅さんっ」
「なんだい? ああ、気にすることはないよ。大丈夫大丈夫、ちゃあんとあたしが皆に声をかけて、立派なお式にしてあげるからね」
「ち、ちが、ちがっ」
そういうことを気にしているわけではないのに、お梅は見当違いでしゃべり倒してくる。動揺でまともに穂摘がしゃべれずにいると、沈黙を守っていたふすまの向こうから、志郎の声が響いた。
「……だめだ。穂摘は村に返す」
硬い声が、きっぱりとお梅の提案を却下した。その瞬間、閉じた目で感じていた闇が、ずんと暗さを増して穂摘の双眸を染めた。
(あれ……?)
闇はじわじわと胸をも侵食し、不可解な不快感をもたらしてくる。それはお梅と志郎のやり取りが進むに従って、広く体中を支配し始めた。
「どうしてだい。こんな可愛い子だよ、気立てもいいのに」
お梅が言い縋るのとほぼ同時に、がらりとふすまが引かれる音がした。はっきりと志郎の声が響く。
「帰ってくれ、お梅さん。穂摘は、だめなんだ」
その言葉に、即座にお梅が噛みついた。
「どうしてさ。教えてくれないんなら、あたしだって引き下がれないよっ。それにしろさん、穂摘ちゃんはふたなりだ。村長だって……」
「帰ってくれ!」
「きゃあ!」
「お梅さん!?」
ずいとお梅が穂摘から離れ、小さな悲鳴が響く。慌てて両腕を伸ばした穂摘だったが、彼女にその両手が触れることはなく、代わりにぴしゃんと戸が強く閉められる音がした。
「お梅さん? お梅さんっ」
どうしたのだろうか、なにがあったのだろうかと穂摘が声を張り上げると、今度は穂摘が強い力で抱き上げられた。志郎の腕だ。
「この馬鹿しろさんっ! いい子を逃しちまったって、あとで泣けばいいんだよっ」
引き戸の向こうからなのだろう、怒りを含んだお梅の高い声がくぐもって聞こえる。それが遠ざかったのは、志郎が奥の間へ穂摘を運んでしまったからだ。
そっと丁寧に降ろされたのは畳の上だった。いつもと同じしぐさなのに、雰囲気が違う。いつもは穏やかで温厚な志郎の雰囲気は、今や抗いようのない圧力と戸惑いを含んでいる。
穂摘は声もかけられず、間近にいるであろう志郎におそるおそる手を伸ばした。
ふらりと揺れる手に、ぽすりと志郎の身体のどこかが触れる。その手はすぐに体温の低い大きな手に包まれた。
「……明後日、村に返す」
零された声は、ひどく苦しげに掠れていた。
一瞬強く穂摘の手を握った手のひらは、すぐに離れる。それを追うことも出来ずにいる穂摘を置いて、志郎はぎしりぎしりと畳を軋ませながら遠ざかり、やがて家から出て行ってしまった。
それきり、怒り冷めやらぬといった様子で再び突撃してきたお梅が見つけるまで、穂摘は一人呆然と座り込んでいた。
翌朝、ふと目が覚めた穂摘がごそりと布団の中で身じろぐと、足音が近付いた。足音の重さから志郎だと気付くと同時に、いつ帰ってきたのだろうとぼんやりと思いながらも身を起こすと、ごく近くに志郎の雰囲気があった。
「おかえりなさい」
昨夜、穂摘が起きている間に志郎は帰ってこなかった。代わりにやって来たお梅がてきぱきと動き、志郎さんは、志郎さんは、と繰り返す穂摘は無理矢理寝かしつけられた。
どこに行っていたか、なにをしていたかを聞きたかったが、それよりも言わなければいけないことがある。
「志郎さん、あの――」
ここに置いてもらえるよう頼まなければいけない。怖気づきそうになりながらもどうにか穂摘は口を開いたが、それを遮るように志郎の重い声が響いた。
「明日、村に送る。それまで俺は山に行ってくる」
「志郎さん、俺は」
「隣の部屋には入らない、家から出ない。これだけ、守ってくれ」
「俺、ここにいたいですっ」
「だめだ」
ひどく事務的な口調で告げた志郎の声に負けじと穂摘も声を上げたが、願いは聞き入れられなかった。
「明日、村に送る」
そう言いながら、まるで抱き締めるように志郎が穂摘を両腕の中に入れた。頭の後ろでしゅるりと布が解ける音がして、目許を覆っていた布がふわりと解けた。
闇に慣れてしまった視界には、昼日中の光ですらまばゆい。うっすらと目を開けると、包帯に肌を隠した大柄な男がいた。
「志郎さん…」
じっと穂摘を見下ろしてくる双眸以外は、頭の天辺から指先に至るまで、衣服から出ている肌は全て包帯に覆われている。そんな異容に反して、穂摘を見つめる漆黒の目は穏やかだった。
「俺、ここにいたいんです」
深い色の双眸は、穂摘を突き放す色ではなかった。少なくとも、瀕死の同胞を山道に放って逃げる人間よりは、温度のある視線だった。
しかしそれでも、布の隙間からくぐもって聞こえる声は応じてはくれなかった。
「……すまない」
伸びてきた手が、一瞬躊躇するように揺れる。一度だけ頭を撫でて、それは離れた。
何度も穂摘を抱き上げてくれた手のひらの温度は、やっぱりひんやりと低かった。
ゆっくりと立ち上がり、籠を背に出ていった志郎は、今度は夜になっても朝になっても帰ってこなかった。
(志郎さんの足音だ……)
穂摘は視線を土間の向こうの引き戸にやった。
昨夜から一睡も出来ず、水を少し飲んだだけで食事も摂らずにいたせいか、少しぼんやりする。
それでも音に反応して土間を見ていると、すぐにがらりと戸が開いて、全身を包帯で包んだ長躯がのそりと入ってきた。その背には、昨日の朝に出て行ったときも背負っていた籠がある。
「……なにも食べてないのか」
出て行ったときと家の様子が全く変わっていないことに気付いたらしい志郎がぽつりと呟き、どさりと籠を下ろす。中からあけびを取り出した彼は、淡い紫の実をさくりと割って、座り込んだままの穂摘に差し出した。
「食欲がなくても、少し食べたほうがいい」
「……」
白い身がむき出しのあけびは美味そうだ。どこか麻痺したような心境でも口をつけると、ほんのり甘かった。
穂摘があけびをゆっくりと食む横で、志郎は白い小さな紙片に小指の爪ほどの粒を包んでいた。それを丁寧に畳むと片手に握って薬草の部屋に入って行き、ごそごそとなにかしている。
音を聞きながらあけびを食べ終わると、紐のついた手のひらほどの巾着を片手にした志郎が戻ってきた。
「そろそろ、行くか」
どこに、とは言わなかった。それでもしっかりとした重みを持つ声には、動かしようのない決心がある。のろのろと立ち上がると、志郎は穂摘を抱き上げた。
火傷で立ち上がれずにいた時から、志郎は何度も穂摘を抱き上げてくれた。この腕が穂摘を山から連れてきて、家の中を移動し、川にも連れて行ってくれたのだ。
それなのに、今日は逃げ出したい気持ちでいっぱいだ。
この腕はもう、穂摘とどこかへ行くためのものではない。穂摘を置いてくるためのものだ。
暴れていやだと叫びたい。けれどそんなことができないのは、自分が一番知っていた。
(せめて最後は、志郎さんの手間にならないように……)
なにくれと世話をかけたのだ。穂摘は選べる立場ではない。
むしろ感謝を持って別れなければいけないと、自分を抑えるようにぎゅっと縮こまった。
「少し跳ぶ。怖かったら、言ってくれ」
そう言って家から出た志郎は、唐突に飛び上がった。驚異的な跳躍力は一瞬で景色を後ろへ流していく。彼はまさに跳んでいた。
ひとっとびで二ヶ月近くも暮らした家が見えなくなり、気付けば山の中に入っていた。
風が耳朶を裂くような音を立て、穂摘はあまりの速さに志郎の衣服を握りしめた。すると穂摘を抱いた腕は、しっかりと抱きなおしてくれた。
緑と光と樹木の色が、視界をおびただしく埋めては流れていく。山の中であるということ以外全くわからないままでいると、ぶわっと一瞬にして視界が闇に包まれた。そうしてぱっと光が満ちたかと思えば、また山の中だった。
不意に、志郎が立ち止まった。
腕に抱かれたまま穂摘が見渡すと、小山の中腹にいた。眼下に広がる集落にはぽつぽつと民家が並び、真ん中には周りの建物より大きな屋敷がある。そして、そこから少し離れた所に黒く焼け焦げた小さな小屋があった。
「あ……」
まぎれもなく、穂摘の育った村だった。
大きな屋敷は重蔵の屋敷だ。そして、ほぼ全壊している焼け焦げた小屋は穂摘の家だ。
数ヶ月ぶりに見る集落を呆然と眺めていると、志郎がそろりと身体を屈めて穂摘を降ろした。
「ここからは、ひとりで行けるな?」
幼い子どもを宥めるように穂摘の頭を撫でた志郎は、背負っていた籠を降ろしてがさごそと中を探り、出掛けに持っていた小さな巾着を取り出した。
「これを持って行け。お前を守るはずだ。いざとなったら開けろ」
「いざとなったら?」
「薬が入ってる」
「……毒?」
まさかとは思うが、彼の扱っている薬草の中には毒になるものも含まれていると聞いている。志郎の仕事を手伝う時も、触れるのはいいが口にはしないようにと言われたこともあった。
紐のついた小袋を穂摘の首に潜らせた男は、首を横にも縦にも振らずに続けた。
「相手に飲ませるんだ。茶にいれてもいい。それから、これも持って行け」
志郎は次に、瓢箪をひとつと握りこぶしほどの巾着を穂摘に差し出した。その両方を受け取ると、瓢箪からはちゃぷりと水音がし、巾着はずしりと重かった。
「体調が悪くなったら瓢箪の水を舐めろ。すぐに治るはずだ。火傷や湿疹なら、肌に塗りこんでもいい」
「薬液ですか?」
「そうだ。これでお前の火傷も治した」
「これで……」
そっと栓を抜いてみると、覚えのある匂いがする。確かに、火傷が酷かった時期によく薬液を飲んでいた。あの薬液は、この瓢箪の中のものと同じものなのだろう。
瓢箪の口に近い位置まで満たされている薬液を零さないようにと穂摘が栓をしていると、脇に挟んでいた巾着がどすりと音を立てて落ち、その弾みで紐で括られていた口が開いて中のものがざらりと零れる。それは、眩い金の粒だった。
「し――、志郎さん、これっ……」
きらきらと輝く金の粒は、たった一粒で穂摘が半年は食いつなげるほどのものだ。
驚きに声を震わせると、志郎は石でも拾うように無造作にそれを巾着に戻し、しっかりと紐を括りなおすと穂摘の手につかませた。
「持っていけ」
「でも、こんな……」
「俺が持っていても、使い道もそうそうない。お前が使ってくれ」
「だけど俺、志郎さんによくしてもらってばかりで」
彼がいなければ、穂摘は確実に死んでいた。それを救い、回復させてくれたのは志郎だ。こんなにもよくしてくれたのに、なにも返せていないと穂摘が詰め寄ると、志郎は布で覆われた口許を少し緩めた。
「いいんだ。……お前と居られて、楽しかった。火傷ももうない、綺麗に治せてよかった」
大きな手のひらが、いつもするように穂摘の頭を撫でる。その感触は胸が苦しくなるほど優しく、気付けば穂摘の頬は双眸から零れ出した雫で濡れていた。
「今度は幸せになれ」
無骨な指が近付いてきて、繊細な仕草で目尻の涙を拭う。
「っ……あ…」
溢れた涙で前が見えず、ぎゅっと強く瞼を瞑って開いた瞬間だった。
まるで元から何もなかったかのように、志郎はいなくなっていた。
ちちち、と鳥が鳴く音がどこからか耳朶に滑り込み、さあっと風が凪ぐ。その風は頬に筋を描いた涙の痕を冷やしたが、つい今し方まで確かに志郎の触れていた目尻だけは、じんわりと熱を持ったままだった。
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