第19話 約束 *クラブNanaの彼女
「……へぇ、逃げたのか。」
「はい、部屋に行った時にはもう、……」
いませんでした、と後に続けようとした言葉も、報告をする間ずっと外の景色へと向いていた顔をこちらに向けられただけで、出てこなくなってしまった。
こんなのに毎度呼び出され、右腕として働いていたあの男は本当にすごかったのだと、今更ながらに再認識する。……ここ最近は美尊ちゃんのことになると、残念な程に余裕を失くしていたけれど。
「あ、そういえばさ、アレ持ってきてくれた?」
「あぁ、……はい。こちらに」
均整のとれた人形のような顔が、ぱっと明るく変化する。楽しみを待つ子どものようで、その変わる様に驚いて一瞬なんのことを言っているのか分からなかった。気付きすぐにケースを取り出すと、ありがとう、と中身を確認する。
なぜ唐突にこれを持ってこいと言われたのかは、よく分からなかった。表情に出ていたのか、気になる? と見透かしたような笑みを浮かべられて。
「じゃあ、説明してよ。このボトルの価値」
「……アルマン・ド・ブリニャック ブラン・ド・ノワール、……通称アルマンド ブラック。最上級のシャンパーニュで、限定で3000本程しか生産されていない希少品ですね。流通していること自体が少ないので、当店でも滅多に入れることはありませんが」
「へぇ、そうなんだ」
……は?
何も知らないで言い付けたのか。私の店でさえ手に入れるには、かなりの金と運と信頼が必要となるような代物なのに。やはり、何を考えているのか分からない。いや一周回って何も考えてない可能性も……?
「あ、何言ってるんだって顔してる。分かりやすいね」
「いえ、そんなことは、」
そんな怯えないでよ。にっこりと笑いかけられることがまた、背筋を凍らせる。
「僕はさ。正直この酒の価値とかどうでもいいんだ。……まだ駆け出しだった頃に絶対成功して旨い酒を飲むと決めた、もう一人との約束にこそ価値がある」
「………」
「律がいなきゃ約束は果たされない、……っ、僕一人じゃ、なんの意味も無いんだよ!!」
「ッ!!」
──ガシャンッ!!
強い衝撃音と、飛び散る液体にガラス片。投げられたボトルは私の右頬を掠め、後ろの扉に叩き付けられた。怪我こそしなかったものの、心臓は未だ早鐘を打っている。
この男にとっての約束は、何よりも重い。それはどれほど世間的に価値のあるものであっても、簡単に破壊できてしまうくらいには。
露にした激しい怒りは、すぐに感情を読み取らせないものへ。
「……まぁ、そういうことだから。頑張って」
「……わかり、ました」
失敗すれば、お前もこうなるという脅し。部屋を出た頃に手が震えていたことに気付く。このボトルを急に持ってこいと言われた私の労力ですら、どうでも良さそうなあの態度。腹が立つ前に恐怖でねじ伏せられた。
頑張って、なんて不明確な命令でも、彼の求めていることを理解させられる。言わないからこそ、私はトカゲの尻尾として消費されていく。瀬川律の方がまだ人間らしくて付き合いやすかったけれど。面倒なこと押し付けるんじゃないわよ、と悪友に愚痴を吐きたくなる。
愛を選んでしまった可哀想な彼には悪いけど。私もとばっちりを食らって死にたくはないの。
「……ごめんね」
恨むなら、アンタが捨てた男を恨んでよ。
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