三
三/一
俺は、病院の最上フロア、個室の並ぶ階である扉の前に立っていた。
長谷部が、この中にいるという。
徳永から得た情報をもとに長谷部の実家に向かった俺は、そこで長谷部の母親に会った。
「俺、は……その、長谷部くんのクラスメイトだった、……斎藤太輔と言います」
玄関の扉を開け、俺を見つめる長谷部の母親。彼女は、俺の姿を見ても特に驚くこともなく、「中へどうぞ」と家の中へと俺を招いた。
彼女が俺をリビングのテーブルへと案内する。お茶を淹れるために立ち上がり、俺が持ってきた菓子の封を開けて皿の上に出した。
「私ひとりでは食べきれないので、一緒に食べましょう」
そう言う。俺と長谷部の母は一緒に
口の中がパサパサする。これを持ってきたのは失敗だったと思った。
お茶で口の中の残滓を流し込むと、俺は切り出した。
「あの……、今日はちょっと伺いたいことがありまして」
「はい、なんでしょう」
「長谷部は――駿くんは、今、どちらに」
その問いかけに対し、長谷部の母はしばらく残った最中を黙々と食べた。そして口を開くと、
「私、駿を出産するときに、死にかけたんです」
と言う。
「え、あの――」
話の展開が読めず戸惑っている俺を無視して、彼女は話し続ける。
「もともと体の丈夫な方ではなかったから、出産の負担に体が耐えきれなくて。……その、血が……すごく、出てしまって。私も、駿も、どちらも助からないかもしれないという状態でした」
「いや、それはその、なんていうか」
俺はどうしたらいいのかわからず困惑する。彼女は平然と話し続ける。
「そうしてましたらね、病室に、巡業帰りの夫が駆け込んできて、私に『魔法』を使ったんです」
「『魔法』、……」
その言葉に、反応しないわけにいかなかった。
『魔法』。それこそ、今俺がここにいる理由だからだ。
「マジシャンは、一回きりだけ、本当の魔法を使うことができる、って話。信じますか?」
「それ、は――」
どう答えたものか。下手に信じますと言ってもおかしいし、とはいえ否定するのも違う。考えあぐねた俺に、
「答えなくていいです」
あっさりと彼女は言う。そして、
「私は信じていません」
そう続けた。
「私と駿が助かったのは、単に現代医療のおかげです。もし」
彼女は一拍置いてから続けた。
「私が信じていたら、もしかしたら今頃はあの子を助けてあげられたのかもしれない。もっとも、私はマジシャンではないけれど。それでも」
「助ける?」
不穏なワードに俺は問いかける。
その言葉の意味は、今長谷部がどこにいるのかを聞いたあとでようやく理解した。
そして俺は、長谷部の母が教えてくれた病院に来ていた。
数度息を吸い込んで、扉を開ける。
がらんと広い一人部屋。奥の方に置かれたうすあざみ色のベッド。そこに、一人の青年が座っている。扉が開いたことに気付いたのか、窓の外を見ていた彼はこちらを振り向いた。
「……ほんとに来た」
彼は――呟くように、いや、囁くように言った。
病院着の袖から覗く異様に細い腕。そこに刺さった点滴の太い針。今までに何本も刺されているのか、黒い斑点が腕にいくつも浮かんでいた。骨の浮き出た手。その掌に、彼は何かを乗せていた。
百円玉だ。
それが、あの百円玉だとすぐに分かった。俺は、なぜだか無性に溢れ出しそうになる涙を堪えるように、わざと一度大きく息を吐いた。
「……ありがとう、来てくれて」
「座るぞ」
俺はそれだけ言い、ベッドサイドに座った。長谷部は、こちらを微笑みながら見つめている。俺はしっかりとそれを見返した。視線を逸らしてはいけなかった。
長谷部は掠れた声で言った。
「斎藤くん、ありがとう」
「……何、がだよ」
長谷部はまっすぐこちらを見つめている。目の下がこけて隈ができている。唇が栄養が足りずカサカサになっている。そんな唇から、彼は声を絞り出した。
「君は、予想以上だった。僕の想像よりも遥か先に、君は羽ばたいた」
彼の喉仏の浮き出た喉が、一度大きく動いた。そして再び口を開いた。
「君に魔法をあげて、本当に良かった」
それを聞いて俺は、報われた気がした。
そのとき初めて、俺はずっと自分の努力を、誰よりもこいつに認めて欲しかったのだと気づいた。
俺はなぜ努力してきたのか。
それがわかった。
俺は、ゆっくりと手を伸ばし、長谷部の手を百円玉ごと握った。本当は強く握りたかったが、それは折れてしまいそうなほど細かった。
長谷部は言った。
「僕は、君のことが好きだったんだと思う」
そう言われることを、俺はなんとなく理解していた。
「君は僕の希望だ。約束を守ってくれて、どうもありがとう」
疲れてるんだ、少し眠らせてくれないかな――そう呟くと、彼は枕に頭を預けた。
目を瞑った彼からそっと手を離すと、俺は病室を静かにあとにした。
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