すれ違うだけ

北野美奈子

遡行を迫られる時


 美樹は夫の裕之の仕事の都合でコペンハーゲンに住んでもうすぐ3年になる。夫婦には子どもがなく、二人きりの生活を淡々と過ごして来た。


 今年の始めに母親が検査入院したので美樹だけ一時帰国した。3年ぶりの日本の春は思うより暑かったので少し辟易したが、季節の花々の美しさを満喫出来たし、家族と久しぶりにゆっくり過せた。


 五月の末、母も大分回復したこともあり、夫の元へ戻ることになった。老いた両親を妹に押し付けて行くのは少し不安だったけれど、これ以上家を留守にするのはどうかとも思われたので、フライトを予約した。


 真夜中のフライトでコペンハーゲンに戻る日の午後、美樹は空港に向かう電車の中にいた。夫の裕之からのLINEには、着いたら駅まで迎えに行くとあったので、とても助かる。母は退院してから大分元気になった。よろしく伝えてほしいと言われていると返信しておいた。


 車内アナウンスは、数分遅れて発車となると言っている。空港にはすでにスーツケースは送っておいたので、ボストンバッグ一つで東京行きの特急に乗り、出発を待っていた。


 携帯で天気予報を見たり、メールを確認したりしていたので、最初は何の音か気づかなかったが、誰かが思いっきり車窓を叩いている。驚いてプラットホームを見ると、スーツ姿の男性がこちらに向かって手を振っている。

 え、嘘。慎二?

 声は聞こえないが、電話をかざしている。LINEと言いたいらしい。


 美樹は訳が分からないまま携帯に目を移した。丁度LINEのアプリが開いている。

 慎二は大真面目な顔でQRコードを指差している。

 あ、連絡先?

 電車が発車するというアナウンスが聞こえて来た。

 考える間もなく美樹は慎二の連絡先を自分の携帯にダウンロードした。




 美樹は頭が混乱して、しばらく落ち着く事が出来なかった。長時間のフライトを前にして、気持ちが昂っていた上、慎二に偶然会ってしまった。とにかく気を沈めたくて、車内販売でコーヒーを買った。手が震えている。


 最後に慎二に会ったのは、美樹の友人の佳菜子の家だったと思う。美樹の事情など考えずに勝手に引き合わせようとしたらしい。あるいは慎二に頼み込まれてのことだったのかもしれない。今になっては過去のことだ。


 慎二とは大学時代にアルバイト先で知り合った。大学を出てからもしばらく続いていたが、美樹が仕事を辞めてイギリスに留学をした際に別れた。あれからもう17年も経つ。同じ気持ちでいる筈がないと思いつつ美樹は慎二の事を考えてしまう。


 どういうつもりなんだろう。単に懐かしいだけだとも思ったが、気持ちのどこかでそれ以上の事を期待してしまっている自分を、別な自分が見つめている。変わっていない、と思った。もちろんお互い40代の半ばなので、年相応の落ち着きはあった。でもその外見とは打って変わった慎二の行動が美樹の気持ちを今大きく動かしているのは確かだった。


 慎二とは決して憎み合って別れたわけではない。あの頃、美樹は思うような仕事に就けず、思い切って何か別な事をしたいと考えていた矢先、急に仕事を失った。勤めていた会社が不況のせいで倒産し、しばらくの間アルバイトで生計を立てるしかなかった。美樹は真剣に将来を見つめた。


 留学を決心したのだと慎二に告げた日、出発するまでの間慎二の部屋に住まわせてほしいと頼んでみた。留学費用を貯めたいし、無駄も省けるという理由だった。だからイギリスに発つまでの4ヶ月間慎二とは一緒に暮らしていた。


 慎二は大学を出てから小さなIT企業に勤めていた。残業は多いがそれでも一緒に遅い夕食を取ったりそれなりに楽しい同棲生活だった。美樹は掛け持ちでアルバイトをしていて疲れ切ってはいたが、居候しているという遠慮もあり主に家事を担った。


 痩せた美樹の体に触れるたびに、痩せたなと慎二はつぶやいた。ある晩、いつものように美樹を抱き寄せながら、俺はもっとふっくらしているほうが好みだと冗談混じりに言った。彼なりに無理をするな、と言いたかったのだと知っていたけれど、悪かったわね、とふざけ半分に肩に噛みついておどけてみせた。限界まで頑張れるのは今しかないような気がしたからだ。


 それなりに幸せだったのは確かだ。でも、将来が全く見えなかった。


 あの時間違った選択はしなかった。


 美樹はそう思う。



 なんて挨拶をしたらいいのだろう、と考えがら携帯を見つめた。LINEに元気だった?と切り出せば話は続くに違いないと決意して、メッセージを送った。


 待っていたかのように、既読がついてすぐに返事が来た。一旦オフィスに戻ってから帰宅するのだと言う。どこへ行くのか聞かれたので、コペンハーゲン、と短く答えた。慎二は恐らくそれを既に知っていて、確認のために訊いて来たのだと思った。友人たちは皆私が夫の仕事の都合でコペンハーゲンに住んでいることを知っている。


 夫の話をするのを避けようとするのは馬鹿げている、けれど慎二には触れられたくないと思った。急に時間が慎二と空港で別れた、あの日に戻るような感覚に襲われながら、それを打ち消すように慎重に返事をした。


 あと何年あっちなのかという質問に、あと一年の予定だけれどあるいはもっと早まるかもしれないと返事をした。母の具合があまりよくないので、美樹だけ帰国が早まる可能性があるのだ。


 話、出来るかな?電車の中では無理かもしれないけど、空港着いたら連絡してほしいと言われて、OKと書いてすぐに後悔した。今更何の話があるというのか。


 私は既婚者なのに。向こうだってそうだ。慎二が去年遅い結婚をしたと友人に聞いたのは去年だったと思う。五つ位年下の奥さんがいるらしい。


 上手く行ってないとか?


 そういう余計な期待めいたことを考えては否定した。美樹は自分と夫との仲が冷めてしまっていることに不安を感じている。これからずっとこんな風に暮らしていくのかと思うと気持ちが沈んだ。


 ときめかないって事がこれ程辛い事だとは思わなかった。空気があっても実は酸素など残っていない密室のようで窒息しそうだと感じた。


 離婚が頭にチラつくのは恐らく美樹の方だけで、裕之はいつものように穏やかで優しい。何不自由ない暮らしをしているのは、彼のおかげではある。日本に帰国したらまた仕事を探したいと伝えると、すぐに賛成してくれた。無理をする必要はないけれど、外に出るのはいいことだ。そう言ってくれた。そのように理解も示してくれる夫にこれといって不満などない。だから余計辛い。


 そんな幸せな暮らしに何の不満があるというのかと言われそうだが、家族としては円満でも、夫とは気持ちが離れてしまっている気がしてならない。それが時々美樹を深い不安に陥れる。話し合いを持つべきなのかもしれないとも思う。ただ形のない不安や不満をどう言葉にすればいいのか分からなかった。


 慎二と暮らしていた短い期間、私は一体何を考えていたのだろう。終わりが見えていたから?そう思わなくもない。


 私はどうしたいのだろう。美樹はため息をつきながら慎二からのメッセージを見つめた。


 結婚してから慎二のことを考えたことがなかったといえば嘘になる。初めて真剣に将来のことまで考えた人だ。この人と結婚したら、とか、もし慎二と結婚していたらと何度となく頭の中で反芻した。結論はいつも同じで、きっと上手くいかなかった、きっと縁がなかったのだ、私は今とても幸せなのだと自分に言い聞かせて来た。


 もう一度だけ別れた日に戻ってやり直せたらと、ありえない事を思うことだってあった。それは過去が美化されているだけなので、あの時別れてよかったのだと割り切った。

 これでよかったのだ。そう思いたかったけれど、美樹はまだ慎二に会いたいという気持ちが胸の中で蠢くのを感じた。


 一緒に過ごした夜を思うと、胸が痛んだ。結婚したと聞いた時も。その痛みに自分で自分に驚いたくらいだ。今すぐ声を聞きたいという衝動に駆られて、両腕を胸のところでクロスしながら堪えた。



 その時夫の裕之から、おやすみ。また明日とLINEにメッセージが来た。

 急に美樹の中で何かが弾けた。


 あのね、ずっと考えてたんだけど。しばらく離れて暮らしたい。今すぐじゃなくていい。私がそちらに着くまで少し考えてみて。


 送信した指先が震えるのを感じた。もう後戻りは出来ない。


 空港についてチェックインを済ませ、どこか落ち着ける所はないかとロビーを見渡した。出発ロビーは人でごった返していて、かなり離れた場所まで歩かなければならなかった。


 美樹は慎二に今なら少し話せるとLINEに入れると、すぐに返事が来た。5分待っててくれたらこちらからかける。


 オフィスなら、デスクを離れる必要があるだろうし、自宅なら言い訳をして外に出るつもりなのだろうか。そんなことをぼんやり考えながら、慎二にもしやり直したいと言われた時の返事を頭の中で反芻していた。



 慎二に元気だった?と訊かれて、美樹は元気だと返事をした。

 さっきは焦ったよ、美樹が俺が下りたばかりの電車に乗ってるんだから。どうしたらいいか、必死で考えたらLINEのQRコードのことを思い出したんだ。遅延してなかったらアウトだった。


 そうなんだ、と美樹は思った。偶然が重なって、人と人は出会ったり別れたりする。運命とかってあるのかもしれない。


 美樹が何かを言いかけた時、慎二が言った。もう一度会いたいと思ってた。私もそう思ってた。元気そうね。間髪入れずにそう答えた。それからしばらく思い出話をした後、慎二が言った。今度ゆっくり会ってくれないか、と。美樹はそれがどういう意味かよく分かっていたし、言われて嬉しかったのは確かだ。


 また胸が痛むのを感じた。けれど、最初から決めていた言葉を言った。

 私ね、慎二には会えない。色々考えなくちゃならないことがあるし、会う自信がないから。とにかく今は無理なの。分かって。


 分かった、と短く答えた後、慎二は気を付けて帰れと言ってくれた。悪かったとも。



 私何してるのかしら、と自嘲気味に笑いながら、ワインでも飲んで気を沈めようと、バーのある方へと向かった。美樹はまず一人になってこれからの事を考えたいと思った。


 裕之の妻として一生を終えるのかどうか、あるいは別な人生が待っているのか、まだ何もはっきりしてはいない。もう一度一つ一つ答え合わせをしなければならないようだと苦笑いしながら辛いワインを飲み干した。


 この慎二との再会が不思議と美樹に力をくれるようだった。まだ何も終わってはいない。これからだと。時間を遡行するのは楽ではないに違いない。でもこのままでは生きている気がしないのも確かだった。


 携帯に目を遣るとLINEにメッセージが入るのが見える。夫からだった。


 私は自分を取り戻すのだと美樹は何度も自分に言い聞かせた。

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すれ違うだけ 北野美奈子 @MinakoK

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