夢をみた宝石
虹色のナイフ
夢をみた宝石
かつて、アッシュの目は、青みがかった灰色だった。アンバーはよく覚えている。しかし、アッシュの両目は、もう色素の薄い灰色ではない。数ヶ月前に事故で左右両方の眼球を失った彼は、義眼をつけることになった。鮮やかな青い虹彩に、黒い瞳孔。よくできている。なぜ、虹彩の色に青を選んだのかとたずねたら、アッシュはこう返してきた。
「透き通った青い目に、ずっと憧れていたんだ」
異変は、義眼をつけた数日後に起こったらしい。夕方から夜にかけて、彼は決まって奇妙な光景を見るという。目はもう見えないはずなのに。
彼は熱を帯びた声で、アンバーに語る。
「杖を片手に、いつも通り家に帰ったんだ。手探りでドアを開けると…馬鹿馬鹿しいと思うだろうが、信じてくれ、そこには、どろどろに溶けた世界が広がっていたんだ。そこにあったはずの段差も、テーブルも椅子も、キッチンも天井も、みんな赤くなってどろどろに溶けていたんだ。不思議なことに、熱くはなかった。俺は溶けなかった。とにかくそこには、マグマのような世界が一面に広がっていたんだ」
興奮と恐怖、そして不可解さへの興味から、彼の声はひどく震えていた。
「それで、俺は勇気を振り絞って、一歩踏み出してみたんだ。おかしな世界とはいえ、目が見えるなんて久しぶりで、少しだけわくわくしていた。しかしな、不思議なことに、目の前のどろどろを踏んでも、何も温度は感じなかったんだ。熱くなかった。いや、むしろひんやりとさえしていた。それを知った俺はもうどんどん、奥へと進んだよ。俺の家の中はすべて、どろどろの冷たい溶岩になっていてな。奥には…奥には、何かがあった。近づいて、その、きらりと光った何かを手に取ろうとしたんだ。そしたら、再び視界は闇に戻ってしまった」
アンバーは、彼の話を否定しなかった。しかし、すぐに信じることもできなかった。アンバーは彼のその話を、胸の奥底にしまいこむことにした。
アンバーは、クマのように大きな背中を丸めて、今日も宝石を磨く。エメラルド、サファイア、トパーズ。ダイヤモンドを切り出し、そこに五十八もの面を作り出す。彼は手のひらの上で、そのダイヤモンドを転がす。七色に輝く、純粋な炭素のかたまり。
恐ろしく細かく、呆れるほど丁寧な作業を終えると、彼はタオルで汗を拭き、作業場からのそりと出る。先ほど、ベルの音がしたような気がする。集中しすぎると周りの音がほとんど聞こえなくなる彼は、小走りで玄関へと向かう。ドアを開けると、そこには白い杖を右手に握った、アッシュがいる。
「アッシュ!来てたのか。待たせてしまって悪かったな。それにしても、よくひとりで俺のところまで来れたもんだ。連絡してくれれば、迎えに行ったのに」
彼は明るい声で友を迎えるが、アッシュは浮かない顔のまま。アンバーは首をひねる。
「どうした?」
アッシュはすぐには答えない。短い沈黙の後、彼は張りつめた声でアンバーに問う。
「俺の義眼に宝石が使われているというのは、本当か?」
その言葉を聞いた途端、アンバーは凍りついたようにかたまる。波風ひとつ立たない湖に落とされた、一本の針。
「ま、まさか」
「お前がカットした宝石が使われていると聞いた」
「…いったい、どこでそんなことを」
「あの日から、夕方、家に帰ると、毎日変な光景を見るんだ。家の中に、決まって溶岩がたゆたっている。どう考えたっておかしい。そんな時、この義眼に宝石が使われていると聞いた。馬鹿みたいな話だが、何か繋がりがあると考えてしまっても仕方がないだろう」
「……」
「本当のことを教えてくれ。安心しろ、俺は真実を知りたいだけだ」
アンバーは、特別に濃いコーヒーを二杯分作る。白いマグカップにインスタントコーヒーの粉末をたっぷりと入れ、お湯を注ぎ、よくかき混ぜる。真っ黒なコーヒーが出来上がると、彼はマグカップを両手に持ち、アッシュのもとへ戻る。アッシュは、リビングのソファに座ったまま、彫像のように動かない。右手には杖が握られたままになっている。
「杖、そのままじゃ邪魔だろ?ここに立てかけるといい」
「あ、ああ、そうだな」
アッシュは杖を、すぐ後ろの壁にそっと立てかける。そしてソファに座り直すと、彼はアンバーがいるであろうほうを向く。
「アンバー、そこにいるか?」
「ああ、いるとも。ちなみにコーヒーはテーブルの上、お前から二時の方向にある」
「…そうか、ありがとう」
「それで…真実が知りたい、だったな」
「ああ」
アンバーはコーヒーをひとくちすする。口の中にじわりと苦味が広がる。酸味やフルーティーな香りはまったく無い。彼はぎゅっと眉を寄せて目を閉じ、そして開ける。彼はあめ玉のような、琥珀色の目を動かして、アッシュの整った美しい目もとを見つめる。
「お前の義眼に、俺がカットした宝石が使われているのかどうか。答えは…イエスだ」
アッシュがかすかに息を呑む。
「義眼に宝石を使うと聞いた時は、驚いた。何の意味があるのかってね。しかし、俺に宝石を切り出す依頼をしてきたやつは、こう言っていた。確かめたいことがある、と」
「確かめたいこと、だと?」
「ああ。しかし、それが何なのかは教えてくれなかった。だから、なぜ義眼に宝石を使ったのか、その具体的な答えは俺にもわからない」
「そう、か…」
「ただし」
「…何だ?」
「そのブラック・ダイヤモンドはいわく付きだ。それは俺も知っている」
「待て。ブラック・ダイヤモンドだと?」
「そうだが、どうした?」
「宝石を使っているのは、虹彩の部分ではないのか?」
「いや、そこはガラス製だ。宝石を使ったのは瞳、つまり瞳孔の部分だ」
その黒い、どこまでも黒いブラック・ダイヤモンドは、『死者の目』と呼ばれている。
アンバーは首を振る。これはただの、タマゴ型の黒い鉱石。付随する伝説は、うわさに過ぎない。彼はそう思おうとする。しかし、依頼主であるカルマという男は、おびえた様子でひそひそと話す。
「このブラック・ダイヤモンドには、とある伝説がある。あんたも宝石に関わる人間なら知っているだろう?ほら、これを持つ人間は奇妙な夢をみるという伝説だよ」
アンバーは呆れた顔でカルマを見る。
「それが怖いから、他人に押し付けようってんですか?」
「違う、いや違う。私にはただ、その…確かめたいことがあるんだ」
「確かめたいこと?」
「すまない。これ以上は話せない。とにかく、楕円形のこれを球状にカットしてくれ。あんたの腕なら信用できる」
「…ありがたいことで」
「頼んだぞ」
「この瞳孔の部分にはめこまれたブラック・ダイヤモンドが、いわく付きなわけだな?」
アッシュがうつむきながら確認する。白みがかった、上品な色の金髪がひとすじ、頭から垂れる。
「そうだ。秘密にしていて、悪かったな」
アンバーは低い声で謝罪するが、アッシュが怒り出すことは無い。
「いや、構わない。俺は知りたかったんだ。お前は教えてくれた。だから、もういい」
「義眼、とりかえるか?」
「いや」
アッシュは垂れた金髪を指でつまむ。彼は考えこむ時、決まって髪をいじる癖がある。しばらく指先で髪を揺らした後、彼はくいと顔を上げる。
「義眼はこのままでいい。俺にも、確かめたいことがある」
アンバーはゆっくりと視線を上げる。
「それ、教えてくれるか?」
「もちろん」
アッシュは口を潤すべく、コーヒーを飲む。
「夕方に帰ると、家の中がいつも妙な光景になっていると話したよな。その時、必ず家の奥に、何かがきらめいているんだ。ひとつぶの…宝石か何かが。俺は毎回、小さなそれを掴もうとする。しかし、手を伸ばしたその途端、世界は暗闇に戻ってしまう。俺は、掴めそうで掴めない、不思議なそれが何なのかを知りたいんだ」
アンバーはソファによりかかる。
「なるほど。お前、昔から好奇心旺盛だったもんな。義眼をとりかえない選択をすることは何となくわかっていたが、未知の空間で宝探しとは」
「さすがのお前でも、俺のこの話は信じないか?」
アッシュが口の右端を上げ、試すように言う。アンバーは苦しげに笑う。
「まさか」
この時だけ、彼は、アッシュの目が見えていないことに感謝してしまう。彼はコーヒーをぐいと飲み干す。強い苦味が口いっぱいに広がる。彼は吐き気をおぼえる。
アッシュが家に帰ると、家の中はやはり、どろどろのマグマで覆われている。しかし、もう彼の中に恐怖は無い。
「死者の目、か。まさか、俺の眼窩に死者の目玉がはめこまれるとは」
彼は一歩を踏み出す。靴が、ぐしゃりとマグマを踏む。慣れた足取りで、彼はずんずんと家の奥へ進んでいく。
ほんのわずかな時間で、家の最奥に到着する。四方から、炎の色の光が飛んでくる。ひどくまぶしい。彼は目を細めながら、手を伸ばす。きらきらと光る、ひとつぶの何か。あと数センチで、指先がそれに届く。しかし次の瞬間、世界は暗転し、何も見えなくなる。彼は大きく舌を鳴らす。
「これは、何なんだ?」
彼はひとり、悔しそうにつぶやく。
「俺は、夢でもみているのか?」
楕円形だった『死者の目』を球状にカットし、丁寧に磨く。つるつるになったその石は、アンバーの顔をくっきりとうつしだす。真っ黒なその石を見て、彼は背筋がぞわぞわと波打つのを感じる。この石にまつわる伝説は当然、知っている。彼は椅子によりかかる。椅子が軋み、小さな悲鳴をあげる。彼は目を閉じ、まぶたの裏の、ブラック・オパールのような暗闇に集中する。
『死者の目』を所有するものは、不思議な夢をみるという。それは、マグマの中に沈む夢だと聞いた。どろどろに溶けたマグマの底で、何かが光っている。掴もうとすると、世界は暗闇となり、光っていた何かも消える。そしてその暗闇から、誰かがこちらを見つめている。突き刺さる視線。不可視の相手。
最初にその夢をみた男は、その「誰か」を、亡くなった妻だと思いこんだ。毎日のようにその夢をみた彼は、肌身離さず所有していたその宝石を『死者の目』と名づけた。石を通して、死者がこちらをのぞきこむ。彼はそう考えた。
『死者の目』は、世紀をまたぎながら、たくさんの人々の手の上を転がっていき、やがてアンバーの手のひらにこぼれ落ちる。彼はそれを、何度も繰り返し磨く。そしてそれは数日後、アッシュの目の中に埋めこまれる。
アンバーは考えにふける。ブラック・ダイヤモンド。『死者の目』。彼は思う。もしかすると、夢をみているのは、石のほうなのかもしれない。
アンバーとアッシュは、地方の専門学校で出会った。ふたりは宝石の研磨職人を目指していた。インクルージョンやキズが目立たない切り方はどれか。宝石の色が最も美しく現れる方向はどこか。モース硬度は?劈開性はあるか?宝石を加工する職人になるには、様々な要素を理解し、的確に判断をくだせるようになる必要がある。宝石に魅せられたふたりは、熱心に学んだ。
しかし、専門学校を卒業した四年後、今からほんの数ヶ月前に、アッシュは交通事故に遭って失明した。研磨職人にとって、目はこれ以上無いくらいに重要なものだ。インクルージョンを確認し、宝石の輝きを細かく観察しながら削っていく。視力がまったく無いのなら、研磨職人になる夢は諦めるしかない。彼の研磨職人への道は、無情にも断たれてしまった。
アンバーは白い病室を思い出す。アッシュは包帯だらけで、ベッドに寝かされていた。もともと細身なアッシュだったが、病室で寝ている彼は、いつもよりずっと細く見えた。両目を覆うように包帯が巻かれていて、表情は読み取れなかったが、彼が絶望していることはアンバーにだってわかった。彼はかけるべき言葉を見つけられず、ただ幽霊のように立ち尽くしていた。
自分がカットした宝石がアッシュの義眼に使われていることは、何としてでも隠そうと思っていた。しかし、できなかった。聡く、アンバーにとって親しい友人である彼に、隠しごとなど通用しないことは、こころのどこかでわかっていた。そして結局、彼はしゃべってしまった。その真実がアッシュを追い詰めてしまうのではないかと、アンバーは内臓がしぼむほどに心配した。しかしアッシュは怒ることも、彼を罵ることもしなかった。彼はあくまで冷静だった。アンバーは胸を撫で下ろすと同時に、自分を激しく責めた。
アンバーと会った日から三日後の夜。アッシュはついに、家の最奥に鎮座する何かを掴むことに成功する。
素早く腕を伸ばし、ちらちらと光るそれを手のひらで包みこむ。いつもと違い、世界は暗転しない。彼は手をそっと開く。そこにあるのは、ラウンドブリリアントカットを施された、一カラットほどのダイヤモンド。ブラック・ダイヤモンドとは違い、華やかなきらめきを放っている。その可憐な石をじっと見て、彼は悟る。ああ、そうだったのか。彼は手のひらをそっと傾ける。ダイヤモンドは転がり落ち、音も無くマグマの中に消える。ようやく世界が暗転し、彼は日常に戻る。
アンバーはカルマに電話をかける。義眼にはめこまれたブラック・ダイヤモンドと、義眼の装着者であるアッシュの様子を報告するためだ。彼は淡々と伝える。
「義眼装着者のアッシュはもう夢をみません。『死者の目』はその伝説に終止符を打ちました。あれは死者を呼び寄せる石ではなかったんです、最初から。今はもうただの石ですよ」
「そ、そうか。それは…」
「あなたは、『死者の目』が亡くなった家族を呼ぶのかどうかを確かめたかった。だからあなたは巨額の金を出してあの石を買った。しかしあなたは、夢をみて恐ろしくなった。あなたは密かに義眼のパーツとして石を差し出し、装着者の様子をみることにした。目の見えない人が、夢をみるのか。目の見える人にはわからなかった何かを、目の見えない人は見て取るのか。そういうことを知りたかった。違いますか?」
「…ああ、見透かされていたとは」
「あの石はもう必要ない。そうですね?」
「そうだな。夢をみせなくなったのなら」
「では、あなたと会話をするのは、これで最後になります」
「…世話になったね」
「いえ。それでは」
アッシュはいつものように、家のドアをそっと開ける。そこに広がるのは、純粋な暗闇。吸いこまれるようなベンタブラック。
彼の脳が、光を認識することは無い。部屋にマグマが溢れていることも、もう無い。彼は少しだけ、途方に暮れたような、寂しげな顔をする。
地上から百キロメートル以上も遠い地の底、マントルの中。極度の高温・高圧力にさらされて、それは生まれる。さまざまなインクルージョンを飲みこんで、希少な色がつく。グラファイト、硫化物、鉄鉱石。大地が伸び、縮み、ぶつかり、そしてまた伸びることを繰り返す。海面の高さが上下する。湖ができ、枯れ、川ができ、枯れ、木々が生え、枯れる。想像もつかないほどの長い時を経て、それは地表に押し出される。そして人の手によって掘り出され、うやうやしく磨かれる。
美しいそのブラック・ダイヤモンドを、人々は『死者の目』と呼んだ。ある者はそれを恐れ、ある者はそれを欲しがった。
その石は常に怪異をはらむ宝石として扱われ、七色の絢爛な輝きを放つダイヤモンドばかりがもてはやされた。ブラック・ダイヤモンドにしか無い美しさ。そして、ブラック・ダイヤモンドには無い美しさ。天秤はいとも簡単に傾いた。
しかし、アッシュが石の願いを悟った時、石は夢をみることをやめた。
アッシュは、自身の目もとをそっと触る。すべすべとした肌、繊細で柔らかいまつ毛、冷たい義眼。彼はまぶたを閉じる。なりたいものになれなかった者たち。決して手の届かない、高嶺の花。彼は決意する。義眼は絶対にとりかえない。
その時、目の奥がじわりと熱くなる。そして彼の目もとから、涙がひとつぶ、こぼれて落ちる。一瞬だけ輝いたかと思うと、それはぱしゃりと崩れて、形を失う。アッシュはただ、その温もりだけを感じている。
夢をみた宝石 虹色のナイフ @r41nb0w
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