第16話 恋する少女と優しいネコ


 学校に着くまでに信号が三つある。そのどれもにつかまらずに登校できたことが、三回だけある。

 毎回、歩いているときはそのことに気づかなかった。いいや、そのことを気にしていなかったって言った方がいいのかも。

 そして、教室に入って、席に着いてから〝そういえばどうして赤信号を見なかったんだろう〟って考える。

 それで、途中で〝きれいな花が咲いていた〟とか、〝可愛い犬が歩いてきた〟とか、いつもと違うことを見つけていたことに気づく。だから自然と歩くスピードが変わったからだって気づく。

 今朝、あたしは全部の信号につかまった。

 これは実は、何回も何十回も何百回も学校へ行っているっていうのに、初めてのことだった。

 こんな珍しいことが起きたのはいったいどうしてだろう? って、考えずにいられるはずがない。

 教室に入って、席に着いて、目をつむって、腕組みをして、うーんと唸る。

 すると、足元でニャムが『ニャニャ?』と呟いた。

 たぶん今、ニャムは不思議そうな顔をしているんだろう。あたしにはわかる。お見通しだ。

『ニャ、ニャコ! ニャコ!』

 突然、ニャムが慌てた声であたしのことを呼び始めた。

 ちょっと待ってよ。もう少しで全部の信号につかまった理由が何なのか、わかりそうなんだから!

「おはよ」

 誰かに挨拶をするシュンくんの声がした。

 ヤバい、考え事をしている場合じゃない!

 パッと目を開けた。すると、目の前に――

「シュ、シュンくん⁉︎」

「おぉ、おはよ。何やってんだ? ずいぶん難しい顔してたけど……。何かあったのか?」

 まただ!

 見られていた!

 油断していた!

 最悪だ!

 こんな未来も、ニャムにはお見通しだったのかな。それなら、教えてくれたっていいのにね。って、化身は計画を教えちゃいけないんだったっけ?

 違う。ニャムは教えてくれていた。

 ニャコ、ニャコ、と慌てた声で呼んでくれていた。

 きっと、シュンくんが近づいているとか、そんなことを伝えようとしてくれていたんだ。

 ニャムのせいじゃない。こんな未来をつかみ取ったのは、全部あたしの責任だ。

 両手で顔を覆って、机に突っ伏した。

 見られたくない。こんな恥ずかしいと悔しいがにじみ出て隠せない顔、シュンくんに見られたくない!

「おい、シュン。奈子泣かせてんのか?」

「え、いや。そんなつもりは……。え、オレ、何かした?」

「シュン~、ダメだろぉ。ほら、謝って、謝って」

「あ、ご、ごめん。奈子」

 何も悪いことをしていないシュンくんが謝らされている。

 私が疑惑を晴らさないといけない。でも、どうしたらいいのかわかんない!

 今のあたしには、突っ伏したまま、首を横に振るのが精いっぱい。

「奈子、許さないって」

 違う、違う! ごめんって言わないでって意味でそうしたの!

 首を横に振れば気持ちが通じるって、ほんのちょっとでも期待したあたしがバカだったのかもしれない。

 あたしの頭の中は、男子にお見通しじゃなかった。普段はそれでいいけれど、今日だけは、今だけは見透かしてほしかった!

「え、まじ、オレ、何した? え、何した?」

 シュンくんが戸惑っている。

 ごめん。ごめん、シュンくん!

 ああ、もうダメだ。

 あたしの初恋、この数分で粉々に散った気がする。


 すべての信号につかまった理由なんて、たぶん何もない。

 きっと、本当にいつも通り。ただの運。

 運以外に何かあるとしたら、計画書にそう書いていたとか、誰かの計画書に〝この日、クラスメイトが初めてすべての信号につかまって悩む〟と書いてあったとか、そんな理由しか考えられない。

 落ちても落ちても底に着かないテンション。最悪な一日のスタートを切った背中にシュンくんの優しい視線がチクチク刺さって、ハリセンボンか何かみたいになったあたしは、休憩時間のたびに席を立った。

 ひとりぼっちになりたかった。

 でも、あたしは誰かにひとりぼっちに見えても、本当にひとりぼっちになることはない。

 それが、今はちょっとだけうっとうしい。

 でもそれは、今も心強くてあったかい。

『ニャコ……』

「ニャムのせいじゃないよ。ニャム、教えてくれようとしていたし。気づかなかったあたしが悪いの」

『ニャコ……』

「ねぇ、ニャム。あたし、どんな計画を立てて産まれてきたのかな。こうして傷つくことも、全部全部計画のうち?」

 ニャムが黙った。

「言えないこともあるよね。そうだよね。ごめんね」

 ぼん、と体に何かが触れた。それが何か、あたしにはわかる。

 ニャムの体だ。ぴったりと寄り添ってくれる、ニャムの体。

 何か言いたくても、それを口にできなくても、できることってあるんだね。ただそばにいてくれるだけでもこんなに力をわけてもらえるって、ニャムに教えてもらったよ。

 産まれてくる前のあたしはきっと、シュンくんとの恋が実ることより、誰かの心に寄り添うことが生み出す温かさを知ることのほうが大切だって思ったんだろうな。

 だから、こんな今を計画したんだろうな。

 あたしはあたしの手のひらの上で悩みながら、ころころ転がっているだけなんだろうな。

 ああ、嫌になっちゃう。

 こんなに優しくしてもらっても、あたしはまだ這い上がれない。

 一人じゃないっていうのに。二人分の力でのぼろうとしているっていうのに。

 心の中は凍えるほどに冷たいけれど、ニャムの体が触れているところは、びっくりするほどあったかい。

 ぽかぽかする。



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