第3話

「っう、ああ…」

 ゆっくりと横に転がされた穂摘は、脱がされた着物の上で呻き声をあげる。包帯を取り除かれるたびに、薄皮を剥がされるような痛みが肌を舐めた。

 一日ぶりの外気さえ、まだ治りかけの肌にはひりついて仕方ない。しかしこの治療が必要なことはわかっている。体をこわばらせながら、穂摘は必死に耐えた。

 その背後で、志郎はひたすらに丁寧なしぐさで布を取っていく。そしてその下から現れた体を見ながら、そっと囁いた。

「ああ、良くなってきた」

 穏やかな声は、今にも気を失いそうな穂摘の意識にもゆったりとしみ込む。痛みにこわばりそうになる体から、次第に力が抜けた。

(本当に、治ってるんだ……)

 一生このままだったらと考えなかった日はない。けれど志郎の献身のおかげで、傷は癒え始めている。

 自分では見えないが、それを言葉で伝えられると、不安と苦痛に曇りそうになる心が幾分か軽くなった。

 ほうと息をついた穂摘がすっかり体の力を抜いていると、背中にひんやりとしたものが触れた。

「っ、……んん」

 冷水のような温度のそれは、志郎の手だ。そっと背中に添った手が、痛みの落ち着いてきた穂摘の背を軽く撫でる。すると、ぱらぱらと皮膚が剥がれる感覚がした。

「んーっ……」

 穂摘には自分の肌がどうなっているかはわからないが、志郎いわく、落ちていくのは火傷でだめになってしまった皮膚で、その下に新しい皮膚ができているのだという。そのせいもあって、最近の穂摘は大人しく横になっている時は、痒みを感じることも多かった。

 いまも痛みは感じるものの、指先に撫でられると痒みが解消されて心地よい。もっと掻いてほしくて体を少し動かすと、ここかというように志郎の指が肩甲骨のあたりを撫でてくれた。

「痒いか。そろそろ肌が出来てきた証拠だ。もう一週間もすれば動けるだろう」

「あいあ、と」

 礼を言う穂摘の背や手足を少しの間撫でて古くなった皮膚を落としたら、今度は塗り薬の出番だ。

 穂摘の腕をひとつかみ出来るほどの大きな手が、体中を優しく這う。最初の頃はしみて泣き叫んだものだったが、今ではひんやりとする程度で痛みは感じなかった。

 冷感にうっとりしていた穂摘だが、首から下腹、足から腿の付け根と手が移動すると、まだ一人では動かすこともままならない脚を擦り合わせたくなった。

「……すまない、少し触れる」

「んん……」

 薬で冷えた体が、さっと熱を帯びるような羞恥がわきあがる。しかし伸びてきた手が膝を軽く持ち上げたので、細い脚は軽く開かれた。

「この辺りは火傷がひどくない。もう、大丈夫そうだ」

「ん……」

 他の箇所とは違い、そこに志郎はほとんど触れない。どうやら見ることで判断しているようだった。

(気持ち悪くないのかな…)

 羞恥も怖れもあるが、それよりも穂摘の心は、志郎の心持ちに不思議を抱いていた。

 穂摘は、いわゆるふたなりという性別だった。胸はないし、女性のようなくびれもないが、脚の間には男女の性がある。

 そのことを知っているのは、穂摘の両親と村長の重蔵だけだ。しかし穂摘の秘密に対する態度はそれぞれ違った。

 両親は幼い頃から、身体の秘密を誰にも漏らしてはいけないと穂摘に教えていた。

 重蔵は両性を持つ穂摘を村の宝であると同時に、繁栄をもたらす子になるだろうと信じ、息子の重吉の許婚に据えた。もっとも、口が軽いからと実の親である重蔵から穂摘の性を知らされていない重吉は、穂摘を男だと思い込んでいたが。

 そんなふうに対立した意見と思惑の間で、穂摘は揺れた。

 隠さなければいけない身体。

 一方で、吉兆と言われた秘密。

 どちらを重視していいかわからなかったが、大好きな両親が隠さなければいけないと言うなら、本当は悪いことなのだろうと思って育ってきた。きっと、とても珍しく、醜悪な性なのだろうと。

 けれど、志郎は穂摘の体については一言も言及しなかった。

(気付いてないわけないのに)

 すべては治療のためだが、志郎はその場所に触れている。火傷がひどくないと言いながら、他の箇所よりもはるかに優しい手付きで薬を塗りつけるのだ。それは、秘密にしなさいと諭してきた母の様子とも、お前は吉兆の子と喜んだ重蔵の笑みとも違う気がした。

(どうしてだろう……)

 志郎の表情が見えないせいもあって、穂摘にはなおさらわからない。ただ触れてくる手に嫌悪はなく、恥ずかしさと安心がないまぜになって、開かれた足を少し震わせた。

 ぼんやりと考えているうちに、包帯が巻かれ始める。決して急がず、丁寧なしぐさで首下から爪先がすっかり包帯に覆われて、穂摘はほうと息をついた。

「あいあと」

「……ああ」

 礼を言うと、少し間が空いて照れたような声が返る。

 低く優しい響きの声を聞きながら、ぼんやりと穂摘は思った。

(……すごく、優しい人だからかな)

 山道に転がっていた死に体の人間を拾い、治療を施しただけではなく、甲斐甲斐しく世話まで焼く。そんなふうに優しいのだから、見ないふりをしてくれているのかもしれないと考えていると、唇につんと何かが触れた。

「ほうい、薬だ」

「んん」

 うなずいて口を開いた穂摘の舌に、毎日志郎が煎じている薬の雫が触れる。ほんのりと甘いそれをゆっくりと味わう穂摘の頭を、ひいやりと温度の低い志郎の手が撫でた。

「髪も……まあ、生えてきたな」

「ほん、おう?」

「ああ」

 よかったな、と頭を撫でてくれる手が心地よい。けれど、治療はこれで終わりではない。

 首から上の包帯が替えられるのは、日が落ちて暗くなってからだ。

 慎重な手つきで頭のてっぺんから顎までを包んでいた包帯が取り払われ、体にしたように火傷で剥がれた肌が落とされる。その間も穂摘の目元には布が当てられたままだ。

「ひよあん」

「なんだ」

 温度の低い大きな手のひらが頭を軽く持ち上げ、薬を塗っていく。ぺたぺたとした感触をくすぐったく感じながら穂摘が志郎を呼ぶと、穏やかな声が応える。

 その優しげな響きに、今日こそはどうだろうと少し大きめに口を開いた。

「め」

 穂摘が目を開けないのは、瞼の辺りの火傷が酷いから、決して開けないようにと志郎に言われているからだ。だが痒みも治まってきているし、包帯と瞼越しでも光が多少わかるようになってきた。今も、志郎の手が顔の前を行き来するのがわかった。

 瞼を開くことができれば、志郎の顔や周囲を見ることができる。怖くはあるが、自分の現状も気になる。少しだけでも、と思ったが、返ってきたのはどこか歯切れの悪い声だった。

「……まだだめだ。瞼の火傷も酷かった。光は目に悪い」

「うう……」

(そんなに悪いのかな)

 体の皮膚は経過がいいと言ってくれるが、顔、特に目の周りに関してはあまりいい返事がもらえない。不安にはなったが、瀕死だった穂摘をここまで治してくれたのは志郎だ。彼がそういうなら、穂摘は従うしかない。

 早く良くなればいいのにと考えていると、目元の布がそろりと取り払われる感触がした。

 ひんやりと冷えた夜の空気が、治療中の肌にしんと沁みる。

(あ、手……?)

 布が取り払われても瞼を閉じたままの穂摘の目の上を、大きな何かが覆おうとしている気配がした。闇が濃くなる。

 夜なのだから、明かりなど障子越しにぼんやりと漂う月光か、もしくは行灯に燈る小さな火くらいのものだ。その程度のものからさえ守ろうとしてくれる志郎の細やかさは、今まで両親と重蔵親子くらいしか交流のなかった穂摘の胸に、小さな波紋を刻む。

 突然胸に広がってじわりと滲みこんでいくものがなにかわからないまま、瞼に薬を塗る指先に安堵して、穂摘は気付けば夜陰よりも更に暗い眠りの淵に落ちていた。





 ちちち、と鳴く小鳥たちが羽ばたく音にぴくりと反応した弾みに、穂摘は手にしていた小さなお手玉をぽとりと膝に落とした。

 志郎に拾われてから、早くも半月と十日が経っていた。

 相変わらず志郎の世話になっている穂摘は、この間にも快癒の一途をたどっていた。

 拾われたばかりのころは寝返りすら打てなかったが、今では布団の上に座ることもできる。さすがに動き回ることはまだ止められているので、最近ではお梅が作ってくれたお手玉で遊んで指の引き攣れを治すことが、穂摘の日課になっていた。

 膝の上に落ちたお手玉を持ち上げ、中に入っている小豆の粒をぎこちない動きでこりこりと押して感触を楽しんでいると、がらりと戸が引かれる音がした。

「志郎さん?」

「ああ。戻った」

 床をあげてからどうにか口の動きが戻った穂摘は、自分の名はほういではなくほづみが正しいのだと志郎に伝えた。そして、志郎のこともひよあんではなく、志郎さんと呼べるようになった。

 声に応えて、志郎が返事する。ずし、ずしと足音が近付いた。

 未だ包帯で顔中を覆われた穂摘は、志郎の顔はおろか、姿すらも見れていない。けれど足音はいつも重みがあり、ゆっくりとしていることから、大柄なひとなんだろうなとあたりをつけていた。

「手、昨日より動くようになったみたいです」

「どれ」

 穂摘の脇で足音が止まり、気配が近くなる。

 お手玉をのせた手のひらを上に向けて浮かせたままでいると、お手玉が取り上げられ、代わりに大きな手が穂摘の手をすくう。ひいやりとした、体温の低い大きな手だ。

「曲げるぞ」

「はい」

 一言おいて、大きいけれど繊細な動きをする志郎の手が、布に包まれた穂摘の指を一本一本をさする。低い体温がじんわりと布越しに滲みるようで、その感触にほっと安堵する自分を、穂摘は知っていた。

 志郎のことは、いまだわからないことが多い。わかっているのは薬師であり、一人で暮らしていることくらいだ。それ以外は年齢もわからず、親兄弟がいるかどうかも聞いたことがない。

 それほど素性が知れずとも、もう一ヶ月近くも甲斐甲斐しく世話をしてくれる志郎を穂摘は誰よりも頼っていた。

 両手とも丁寧にさすって指の動きを確認した志郎は、片手で穂摘の手を取ったまま、ごそりと動いた。

「あけびは好きか」

「好きです」

 家が貧しく、茶屋などで菓子など買えたこともない穂摘は、時折山に入って食用の野草などを採ることもあった。その際に野生に生っている果実を食べられるのが楽しみだった。

 甘い実の味を思い出しながら軽く顎を引いた穂摘の手に、手のひらよりも少し大きいくらいの果皮が触れた。同時に、触れていた志郎の手が離れる。

「蔓を取るついでに採ってきた」

 志郎は時折家を出る。外で何をしているのかと聞くと、山に登っていると教えてくれた。家の裏手にも薬草を植えた畑があるらしいが、山で自生するものも必要ということで、志郎は出かけるたびに果実や魚を手土産にしてくれていた。

「もう割れてる…」

 そっと指でなぞってみると、張りのある果皮は熟成に耐えきれず、ぱくりと口を開いていた。瑞々しい割れ口を指ですっとなぞると、布に果汁が少し滲みる。

 あ、と声をあげるより先にあけびは取り上げられた。

「皮は苦いから、夕餉にしよう。中身だけ食べるといい」

 あお向けた手のひらに、半分ほどになったあけびが戻ってくる。志郎が割いたのだ。

 今度は果汁に触れないよう果皮の部分だけを持って、果肉の部分をそっと食む。ほどよい甘みと過ぎない水気が口の中いっぱいに満ちた。

 四口ほどで食べ終え、ふうと息を吐くと手の上にのったままだった果皮だけのあけびが取り上げられる。甘い匂いだけがかすかに残った。

「美味かったか」

「はい。ありがとうございました」

 問いかけにうなずいて礼を述べると、そうか、とだけ応えて、志郎の気配が少し遠くなった。土間のあたりだろうか、ざかざかと乾いた音がする。聴覚だけを頼りに顔を向けた穂摘は、ふと思い出して目の辺りに触れた。

「志郎さん」

「ん」

「俺の目、良くなってますか?」

 もう二度と元には戻らないと思うほど全身におった火傷はひどいものだったが、どれほど上等な薬を使ってくれたのか、痛みもほとんどない。痒みはたまにあるが、もう数日もすれば包帯もいらないのではと思うほどだ。しかし、いまだに目元は布で覆われ、瞼を開けることは許されないままだった。

 志郎のことを信頼してはいるが、不安はぬぐえない。その揺らぎが声に滲んでしまったことを自覚しながら穂摘が問うと、がさ、とまた乾いた音がする。おそらく、背に負ぶったりする籠の音なのだろう。

「良くなっている」

「見えなくなったり、しないですか」

「……大丈夫だ」

 少し間を置いたあと、足音が近寄って、やがて目許が覆われる。大きなそれは、もう何度も触れている志郎の手のひらだ。

「大丈夫だ、俺の薬は、お前の目を治す。そうしたら、里に戻れる」

 元のように目が見えるようになると志郎の口から言われると、それだけで不安が消える。しかし続いた言葉がその安堵からそろりと熱を奪った。

 村に戻ったところで家はない。父母も親族もなく、頼れるものといえば、重蔵親子だけだ。しかし、それすらも今ではと思う。

(重吉さんは俺を嫌っている。死んだと、喜ぶほど)

 もともと重吉のことは好きでも嫌いでもない。そもそも穂摘に決定権はなかった。

 穂摘が重吉の許婚になったのは、母である浅乃の薬代を肩代わりしてもらうためだった。許婚になるなら薬代は負担するし、働き口が欲しいなら家で働かせてやると言われ、選択肢はなかった。しかし母は鬼籍の人となった。もう薬代に困ることもなく、重蔵に従う理由もない。

(戻りたくない……)

 体の秘密が露見することを恐れ、友人も作ってこなかった。帰ったところで、穂摘にはなにもない。

 ぼんやりと考えだした穂摘の背に、そっと志郎の腕がまわった。

「夕餉まで少しある。そろそろ休め」

「はい……」

 低い体温に包まれながら布団に寝転んだ穂摘は、薄く瞼を開けてみた。

 ごくわずかな隙間からうっすらと見える、やわい光。それを遮る大きな影。

(志郎さん)

 ここにいては駄目だろうか。

 問いかけるほどの勇気も決心も、穂摘にはない。

(戻りたくないよ)

 ぽつりと灯った願いは言葉になるでもなく、心の底に落ちていく。掻き消えてしまえばいいのに、それは穂摘の胸をいつまでも蝕んでいた。






「あらあ穂摘ちゃん、ずいぶん良くなったのねえ」

 家の中ならば好きなように動いていいと志郎からお墨付きをいただいたのは、拾われてからちょうど一ヶ月が経った日だった。

 すっかり萎えてしまった脚の筋肉は弱り、ふらふらと覚束ない。それを少しでも早く治そうと家の中をゆっくりと歩いていると、不意に声がかかった。すっかり聞きなれたそれは、お梅の声だ。

「お梅さん。おかげさまで、床上げ出来ました」

 声のするほうに壁伝いに歩くと、すいとお梅の声が寄る。どうやら近くにいるらしい。いつの間に上がってきたのかと思い、ゆっくりと腰を下ろすと、うふふと嬉しそうな笑い声が耳朶にやわらかく響いた。

「本当、良くなった。しろさんが穂摘ちゃんを拾ってきた時は、あたし、これはだめだわあって思ったんだよ。まるで布っきれみたいだったもの」

「はは、布っきれ……」

 確かに、記憶に残る自分の焼け爛れた腕は酷い有様だった。もう二度と自由には動かないだろうと思ったし、それどころか助からないだろうと諦めてもいた。それが今や自由に動くほどに回復した。志郎の薬師としての腕は、確かだったのだ。

 お梅の言葉に苦笑気味の声を漏らすと、陽気な彼女はまた楽しげに笑った。

「そうよ、布っきれもいいところ。でも今はもう綺麗なものよ。羨ましくなっちゃうわあ」

「羨ましいなんて……俺、昔やった疱瘡で、体中痘痕だらけなんですよ」

「おや、そうなのかい? でも痘痕なんて……ないねえ、腕には」

 がさがさたすたすと、土間から框を踏み、畳にあがってきた音がした。そして、すぐ横で畳を擦って座る音がする。

(あれ? お梅さん、隣にいると思ってたのに)

 すぐ近くにいるものと思っていたが、どうやら少し離れていたらしい。足音と共に、香のかおりも近寄った。

「ほうら、やっぱりない。綺麗なものだわあ」

 不意に左腕が取られ、そっと撫でられる。体の右側はもう少しかかるからと布をあてられたままだが、左側は腕と脚だけ布を取られている。それでもまだ顔は布に覆われているため、肌がどれほど前と同じかを知ることはできなかった。

 二度三度と穂摘の腕を撫でたお梅は、ええ、と続けた。

「痘痕なんてないねえ。傷ひとつないもの」

「でも俺、もともと顔まで痘痕だらけで……」

 体中はおろか、痘痕は顔にまで及んで肌を埋め尽くしていた。そんなはずはないと穂摘が言いかけた頃、ざりっと土間を踏む音がした。

「お梅さん。来てたのか」

 声は志郎のものだ。

 昼餉を食べてから山に登ってくると言って出て行ったが、もう帰ってきたらしい。がさり、ごと、と土間の辺りになにかを置いた音のあとに、畳みに上がったのか、い草を踏む音が聞こえた。

「お邪魔してるよ。穂摘ちゃん、よくなったねえ」

「うん。右側ももうやがてだ。今日は、膏薬かい?」

「そうなのよ。また首、ぶつけちゃってねえ」

「少し待っててくれ。今擂る。……穂摘、座るなら布団の上にしておけ」

「はい」

 大分良くなってきたとはいえ、まだ全快したわけではない。畳に座り続けていたせいか、軽く身じろぐと少しばかり尻の辺りが痛んだ。

「んっ」 

「無理するな、ほら、動かすぞ」

「お願いします」

 ぎっと音がして、すぐ隣に志郎の気配が来る。そのまま動かずにいると、慣れた男の体温が寄り添って穂摘を抱き上げた。そのまますいと移動させられ、布団の上に下ろされた。

「ありがとうございます」

「まだ良くないところもある。無理はするな」

「はい」

 素直に頷くと、腰まで布団が引き上げられ、志郎の気配が離れた。すぐに襖を引く音がして、ぱたんと閉まる音がした。

 普通の長屋は大体が一間だが、志郎の家はもう二間あった。ひとつは普段から開け放して続き間にしてあり、穂摘の移動範囲はこの中に限られていた。もうひとつは、志郎によると集めた薬草などを保管しているとのことだった。ひどく狭く、取っ手があちらこちらから飛び出しているので危険だからと、穂摘は一度も足を踏み入れたことがなかったが、よく志郎がそちらへ入っていく音を耳にしていた。

「しろさんたら」

 志郎が移動していった方向に耳を澄ませていると、お梅の笑いを含んだような声も入ってきた。

「ふふふ、穂摘ちゃん、いいひとに拾われたわねえ」

「あ、はい。すごく、すごくよくしてもらってます」

 実際、志郎はこまめに穂摘の世話を見ていた。火傷の治療から日々の雑事まで、赤の他人であるはずの人間の世話を事細かにこなし、それでいて見返りを要求する様子もない。これで穂摘が見目美しい少女だったり金を持て余した長者だったなら売り飛ばしたり金をせびったりも出来たろうに、穂摘はどちらでもない。むしろ死にかけでひどく手間がかかり、挙げ句生き延びても取り立てて見栄えのするものでもない。

 親切は損得でするものばかりではないだろうが、それにしても志郎に世話になったのは確かだ。勢い込んで顎を引くと、くすくすとお梅は笑った。

「これで穂摘ちゃんが女の子だったらねえ」

「女の子?」

「そうそう。しろさん、まだお内儀さん貰ってないからねえ」

「お内儀さん」

 つまりは、妻のことだ。

 ぽつりと呟いた穂摘の声は、志郎のかけてくれた布団の上に落ちた。

「そろそろどうかって、長も言うんだけどねえ。うんと言ってくれなくて」

 困ったものだよ、とお梅の声には溜息が混じる。そんな声を聞いてか知らずか、すうっと襖の引かれる音がして、たすんと畳を踏む音がした。志郎だ。

「困ってることがあるのか、お梅さん」

 自分のことを話題にされているとは思いもよらないのか、穂摘の横に座った志郎は、ゴリゴリと音を立てて薬を擂り出したようだった。

「なんでもないよ、ねえ穂摘ちゃん」

「う、あ、はい……」

 頷いたものの、穂摘の胸中ではお梅の言葉が渦を巻いている。

 ――女の子だったら。

 不意に、未熟ななりをしたまま機能もしていない器官がずくんと疼いたような気がした。

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