三/二

 病院を出てスマートフォンを開くと、いくつもメッセージが届いていた。

 知り合いの女子アナからの近況報告、スポンサー会社の社員との飲み会の約束、チームメイトからの業務連絡、通知はひっきりなしにやってくる。

 長谷部のベッドサイドに置かれたスマートフォンが、ずっと沈黙していたことに俺は気付いていた。

 俺は思う。

 これは正しいのだろうか?

 ――これは本当に正しいことだろうか?

 俺はなにか、ひどく間違ったことをしているのではないか?

 タクシーに乗り家へ向かった。家の中は、デザイナーが作った高級家具で揃えられ、週二回のハウスクリーニングで常に清潔で美しかった。俺が俺のために整えた理想の空間。その家を、初めて落ち着かないと思った。

 ワインセラーに入った年代ものヴィンテージのワインも、常備している外国産のミネラルウォーターも飲む気にならなかった。俺は水道から直接水をコップに注ぎ、がぶがぶと飲んだ。喉がひどく乾いていた。

 スマートフォンの画面が点灯し、新しいメッセージの受信を知らせる。いつもの習慣で俺は手を伸ばしそれを確認してしまう。

『これから会えないかな?』

 梨奈からの連絡だった。俺は通知画面だけでメッセージを開くこともなく、無視をしようと決める。

 しかしどうしようもなく落ち着かない俺は、シャワーを浴びようと服を脱いでバスルームに向かった。

 浴槽の大きな鏡、シャワーのしずくの向こうに俺の体が写っている――。逞しく鍛えられ、体積のある俺の体。その体を見ても、どうしても長谷部の体が思い浮かんでしまう。驚くほど細く、乾燥した彼の体。

 俺は、思わず右肩を、あの日のように鷲掴む。どんなに、どんなに強く握っても、その頑健に膨らんだ肩はびくともしなかった。

「――くそッ」

 俺は吐き捨てるように言う。

 俺は思う。この右腕を取り外して、長谷部に与えることができたなら――そうしたらこの右腕が彼に栄養を与えて、病魔を追い払ってくれるに違いないのだ。

 シャワーのしずくが俺の額を絶え間なく流れ落ちていく。勢いよく流れ落ち排水溝に流れ込むその液体をじっと見つめる。

 俺はそのとき、ある一つの可能性に思い至った。


 玄関の扉を開けると、梨奈がいた。彼女は落ち着いた声で「お邪魔します」と言い、綺麗なウェーブのかかった髪をかきあげ耳にかけ、履いていたパンプスを脱ぐと、部屋に入ってきた。

「なんか、疲れた顔してる。何かあった? 大丈夫?」

 梨奈が自然な口調で俺を気遣う。俺は「大丈夫だよ」と答える。

「ところで、急に会いたいなんて、どうしたんだよ」

「うん、あのね……ちょっと、話があって」

「話?」

「うん」

「私たちの、これからについて」

 梨奈の顔を見れば、それが否定的な話ではないことはわかる。俺は梨奈をリビングのソファに座らせ、その前のスツールに、ミネラルウォーターの瓶とコップを置く。そして梨奈の隣に座った。普段なら梨奈をまっすぐ見つめているはずだったけど、俺はなぜか視線を合わせられず、スツールの下の方をぼんやり見つめていた。梨奈が話す。

「私たち、こういう関係になって長いけど――」

 梨奈は、少しいつもと違う俺の様子に、言葉を選び始めたようだった。俺は梨奈を見た。視線が合って、梨奈は安心したようだった。

「その、……もっと、先に進みたい」

「先」

「うん」

「……俺も、同じ気持ちだ」

 俺の言葉を聞いて、梨奈は安心したようだった。

「俺も、梨奈といると安心する。もっと一緒にいたいし、……いろんなことを、二人で経験していきたい」

「私も」

 梨奈が言う。

 俺は、念願だった梨奈との交際に至って、嬉しいはずだった。だが、心は一向に晴れなかった。

 梨奈には告げなければならないことがある。

「ごめん、今日ちょっと色々あって……少し、ナーバスになってるんだ」

「そう、なんだ」

「それで、俺も梨奈に話さなきゃならないことがある」

「? なに?」

 俺はスツールの上のコップを手に取って、ミネラルウォーターをぐいと煽った。

「梨奈……梨奈は、本当に俺のことを愛してくれてるんだな?」

 梨奈は話の展開が読めず戸惑いながらも、しっかり頷き返してくれる。

 俺は躊躇いながらも言った。

「梨奈は、……俺が野球ができなくなっても、愛してくれるか?」

「どうしたの、急に」

「真面目な話だ。俺が野球選手じゃなくなっても、梨奈は俺を愛してくれるか?」

 これは、賭けだった。

 あの日、あいつが俺にコインを投げたように、俺も賭けをしようと思ったのだ。

 だけど本当に困ったことに、俺はに賭けているのか自分でも分かっていなかった。

 どう言われたら、俺は計画を実行するのか。

 梨奈は、ひどく戸惑った様子だった。

 突然こんなことを言われても、困るのが普通だ。

 でも、即答してくれない梨奈にひどく裏切られた気持ちになった。それと同時に、それは当然の報いな気もした。だって俺は、どちらにも賭けていないのだから。だから、戻ってくる結果も、こんな半端なものなのだ。

 あのときコインを軽々とトスしたあいつに――俺は、敵わない。

 でももう中途半端は許されない。

 俺は意を決し、梨奈の両肩を掴んだ。そして言った。

「梨奈、聞いてくれ。俺の肩は、本当は壊れてるんだ。高校のとき、俺は、一度肩を故障した。それは、もうもとに戻らないくらいの故障だった。だけど、あるクラスメイトが、俺を助けてくれた。俺の肩に『魔法』をかけてくれたんだ」

「魔法……? 太輔、何言ってるの?」

「これは本当だ。信じられないかもしれないけど、俺の肩はあいつの『魔法』で治ったんだ。だけどそいつは今、死にそうになってる。俺はこの肩と引き換えに、そいつを助けなきゃいけないんだ!」

 俺は梨奈から手を離し、目を瞑って『その瞬間』を待った。

 魔法の終わり。

 俺の肩に、ちくりと痛みが走った。違和感のような小さな痛み。それはまるで、あのとき感じた最初の痛みみたいな――

「あああああああぁぁああぁぁぁぁああっっ!!!!」

 痛みは爆発するように膨らんで、俺の肩を一気に支配する。あの、あいつに魔法をもらった日からのすべての投球が、莫大な痛みとなって俺の肩に襲い掛かる。

「大丈夫!?」

 肩を抑えうずくまった俺に梨奈が走り寄る。歯を食いしばっても、よだれが垂れてしまうほどの痛みを俺は耐える。

 これは、

 耐えなくてはいけない痛みなのだ。

 これが、

 本当の――。

 俺は痛みに薄らぐ意識の中で、右肩の魔法が解けて離れていくのを感じる。

 だけど、その魔法はなくなるんじゃない――。

 彼はこう言ったのだ――『すべてが元通りになる』。

 その言葉が真実なら、魔法は消えるのではない。元に戻る、彼の元に戻るだけだ。

 そうだと信じている。

 それを信じることが大事なのだ。

 だけどお前はきっと、それをいらないと言うだろう。

 だけど、お前ならきっと、俺のやりたいことがわかるはず。

 お前があの日、俺のすべてを見透かしたみたいに、きっと、わかってくれるはずだ。

 俺は本当は、それくらい単純な人間なんだ。わかりやすいだろう?


 そして俺はあまりの痛みに意識を失う。

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