第10話 帰還

 メープルリーフはエリスの大気圏を離脱し、漆黒の宇宙空間へと滑り出した。RIF推進の青白い輝きが静かな尾を引き、機体の微振動がコクピットに安堵の空気を運ぶ。

「大気圏離脱完了。ミナコ、収容を頼む」ダン・ヴァンキッシュの落ち着いた声が通信で響いた。

『了解。カーディナル下部ドッキングベイへ収容を開始。100km圏内に接近後、データリンクを確立して。あとは自動収容システムに任せなさい』

 ミナコの的確な指示のもと、メープルリーフは母艦カーディナルの巨体へと静かに接近する。誘導ビーコンの緑色の点滅に導かれ、機体は艦の下部エリアへと滑り込んだ。

「データリンク、確立。自動収容システム、起動」

 ギムリーが操縦桿から手を離すと、メープルリーフは滑らかな動きで、ゲートの奥へと吸い込まれていった。ゴォッ、と鈍い音が響き、ゲートが完全に閉鎖される。  コクピットが安堵の空気に満たされる中、メープルリーフは格納ベイの所定の位置に静かに着床した。

 ハッチが開くと、整備クルーたちの喧騒が二人を迎えた。

「ギムリー、ダン、すげえ仕事だったな!」整備チーフが笑顔で親指を立てる。  ギムリーはヘルメットを脱ぎ、癖っ毛を掻きながら拳を突き上げた。

「ハハ!お嬢さんのショータイム、最高だっただろ?」

 ダンは高圧Gスーツのバックルを外し、疲れた笑みを浮かべた。「派手すぎたがな。整備を頼む。機体をかなり酷使した」

 その頃、カーディナルのCIC(戦闘情報センター)では、最後の緊張の糸が、静かにほどけようとしていた。

 メインスクリーンに「MAPLE LEAF: DOCKED」の緑色の文字が灯ると、ミナコは深く息を吐き、身体を固定していたシートベルトのバックルを弾いた。

「現時刻をもって、オペレーションは全て完了。CICは通常監視体制に移行します。皆さん、ご苦労様でした」

 カチャリ、という金属音が静寂に響くのを合図に、張り詰めていた空気が一気に弛緩する。

 レーダー担当のイチカ・ナイトウは、ヘッドセットを外すと同時に、自身の身体を縛り付けていたハーネスを解除した。

「はぁ〜……」

 重力のない空間で、彼女の小柄な身体がふわりとシートから浮き上がる。緊張で凝り固まっていた手足が、無重力特有の「中立姿勢(ニュートラル・ポスチャー)」――胎児のように膝を軽く抱え、腕を前に漂わせる自然な体勢へと戻っていく。重力の枷から解き放たれたショートボブの髪が、まるで水中の海藻のように柔らかく広がり、彼女の頭上に黒い光輪を描いた。

「生きた心地がしませんでしたよ……。ギムリーさんの無茶な操縦で、レーダーから機影が消えるたびに心臓が止まるかと……」

 彼女はそのまま空中で身体を丸め、まるで空気のベッドに身を預けるようにしてクルクルと緩やかに回転し始めた。それは、極限の集中から解放された脳と身体を癒やす、無重力空間ならではの休息の儀式だ。

 隣では、戦術分析官のアミラ・ノエルが、慣性を利用して優雅に身体を反転させていた。彼女は空中に固定解除したタブレットを滑らせ、指先で器用にキャッチすると、穏やかに微笑んだ。

「でも、彼の操縦だからこそ収集できた貴重なデータよ。敵の攻撃に対する回避パターン。素晴らしいわ」

「それはそうですけど……!」

 イチカが頬を膨らませて空を蹴ると、その反動でふわりとアミラの方へ流れていく。

 周囲のオペレーターたちも、それぞれが端末の前から離れ、天井や壁を軽く蹴って「泳ぐ」ように移動を始めていた。ある者は冷却ファンの風に身を任せて漂い、ある者は空中に残ったままのホログラム映像を指先で弾いて消していく。戦闘態勢を示す赤色の警戒灯が消え、室内に落ち着いた白色の照明が戻ると、そこは緊迫した作戦室から、人々が三次元的に浮遊する穏やかな休息の場へと変貌していた。

 カーディナルの食堂。薄暗い照明の下、合成コーヒーの香りが漂う。ここは艦中央の回転ブロック内に位置するため、心地よい0.8Gの重力が存在している。ギムリーとダンは簡素なテーブルで、チキンサンドを手にくつろいでいた。壁のホログラムモニターには、眼下に広がるエリスの夜景が映し出されている。

「いやあ、ダン。宇宙に帰ってくると、やっぱりホッとするな」

「ああ。自警隊を出し抜き、ワクチンを届けた。悪くない仕事だった」

 そこへ、ミナコがコーヒーを片手に合流した。彼女のクールな眼差しにも、任務を終えた安堵の色が微かに浮かんでいる。

「ご苦労様。上層部も高く評価していたわ。特に『不測の事態への的確な対応』が、ね」

 ギムリーがニヤリと笑う。

「ハハ!RXー12のハッキングが結果的に大金星だったな!自警隊の連中、まったくもってピエロだったぜ」

 ダンがカップを置き、静かに言った。

「確かにあの妨害行為が、皮肉にも俺たちの助けになった。だが、この騒動、やはりただのデマ屋の暴走とは思えない。……裏で糸を引いている組織がいるという噂、本当かもしれないな」

 彼の表情には、単純な勝利への喜びとは違う、深い思索の色が浮かんでいた。  ミナコはコーヒーを一口飲むと、小さく微笑んだ。

「仮にそうだとしても、今の私たちに出来ることはないわ。それより、あなたたち。ソルに戻ったら、本来の試験飛行プログラムを再開するそうよ。こんな派手な任務の後じゃ、単調なデータ収集フライトは退屈かもしれないけど、そっちが本業なんだから頑張りなさい」

 ギムリーがげんなりして眉をひそめる。

「はぁ?マジかよ!せっかく良い気分だったってのに!」

 ダンがそんなギムリーの肩を叩き、静かに笑った。「仕方ないさ。それが俺たちの仕事だ。また付き合ってやるよ、ミナコさん」

 その時だった。

「あ、やっぱりここにいたんですね!」

 食堂の入り口から、イチカとアミラがトレーを手にひょっこりと顔をのぞかせた。仕事が一段落し、無重力区画から重力区画へ戻り、遅い食事をとりに来たらしい。 「ギムリーさん!」イチカはテーブルに近づくなり、ぷくっと頬を膨らませてみせた。

「さっきも言いましたけど、本当に心臓に悪かったですからね! 次にあんな無茶したら、レーダー誘導、切っちゃいますから!」

 口では怒っているが、その声は明るく弾んでいる。

 ギムリーは口の端を上げて豪快に笑った。

「ハッ、悪かったなイチカ! おかげで最高のショーになっただろ?」

 アミラが穏やかに微笑みながら、イチカの隣に座った。

「でも、イチカの正確な索敵があったから、ギムリーもあれだけ自在に動けたのよ。二人とも最高のパフォーマンスだったわ」

 その言葉に、イチカは少し照れたように「えへへ…」と笑う。

 ダンは、集まった仲間たちの顔を見渡し、満足そうに頷いた。

「まあな。誰か一人でも欠けていたら、こうしてはいられなかっただろう。全員の仕事が完璧に噛み合った結果だ」

 ミナコもカップを置き、その光景に目を細める。

「そうね」と短く応える彼女の声には、確かな温かみが宿っていた。

 不穏な噂や退屈な日常への愚痴は、仲間たちの穏やかな笑い声に溶けていく。  ホログラムモニターに映るエリスの灯りは、彼らの未来を祝福するように、遠くで静かに揺らめいていた。

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