エピローグーー印をつけておく

 ある夏の昼のこと、昼飯を終えて立ち上がろうとしたらお袋に呼び止められた。


「瑞希、午後空いてる? 澪ちゃんの運転手と荷物持ちをしてほしいの」


「いいけど」


「助かるわ。私、税理士さんのところに行かないといけないのよね。澪ちゃんを農協に連れて行って、そのあと買い出ししてきて」


「よろしくお願いします」


「へいへい。行くときに声かけて」


 澪の頭をぐしゃぐしゃ撫でて立ち上がる。




 しばらくして、澪に呼ばれたから車を出す。

 澪は助手席で書類の確認をしている。


「そういえばお前、免許持ってないんだ?」


「ないんです。欲しいんですけど」


「お袋に言えよ。たぶん金出してくれるから。必要だろ」


「……はいっ」


 やたら嬉しそうに澪は頷いた。……きっと、あの母親に止められてたんだろう。




 農協に着いたら、俺はやることがないから待合室のベンチへ。澪はカウンターのところで書類を出して職員とあれこれ話している。


 ……なんつーか、しっかりしたな。


 前はおどおどしてたのに、今は穏やかに笑って人とやり取りしてる。

 夜も積極的、というか甘えたがりだ。年上のお姉さんって感じは、ない。たまに年上ぶりたがるけど、すぐ腰が砕けちまって、まあそれがかわいいんだけど。


 そんなこと考えてたら、澪がパタパタこっちに来た。


「お待たせしました。今確認をしてもらってるので、もう少しお待ちください」


「わかった。買い出しってどこ行くんだ?」


「近くのスーパーです。来週分の食材をまとめて買いたくて。あと米とか油とか、重たいのが一気になくなってしまったので、買いたいです」


「了解」


「あと、お義母さんがアイス買ってきてってお小遣いくれました」


「マジか、やった」


「これ、やりたいんです」


 澪がスマホを取り出して、ドヤ顔で画面を見せてきた。

 そこにはコーヒーゼリーにバニラアイスを混ぜたものが映っている。


「コーヒーゼリーはさっき作って冷蔵庫で冷やしてます。あと、バニラアイスにコーヒーをかけて、なんちゃってアッフォガードもしたくてですね……」


「全部やろう」


 アイスのデザートの話で盛り上がってたら、カウンターから呼ばれた。


「書類を受け取るだけなので、すぐ終わると思います。行ってきますね!」


 またパタパタとカウンターに行く澪の背中を見送った。


「……これもうまそうだな」


 スマホであれこれ調べる。メロンに生クリームとアイスを乗せるやつやりてえな。

 しかし、すぐ終わると言った澪はなかなか戻らない。


 カウンターの方を見に行くと、職員と何か話している。……なんか、近くねえか? 職員の男が、やけに体を乗り出していた。澪は少しずつ後ずさっている。

 立ち上がって近づくと、澪の困った声と職員の声が聞こえた。


「じゃあ、次の休みっていつ?」


「いえ、あの、そういうのはちょっと」


「由紀さんはちゃんと休みもないんだ?」


「そ、そうではなく……」


「いいじゃん、ちょっとお茶だけ、ね」


 ……今どきこんなわかりやすいナンパするやついるかよ。しかも由紀の女だってわかってて。


 澪とカウンターの間に体をねじ込む。


「妻に何か?」


「えっ、あ……っ?」


「わ、瑞希さん、すみません、お待たせしてしまって」


「こういうときは俺を呼べよ、お前は」


 小言のつもりで言ったのに、澪はなんか嬉しそうだ。まあそれは後回し。

 目の前で慌てている男の向こうに目をやる。


「おたくの職員、仕事中にナンパしてんだけど」


「も、申し訳ありませんっ!」


 声を張ると、奥からおっさんが出てきて、そいつを引っ張って前に出た。


「こいつ、仕事に来てるんであって、ナンパされに来たんじゃないんだわ。手続きどうなってんの?」


「ただいま確認いたします!」


 奥からもう一人おばさんが出てきて、三人であれこれ確認している。すぐに澪が出した書類の控えが寄越された。


「こちら、リースの申請書の控えです」


 言われても、俺にはわからんから澪に回す。


「これで問題ない?」


「大丈夫です」


 澪が控えをファイルケースに入れるのを見てから、カウンターの方に向き直った。


「こいつ、美園の娘で由紀の嫁だから、次こんなことあったら、両家で申し立てさせてもらう」


「は、はいっ」


「つーか、そうじゃなくても仕事中にそういうことするの、どうなんだ? 誰も止めに入らねえし」


 おっさん、おばさん、男は気まずそうに俯いている。


 つーか、これ、よくあったんだろうな。だからお袋は俺をつけたんだろう。

 だんまり決め込んでるおっさん見てても仕方ねえから、踵を返す。


「帰るぞ」


 澪を連れて、農協を出る。

 助手席でシートベルトをつける澪は、まだ機嫌がよさそうだ。


「なんでそんな嬉しそうなんだよ」


「瑞希さんが『妻』って呼んでくれたので……えへへ」


「そんなに嬉しいか……?」


「はい! とても、嬉しいです!」


 こいつ、こんな声出せんだな……ってくらいでかい声で言われた。


「あー……、あれ、用意するか、指輪……」


「いいんですか!?」


「いいもなにも、必要だろ。着けといたら、あの手の声掛けも減るだろうし」


「嬉しいです。でも、そんなにないですよ。最近たまに、くらいです」


「たまにでもあるんなら、何とかしねえといけねえだろ。とりあえず、今は買い出し行くぞ」


「はい!」


 ……澪を見ると、やっぱりニコニコしている。なんかムカつくから、腕を引っ張って耳元に顔を寄せた。


「今夜、寝られると思うなよ」


「え、な、なんでですか……? えっと、はい……楽しみ……間違えました、早めに瑞希さんの部屋に行きます」


「何も変わってねえだろ……」


 アホか。何でそんなに嬉しそうなんだよ。

 つまんない嫉妬も、笑って受け入れられちまうと、なんかイラついてた自分が馬鹿みたいだ。

 どうにもこの苛立ちは伝わんねえし、澪が嬉しそうだから、もう諦めてエンジンをかける。





 帰宅してからお袋を呼び止める。農協での話をすると、やっぱり知っていた。


「最近、澪ちゃんきれいになったから」


「……そうか?」


「あんたは……」


「いや、毎日見てたらわかんねえだろ」


 前より笑うようになったし、自分の意見も言うようになった。俺の顔見て怯えなくなったしな。きれいかどうかは知らねえ。


「まあ、きれいにしたのはあんただしね……。それに釘刺してきたんでしょう? ならいいわ。あの手の男って、同じ男の意見しか聞かないから」


「ふうん」


 適当に相づちを打って畑に戻る。

 歩きながらスマホを取り出して、藤乃に結婚指輪をどこで買ったかも聞いておく。




 藤乃から返事が来たのは晩飯のあとで、


『いろいろあるから、二人で調べな』


 ということだった。


『俺は牽制で大きい婚約指輪を買ったけどね。結婚指輪は普段つけっぱなしにできるシンプルなやつにしたよ。花音ちゃん水仕事多いから余計に飾りの少ないやつにした。美園さんの意見も聞きな』


 なるほど……。

 スマホでデザインや値段を調べていたら澪が風呂から出てきた。


「澪ー、今いい?」


「は、はい! あ、デザート出しますね」


 澪は冷蔵庫からグラスに入ったコーヒーゼリーと、昼間買ったファミリーサイズのバニラアイスを出してきた。


「コーヒーゼリーを混ぜて細かくして、そこにアイスを入れていきます」


「おお……うまそう……」


 二人でコーヒーゼリーにアイスを混ぜる。甘さと苦さでめちゃくちゃ美味え。

 アイスは半分残しておいて、明日アッフォガートにする予定だ。


「あ、そうだ。あのさ、結婚指輪なんだけど」


「……はい」


 神妙な顔で澪が頷いた。


「こういうのがいい、っていうのはある?」


「えっと……あんまり考えたことがなくて……。でも、瑞希さんとお揃いで、いつもつけていられるものがいいです」


「ふうん。じゃあこのあたりか? 婚約指輪いる?」


「それはどっちでも……。あまり使う状況がピンと来ないです」


「そりゃそうだ。藤乃は花音が叔母にいびられてたから、それを牽制するためにってやたらデカいダイヤがついたやつ買ってたけど……これ」


 スマホの写真を見せると澪は「なるほど?」と頷く。


「これ、おいくらくらいするのでしょうか?」


「たしか……これくらい。藤乃が全額出してる」


 藤乃に聞いた値段分だけ指を立てて見せたら、澪の口から小さな悲鳴が漏れた。

 わからんではないけど、出せない額でもない。


「ちなみに藤乃と花音の結婚指輪はこれくらい。こっちは割り勘つってたな」


「なるほど……。えっと……考えさせてください」


「おう。あ、俺はつけるのはいいけど、細めで丈夫なやつがいい。デザインもシンプルで。泥とかが取れないと困るし。それと結婚指輪も婚約指輪も藤乃と花音が選んだやつくらいの値段なら出せるから、それも気にしなくていい」


「はわ……わ、わかりました。ちゃんと考えます」


 澪は空になったグラスを持って台所に去っていった。

 俺も立ち上がって風呂に向かう。途中で思い出して、台所に顔を出した。


「片付け終わったら、俺の部屋に先に行ってろ」


「……わかりました」


 顔を赤くして頷く澪に満足して、今度こそ風呂に向かう。




 翌週、昼飯の後で澪に呼び止められた。


「瑞希さん、今日の午後ってお時間ありますか?」


「あるよ、今日は午後休みだから」


「あの、指輪のお話してもいいですか?」


「わかった、お前の部屋行くわ」


 澪と一緒に部屋の座布団に並んで座る。

 見せられたタブレットには結婚指輪が並んでいた。


「このあたり、どうでしょうか。あまり派手ではなくて、いいかなって」


「いいけど、こういう石がいっぱいついたやつじゃなくていいんだ?」


「そういうのだと水仕事のときは外さないと石が取れちゃうことがあるみたいで」


「あー、そりゃ面倒くせえな。……じゃあ、石がいっぱいついた婚約指輪買うか。出かけるときとかに着ければいい」


 タブレットをスクロールしながら、結婚指輪と重ねづけできるものを探す。


 俺としてはどっちでもいい。でもたぶん、こいつは自分から欲しいとは言わないし、どこかに『婚約指輪は男性からの誠意』と書いてあったし。

 ……前に藤乃に「そんなに好かれてるって思えるほど、お前は美園さんのこと大事にしてた?」と聞かれたのを、俺はまだ気にしている。


「あ、これ、どうだ?」


 派手すぎず、重ねづけしてもごちゃごちゃせず、でもちゃんと「俺のものだ」とわかるやつ。ついでに澪の気が引けないように、そんなに高くないもの。


「……素敵だと思います。あの、これを私がつけて、似合うと思いますか?」


「思う」


 澪は「……そうですか……」とやけに嬉しそうに頷いた。

 時計を見ると、まだ昼過ぎだ。


「指輪、今から見に行くか。近いし」


「今からですか?」


「電話して、空いてたらな。お前、午後用事ある?」


「いえ、大丈夫です」


 電話をすると、平日の昼過ぎだから、店も空いていた。リビングで仕事をしていたお袋に声をかけて、家を出る。


 そういえば、澪と電車で出かけるのは初めてだ。


「……あのさ、うちに来てもうちょいで一年くらいなんだけど、なんか困ったこととかねえの?」


「困ったことですか?」


 前から気になってたことを聞いてみた。でも澪はきょとんとしてから首をひねる。


「とくには、ないです」


「前に、『なんかあったら俺の部屋に来て』って言ったの、覚えてる?」


「はい。引っ越したときですよね」


「……一度も、来なかったからさ」


 かっこ悪いことを言ってる自覚はあるけど、でも聞かずにはいられなかった。

 俺はちっともこいつを大事にできてない。

 たぶん俺はめちゃくちゃ情けない顔をしてるけど、澪は不思議そうな顔のままだ。


「困ったことがなかったので……」


「んなことねえだろ、いきなり他人の家に来てさ」


「でも、なかったんです。由紀さんたちはよくしてくれましたし、理不尽なことも言われませんし、叱られることはあっても怒られることはありませんし」


 ……元の環境が悪すぎたから、か。


「それに、私今は夜に瑞希さんの部屋に行ってるじゃないですか。……ちょっと回数が多くて、申し訳なくはあるのですが」


「それはいいけどさ。いや、多いってわかってたのかよ」


 最近、澪は週の半分以上は俺の部屋で寝ている。つまり、それだけヤってるわけで。別にいいけどさ……かわいいし……。


「へ、減らしたほうがいいですか……?」


「あー、いや……寝室、一緒にするか……」


「えっ、いいんですか!?」


 澪がパッと笑顔になった。そんなに嬉しいか……?


「お前の部屋の隣、今は物置だけど、昔はじいさんばあさんの部屋だったんだよ。たしか八畳くらいあるし、大したもん置いてないから、言えば使わせてくれると思うけど」


「帰ったら、すぐお願いします! ……こうやって、困ったなって思う前に、瑞希さんが欲しいものをくれるから、私は由紀さんのお家で困ったことがないんですよ」


 ニコニコしながら言われて、俺は何て言えばいいのかちっともわからない。

 まあ、いいか。

 きれいになったかどうかはさておき、前よりずっと、かわいいとは思う。




 指輪はすんなり決まった。

 俺と澪の希望が一致してたし、澪から「これがいい」ってのを聞いてたし。

 できるまで数カ月ということなので、注文だけして店を出る。


 近くのカフェに寄ったら、澪はメニューを真剣な顔でめくっていた。


「何悩んでんの」


「このパフェが美味しそうですが、食べきれる気がしなくて」


「残ったら俺が食うから、好きなの食えよ」


「ありがとうございます! 飲み物のセットにしてもいいですか?」


「好きにしろよ。お前のほうが給料いいだろ」


「ちょっっとです。……あ、ここは、お姉さんである私が出します」


 澪がなぜか年上ぶっている。別にそういうつもりで言ったわけじゃないんだけど。


「いや、割り勘でいいけどさ」


「さっき、婚約指輪を選んでくれたのが嬉しかったのです」


「……そっか。じゃあ任せるわ。俺、このカツサンドとパンケーキのセットで」


「わ、私にもカツサンドを一口ください」


「はいはい。パンケーキもやるよ」


 注文を済ませたあとも澪はメニューを見ながら、「瑞希さん、これも美味しそうです」とか、「このクレープ、家で作れると思うんです」なんて楽しそうに言っている。


「……澪」


「なんでしょう?」


「……俺、お前に優しくできてる?」


 お前が、ずっとうちの子でいたいと思えるくらい、俺の妻でいたいと思えるくらい、俺はちゃんとできているだろうか。

 正直、まったく自信がない。


 澪はきょとんと目を丸くしてから、へにゃっと笑った。


「お見合いのときから、瑞希さんはずっと優しいです」


 そう笑う澪の顔はやけに眩しくて、思わず目を細めてしまった。

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