勝ちたい男

復活の呪文

甘い膿

 熱く湿った夏のことでした。


 大学2年生のわたしは、帰省するため、鈍行列車に揺られていました。


 夏も最盛で、窓を開けると湿った風が茜色の車内に吹き込み、青いワンピースが揺れます。ふと、子供の頃の記憶が浮かびました。


 わたしは、嘘を判別できます。根拠なんてありません。ただ、相手の視線の泳ぎや無意識に動く指先。そういう細かな兆しを感じ取れるのです。

 わたしはそれを「嘘の匂い」と呼んでいました。


  大学に入ってからは、この匂いを何度も感じました。道を尋ねるふりをしながら連絡先を聞き出そうとする男。怪しいサークル勧誘。笑顔の奥から漂ってくる、薄ら甘い匂いに辟易し、久々の実家にほんの少しだけ浮ついていました。


 ある駅に止まると、向かいの席に男が座りました。皺の入ったスーツに緩んだネクタイ。年齢はわたしとそう変わらない気がしますが、白髪混じりの黒髪で、左手に杖を握っています。若いのか年老いているのかよく分からない人だな、と思いました。


 すると、男が声を掛けてきました。


 「この電車……どこまで行くのか、ご存知ですか?」


 一瞬、『またか』と思いましたが、男からは嘘の匂いがしません。わたしは無視せずに答えます。


 「……○○線と直通しているので、このまま東北の方まで行けると思います」

 「ということは、△駅に行けますね。いや、助かりました」


 男は安堵したようでした。


 軽く会釈を返し、私は視線を窓に戻します。変わり映えのしない郊外の町並みを眺めていると、男が声を落として言いました。


 「……お嬢さん。お礼に面白い話をしましょうか」

 「えっ……」


 戸惑う私に、男は、にこりと笑いました。


 「長い旅路の暇つぶしです。軽い気持ちで聞いて下さい」


 了承も聞かずに、男は淡々と語ります。

 

 ———


 ある男についてのお話を少々。彼は生まれつき走るのが速く、頭も切れました。親に教師に同級生。みな彼を褒めそやしました。


 だが、称賛は甘い毒です。彼はその味に酔いしれ、いつしか、“他人を追い抜くこと”に快感を見出しました。振り返れば、自分より劣った人間が苦しそうにもがいている。その姿を見ると、胸の底に甘い膿が湧いたのです。


 脚と学力を活かして、彼は順風満帆な学生生活を送りました。進学校の強豪陸上部のエースとして君臨し、きれいな女子と交際しました。しかし、何事にも上には上がいます。どうしても勝てない相手が現れ始めました。


 全国大会で、彼は初めて“敗北”しました。相手は華やかでも洗練されているわけでもない、泥臭い走りをする青年。でも、どうしても勝てなかった……。


それで、彼は競技を捨てました。


 全国模試で、彼は再び敗北しました。相手は彼が見下していた冴えない男子生徒。どれだけ時間を割いて勉強しようと、成績は離れていくばかり。


それで、彼はペンを捨てました。


 何度も何度も敗北を経験し、彼はいつしか努力を捨てました。


 時が進み、彼は流されるまま都内のありふれた企業に勤めました。

 社会に出てからの彼は、特に惨めでした。上司に叱られ、部下に馬鹿にされ、“勝てる相手”など何処にもいません。


 しかしある日、“勝てる場所”を見つけます。


 ———わたしは疑問に思いました。何故、男はこんなにも流暢に語れるのでしょうか。まるで、自分の昔話でも語っているようです。


 渋谷駅には、いくつもの路線が乗り入れていますよね。


 乗り換えの度に、階段や連絡通路を上下し、群衆をすり抜けなければならない。まるで障害物競走のようです。毎朝開催される巨大なレース。彼はそこに、“勝負”の匂いを嗅ぎつけたのです。


 最初は気まぐれでした。普段通りに、渋谷駅を歩いている出勤の朝。前を歩くビジネスマンに、ふと“勝てる”と思ったんです。目の前の男性は、姿勢が悪く、えっちらおっちらと覚束ない足取りです。彼は歪な笑みを浮かべると、歩幅を広げ、男性の真後ろに張り付きました。そして地下鉄から山手線への通路で、わざと肩をぶつけながら男性を追い抜きました。


 その瞬間、彼の奥に、あの『甘い膿』が湧きました。久々の“勝利”でした。

 それから彼は、『乗り換えゲーム』を開発しました。どれだけ速く乗り換えを行い、何人の人間を追い抜けるのかを競うのです。


 スタートは△線の電車。渋谷駅に到着し、ドアが開いたらレース開始です。そこから2番出口を進み、○○線へと乗り換える。およそ700mにも及ぶ中距離。それは奇しくも、彼の学生時代の競技距離と同じでした。


 最初は、歩いて抜き去るだけでした。だが、数回もしない内に全力で駆けるようになりました。奇異の視線など気になりません。項垂れた男達を抜き去る瞬間だけ、甘美な勝利に酔う事ができたのだから。


 ———男は笑いました。老人のようにも、少年のようにも見える笑みです。わたしの背筋に、冷たいものが伝いました。

 目の前で話す男。彼からは露ほども、嘘の匂いがしなかったのです。


 そして、いつも通りに駅を走っていたある日、彼は女性と衝突してしまいます。女性は生まれつき視力が低く、急に飛び出した彼を躱せなかったのです。


 『きゃ!』と叫ぶ女を一瞥することもなく、彼は走り去りました。薄い罪悪感が浮かびましたが、走っている内に汗と共に流れ落ちていきました。


 数日後、いつも通り渋谷駅へ向かう電車で、若い男が彼に声をかけてきました。


『あんた、若い女性を怪我させただろう』

『…….誰だ、お前』

『アンタに怪我させられた女性の友人だ』


 見ると、若い、大学生くらいの男が睨んでいます。彼と同じくらいの背丈。一見貧弱そうに見えますが、ピンと背筋が張っていて、スポーツをやっているなと、彼は思いました。


『あんたの所為で、彼女の足が折れた。結婚式直前にだぞ!』


 無視もできましたが、目の前の男をできる限り不快にさせたくなりました。


『それは気の毒な事この上無いが、本当に心当たりがない。俺がその女を怪我させた証拠はあるのか?』


『……彼女が、お前の顔を覚えてたんだよ』


『ほう。だが、他人の空似ということもあるだろう。それに、これだけ多くの人がいる渋谷駅内で俺の顔だけを認識できるものなのか?』


『減らず口を……!』



 若い男の拳が怒りに震えていました。



 ——ああ、いい。この感覚だ。


 彼の胸の底で、久しく忘れていた熱がじわりと灯るのを感じました。


『……なあ坊や、ひとつ提案がある』



 わざとらしくポケットに手を突っ込み、口元だけで笑う彼。



『このまま口喧嘩を続けても、君は納得しないだろう。だが俺としても、身に覚えのない罪を着せられるのはごめん被りたい。ならば、勝負で決めようじゃないか』



『勝負……?』


『数駅で渋谷駅に着く。そして扉が開いたら合図さ。ここから○○線のホームまで走

り、先に着いた方が勝ちだ』



 若い男の眉間に皺が寄りました。


『ふざけてるのか? 本気で言っているのか……?』



『至って本気さ。俺が勝った暁には、疑いを晴らして謝罪してほしい。代わりに君が勝てば、俺の身を好きにするがいいさ。だが——』



彼は、喉の奥で小さく笑いました。


『俺に勝てるなら、の話だ』


 乗るか、くだらないと一蹴するか。何となく、彼は、男が了承すると感じていました。


『……後悔するなよ』


 男の答えに彼はほくそ笑みました。

 発車ベルが鳴り、電車が動き出します。渋谷駅に着くまでの間、彼は笑いを堪えるのに必死でした。


 今や、渋谷駅は彼の独壇場。体には最短ルートが染み付いており、どれだけ混雑していようと、どんな障害物があろうと、己が“勝てる”と信じて疑わない舞台だったのです。


 若い男は俯いているばかりで、自身の選択を悔いている様でした。

 彼が勝った後にどんなセリフを言ってやろうかと考えているのも束の間、車掌が気だるげに告げました。


『渋谷〜。渋谷〜』


 扉が開いた瞬間、二人は飛び出します。



 彼はいつも通りのルートを選びました。手前の階段を一気に駆け下り、連絡通路へ。人混みに突っ込み、何人もの人間を跳ね除けながら走ります。後ろを振り返ると、視界の端に、若い男の影が見えました。ですが雑踏に進めずにいるようで距離は開いていきます。


『ふはっ!』


 勝ちは間違いない——彼は思わず吹き出しました。しかし、角を曲がった時でした。


 眼前に、黄色いバリケードと工事幕が立ち塞がっているではありませんか。




 警備員が「通行止めです! 迂回してください!」と声を張り上げています。


 彼は舌打ちすると、別の通路へ飛び込びました。呼吸を乱しながら、老婆を、小学生を吹き飛ばします。ここで、彼の競技性の穴が出ました。最速最善のルートを求め過ぎるあまり、融通が効かないのです。

 

 何とかホームに辿り着いたとき、既に10分の時間がすぎていました。


 絶えず電車がやってくるホーム。その中央にあの男が立っています。息一つ乱さず、手すりにもたれ、悠然とコーヒーを飲んでいました。


『随分ゆっくりでしたね』


『……な、なぜだ』



 彼の喉から、かすれた声が漏れます。


『あれ、知らなかったんですか? 渋谷駅は改装工事中であんたがよく使うルートは行き止まりになっているんです』


 若い男は高らかに笑います。



『結局、あんたは視野が狭い。自分のことしか考えていないから、他人が目に入らないし、目の前の道以外の歩き方を知らないのさ』


 その瞬間、膿が、煮え立つように熱くなりました。


 こちらを見つめる、男の瞳に、敗者への憐れみが映っていたのです。

 気づけば、彼は若い男に飛びかかっていました。爪をたて、男の喉に噛みつき、獣のような声をあげました。


『畜生……この負け犬が!』


 男はその異様な光景にたじろぎつつも応戦し、彼の鼻、腹を殴ります。それでも彼は止まりません。いや、彼は、止まる訳にはいかなかったのです。


 彼は背中に手が触れた瞬間、若い男を押し飛ばしました。どさり、という重い音に、男がホーム下へ吸い込まれます。



 瞬間、耳を裂くようなハザード音と、ブレーキ音が鼓膜を突き刺しました。

 強い、風が吹きました。


 轟音が止んだ後も彼は呆然と立ち尽くしました。


 いつの間にか集った群衆が集まっていて、携帯で写真を撮ったり、非常停止ボタンを押したり、三者三様入り乱れています。


 すると、電車の下から男の声が響いてきました。



『許さない……許さないぞ』


 喉に血が溜まっているのか、一言発するたびにごろごろという音が聞こえます。

 女性が叫びました。男がホーム下から這い出てきたのです。縁石と舞い上がった土煙によって全身が煤けています。


 そして何よりも、右足首より下がありませんでした。断面から骨と肉を覗き、芋虫が這う様にして彼の方へと進みます。


『絶対に、許さねぇ。どこに逃げても必ず見つけ出してお前を殺す……!』

『ひ、ひぃ!』


 彼はこの光景が本物か幻聴かわかりませんでした。本当の自分はまだ寝ていて、全ては脳が見せている仮初に過ぎないのでは無いか。そう祈ると、彼は何度も転びながら人混みの中へと消えていきました。


———


「と言った話を考えたんです。如何でしたか?」


 話が終わると、男はニコリと笑いました。 胸の奥が焼けそうでしたが、わたしは、震える声で尋ねます。


「ち、違います。この話は作り物なんかではありません。だって貴方からは嘘の匂いがしないから……」


 わたしの言葉に男がどんな顔をしたのかは分かりません。怖くて見ることができなかったのです。永遠にも思える沈黙の後、男が低い声で告げました。


「面白い。答えを知りたいのならば、下を見てみるといい」


 恐る恐る視線を下げると、男の右足首より下がありません。私は叫び出そうとする自分を必死で抑えました。


「……これから、どうするんですか」


 男は笑みを浮かべました。


「東北に住んでいるらしいんです。あの男が。だから、会いに行くんです」


 私は唇を湿らせ、もう一つだけ質問しました。


「……一個だけ、嘘をつきましたよね?」


 男は首を傾げます。


「例の女性と貴方は、知り合いでもなんでもないんじゃ無いですか……?」


 瞬間、視界が闇に染まりました。電車がトンネルに入ったのです。車内の蛍光灯がわずかに瞬き、闇の中で、男の顔だけが浮かび上がるように見ました。


「……彼女は視力が弱くて、そのせいで男とぶつかったんですよね。ならば、ぶつかった相手の顔なんて覚えられないはず。じゃあ、———なぜ彼に声をかけたんですか?」


 静かな笑みが、闇に浮かびました。


「決まっているじゃないですか」


 間を置き、低く。


「勝つためですよ」


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