第4話


 さやさやと耳朶を優しく撫でるせせらぎが眠気を誘って、穂摘はうとうとと頭を揺らした。

 全身を覆っていた布もすべて取り払われたのが一昨日。今日は外に出て日向ぼっこをしないかと誘われた穂摘は、志郎に連れられて家の裏手にある川にいた。

 久しぶりに浴びる陽射しは家から出るなり皮膚をひりつかせたが、志郎がそばに傘を立ててくれた。おかげで手ぶらのまま日陰の中で足だけを川に浸して涼んでいると、すぐ近くでばしゃばしゃと水音がした。

「志郎さん」

「ん?」

「なにをしてるんですか?」

「水苔を採ってる。そろそろ家に戻るか?」

 ざばざばと水を掻き分ける音がして、ザッ、バシャとすぐ隣になにかが置かれる。そろりと手を伸ばすと、ざるのふちに手がかかったようで、その中にはぬるりとしたものが入っていた。

「まだ大丈夫です。これ、薬にするんですか?」

「ああ。軟膏の繋ぎにも出来る。擂って薄荷と混ぜたら患部の清涼にも使える」

「はっか?」

「匂いを嗅ぐと鼻や喉がすっと通るようになる草があるだろう。それだ」

「すっと通る……あ! わかります。あれも薬草なんですか?」

「そうだ。解熱や発汗にも使える。どこにでも生えていて…そら、ここにもある」

 素人である穂摘がなにを聞いても、志郎は驚くほどの博識でもって答えてくれる。すぐにぷちりとなにかを千切る音がして、鼻先に抜けるような匂いが寄せられた。鼻から喉や脳天に向けて、清涼な空気の管を通されたような感覚だ。

「すうってします」

「涼を得るにもちょうどいいな。俺が摘むから、ばらばらにしてくれるか。あとで乾かしておく」

「はい」

 頷くと、膝にざるが置かれた。ぷち、ぷち、と腿の横辺りで音がして、ぱさぱさとざるの中に葉が落とされていく。手探りでそれを掴んでできるだけ小さく千切っていくと、指先がすっと冷えて心地よかった。

 動けるようになってから、志郎はたまに簡単な作業を頼んでくるようになった。本当にごく簡単なものばかりだが、まだこわばりのある手先の運動にもなるし、暇を持て余したただ飯食らいでいるよりはと少しは気が楽になる。

 任されたのだからざるから零さないように、と用心しながら手探りで薄荷の葉を千切っていると、聞き慣れた声が遠くからあがった。

「おーい、しろさーん、穂摘ちゃーん」

 よく通る伸びやかな声は、お梅のものだ。

「お梅さん?」

「ああ。洗濯しに来たんだろう」

 志郎が言うと、間を置くことなくお梅の声が近付いた。

「穂摘ちゃん。外、出られるようになったんだね」

「はい」

「あらまあ綺麗になって。ちょいと見せておくれよ」

 どこかうきうきとした様子でお梅が言い、ばしゃばしゃと浅い川を渡ってやってくると、穂摘のすぐ隣に腰掛けた。

「見せておくれ」

「そんな、綺麗なものじゃないです」

「謙遜しなさんなって。そーら、綺麗なもんだ。さすがはしろさんの薬効だねえ」

 するりとお梅が手をとり、二の腕まで指を滑らせてくる。くすぐったさに穂摘が肩を竦めると、彼女はくすくすと笑ってぱちんと肌を軽く叩いた。

「痘痕とか言っていたけど、うん、両手両脚、どこにも見当たんないよ。しろさんの薬で治っちまったんじゃないのかい」

「でも、町のお医者さまでも治せなかったって、おかあが」

「町のお医者さまだって? あはは、そんなたかが知れているじゃないか。しろさんはね――……」

「お梅さん」

 不意に割り込んできたのは、志郎の声だった。いつも穏やかで朴訥としている彼の声は、今は硬く強張っている。そこに拒絶を感じたのは穂摘だけではないようで、それまで闊達にしゃべっていたお梅の口まで止まった。

 強く引き伸ばした弓の弦を思わせるほど、空気がぴんと張りつめる。その緊張感に穂摘が体を動かせずにいると、ぱしゃ、と水音があがった。

「ほ、穂摘ちゃん」

「お梅さん?」

 沈黙を破ったのはお梅だった。

 どこか上擦った声で穂摘を呼び、それから大変大変と騒ぎ出した。

「しろさん、布、布あるかい」

「――今持ってくる」

 せわしなく志郎が川からあがる音がして、家の方へと音が遠ざかっていく。

 どうしたのだろうか、先ほどの緊張感はどこへ行ったのだろうかと穂摘が動けないでいると、不意にお梅の手が腿の辺りに触れた。

「痛くはないかい? どうしたんだろうねえ、血なんて……」

「血?」

「そうだよ。痛いとこはないかい? ああ大変、着物が……」

 どこも痛くはない。どういうことだと穂摘が慌てだすより先に、あっとお梅が声をあげた。

「あの、あたし、勘違いをね、していたようなんだけど……」

 やけに歯切れ悪くお梅は言うと、ちょいとごめんよ、と小さく言った。その途端、膝までまくりあげていた着物の裾が腿ごとぐいと上げられた。

「わあっ」

「ああ、やっぱり……お馬だね。それとも初花……あら――うん?」

 不意にお梅の声に困惑が滲んだ。その理由に思い至った穂摘の背をざっと悪寒が走った。

「ちょいと、これ……穂摘ちゃん」

(見られた……)

 それだけだ。それしか、穂摘の心には浮かばない。

 拒否されるのか、それとも忌避されるのか。どちらにせよ、もうお梅は自分に笑いかけてはくれない、優しくしてくれない。そう思うと、一気に胸が冷えた。

「もしかして……ふたなりなのかい?」

「……っ」

 震える吐息を吸い込んだ穂摘の肩を、不意に大きな手が掴んだ。

「穂摘」

「しろさん」

「怪我か?」

「……」

 無言で首を振ると、困惑を滲ませたお梅の声がせせらぎの音に混じった。

「穂摘ちゃん、どうなんだい」

「――それは……」

 もし男だったら、もし女だったら。

 男でもあるが、女でもある。男でもないが、女でもない。

 それならばどちらに属すればいいのか。それはずっと胸の奥で燻りつづける戸惑いだった。

 中途半端ならばどちらにもなれずにいた方がいいと思ったこともある。けれども、どちらかになりたいと願ってもいた。

 それがいま揺らぎに揺らいで、戸惑いと怖れを撒き散らす。

 ぎゅっと身を縮めた穂摘を志郎の腕が支える。耳に、小さな声が吹き込まれた。

「穂摘、家に入ろう」

「はい……」

 声にするのも精一杯に頷くと、ほぼ同時に志郎が穂摘を抱えたまま立ち上がる。足の先からぱたぱたと水滴が落ちていき、あれ、とお梅の驚きを含んだ声が水音に混じった。

「ちょいと、穂摘ちゃん。ねえ、どうなんだい」

「ごめんなさい」

 問いかけてはいるものの、お梅はきっと、確信している。

 出来るならば隠し通したかった。知らないでいて欲しかった。お梅は、涙が出るくらい優しく接していてくれたから。

(ごめんなさい、お梅さん)

 もう彼女の優しい匂いが近くで香ることはないのだろう。

 そう思うと知らず雫が頬を滑って、志郎の着物のあわせに顔を擦りつける。

 お梅は、追ってはこなかった。




 じんわりとした痛みが下腹を襲う。

 穂摘は重石を腹に巻きつけられたような重圧を感じながら座布団の上に座り込んでいた。前に置いたざるの中に手を突っ込み、幾度目かになる溜息を吐いた。

 川での一件があってから三日目。結局着物についた鮮血は、今まで未熟なばかりで存在すらほとんど主張することもなかった少女の部分からだった。さすがに志郎の手を借りるのは憚られて手探りでどうにか布を当てているが、初めてのことで穂摘にも知識がなく、何をすることも出来ずに床に座り込んでばかりいる。

 ざるに入ったよもぎをひたすら指先でちぎりながら考えるのは、お梅のことばかりだ。

 もうきっと来てはくれないだろう、話かけてもくれないのだろうと思うと、目元を覆う包帯にじんわりと雫が染みていく。それが零れてしまう前に先に袖で拭うと、今度は布がよれてしまった。

(包帯が……)

 巻き直したいが、志郎は外出中だ。かといってまだこわばりが残る自分の手では、直すどころか余計にひどくなってしまいかねない。ままならないもどかしさをぶつけるようにぶちぶちと草を細切れにしていると、不意にがらりと戸が引かれる音がした。

「いま帰った」

「お帰りなさい、志郎さん」

 寝たきりの頃から世話をしてくれている志郎は、穂摘がふたなりだとお梅に知られたことについて、特になにも言わなかった。ただ穂摘が涙を零せば濡れそぼった包帯を換えてくれ、なにも言わずに傍にいてくれる。そうして今までと変わりのない日々を過ごしていた。

 声と音に反応して顔を上げると、よれて重ねの薄くなった布越しに、うっすらと光が見えた。

(目、大分良くなってる……)

 もうそろそろ布を取ってもらえるだろうかと考えながら穂摘が顔を上げたままでいると畳を蹴る音が近付き、膝の上になにかがぽすりと置かれた。

「なんですか?」

 触ってみると布のようだが、着物のようではない。褌よりもやわらかく、なんだろうと感触を頼りに穂摘が触れていると、その、と珍しく志郎が口ごもった。

「……当て布だ」

「当て布? なにに使う――あ、…あ、は……はい……」

 なんのことだと首を傾げかけた穂摘は、すぐにこの布が何のために用意されたかに思い至り、声をくぐもらせた。

 お梅が初花やお馬と言っていた、この出血のためのものだ。

「腰に紐を回せるようになっているらしいから、褌とあまり変わらない。間に布でもかませたら、少しは動いても大丈夫だろう」

「ありがとうございます」

「いや……」

 朝から出かけていた志郎だが、ほかの村にでも足を向けて、これを買ってきたのだろうか。それならば、とてもありがたい。

 世話になってばかりだと思いながら布に触れ、紐はこっち、股間に回す布はこれ、と手で確認していると、不意に香の匂いが漂った。

(ん……?)

 すっきりとした優しい匂い。思わず布を掴む手が強くなった。

 これはお梅の香の匂いだ。

 そう思った途端、思わず布を持ち上げ、思い切り顔に押し付けた。布にしっとりと染みこんでいるのは、間違いようもなくお梅が好んでつけていた香の匂いだ。

(でも、お梅さんとはもう……)

 穂摘がふたなりと知れたことで、彼女との縁は途切れたはずだ。

(でも、なんで? それとも偶然?)

 お梅がわざわざ当て布をくれる理由がわからない。それとも、これを売った人間が、偶然にも彼女の香と同じものを使っていたのだろうか。

 真偽のほどを確かめるすべは持たないが、その答えはあっさりと志郎が教えてくれた。

「あの、これ…」

 戸惑いながら穂摘が声をあげると、志郎はどこかわざとらしく、ごほんと咳をした。

「当て布が欲しいと言ったら、通りすがりの親切な人がくれた」

「親切な人?」

 普段は真面目で冗談も言わない志郎の声が、珍しく笑いを含んでいる。思わず聞き返すと、かた、と玄関の引き戸が音を立てた。

 目を使わせてもらえない分、穂摘は音に敏感になった。かすかなその音にもすぐに気付き、そちらに顔を向けた。しかし目の前はやはり包帯で覆われているだけなので、やわらかな光が布越しに確認できるだけだ。

 もっと耳を澄まそうと頭を軽く振っていると、さらに志郎が教えてくれる。

「あげたい人がいるらしいが、会いにいけないからとくれたんだ」

「そう……ですか」

 ほんの少しでも、お梅がくれたものなのだろうかと期待してしまった。

 しかし思わず声を落とした穂摘の耳に、聞き覚えのある声が響いた。

「あいたっ」

「お梅さんっ? お梅さん、いるん…わあっ」

 慌てて問いかけるも、返事はない。それでも声は近くでした。どこにいるのだろうと腰をあげて框ににじり寄った穂摘だったが、膝に乗せていた当て布が落ちたことに気付かず、それを膝で踏んで、そのまま土間に転がり落ちてしまった。

「穂摘!」

「穂摘ちゃんっ」

 受身も取れずに土間に落ちて土煙を上げた穂摘は、ぶつけた肩と腰をかばいながら起き上がった。

 打撲した箇所は痛いが、幸いそれほど高い場所から落ちたわけでもない。ほっとしながら顔をあげた穂摘は、落下した衝撃でほどけた布の大きな狭間から、一ヶ月ぶりに外の世界を見た。

 そこにいたのは、うら若い女性だった。

「――お梅さん?」

「ほ……穂摘ちゃん……」

 ちゃきちゃきとした物言いでからからとよく笑う彼女は、少し口の大きなさっぱりとした美人だった。年のころは穂摘より七つ八つほどは上に見える。しかし、問題はそんなところではなかった。

「あ、……あ、おう、お、うめ、さん……」

「大丈夫かい、穂摘ちゃん。ああ、土がついてる。怪我なんかしてないだろうね? せっかく火傷も治ったっていうのに……って、あいたっ、ちょ、ちょいと待っておくれよ」

 せわしなく言うなり、彼女の顔は開いた玄関の引き戸からするりと消えた。そして、またすぐに姿を現した。

「すまないねえ、角のあたりから伸ばしてたもんだから、猫に引っかかれちまったよ。――ああ、そんなことはどうでもいい。大丈夫かい、体、痛んだりしないかい」

 おろおろとうろたえながらしゃがみ込み、穂摘を覗き込んできたお梅の首が伸びた。にょろりと、まるで蛇のように首が伸びたのだ。

「わ、わあああっ」

「穂摘ちゃん?」

「くび、首、がっ」

 とっさに穂摘が叫んだ瞬間だった。

「目を閉じろっ!」

 咆哮のような声が背後からあがり、反射的に穂摘が目を閉じる。その上を大きな掌が覆った。ひんやりとした、触れなれた志郎の手のひらだ。

「閉じたか」

「は、い」

 あまりの剣幕にお梅の首が伸びた衝撃も吹き飛んでしまい、呆然と穂摘が頷くと、しゅるしゅると包帯が目元に巻きなおされた。毛も生え揃った後頭部辺りできゅっと結ばれ、志郎の気配が背後から離れる。

「布を、外すんじゃないぞ」

 今までに聞いたこともないような、威圧的な声だった。

 なにが彼を怒らせたのかわからないまま穂摘が顎を引くとたすたすと足音が響いて、やがて薬を保管している部屋に入る音がした。

 ふすまの閉められる音が静寂を震わせ、穂摘は再度戻った瞼の裏の闇を確かめるように、目元に巻かれた布にそっと触れた。

 強めに巻かれた包帯は、今度は擦った程度では外れそうもなかった。



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