赤く腫れ上がった俺の肩を、包帯がぐるぐると包んでいる。

 右手の指先を動かそうと試みても、そこは全く反応を返してくれることはない。俺は肩どころか、右手の機能を完全に喪ってしまった。

 病室の扉が開いて、梨奈が入ってくる。手には、果物の入ったカゴを持っている。

「いいのか、見舞いなんて来て。マスコミがうようよいるぞ」

 左手で読んでいたスポーツ新聞をベッドサイドに投げる。そこにはでかでかとゴシック体で『復帰は絶望的か』とか、『引退間近』という文字が踊っている。梨奈はそれに一瞥をくれると、

「いいの。もう、隠すことも何も無いでしょ」

 そう言った。

 私たち、付き合ってるんだから――という言葉は、発されることはなかった。

 わざとそのスポーツ新聞の上に果物を置いて、梨奈はスツールに腰掛けた。カゴを覗き込んで、手頃なサイズのリンゴを手に取ると、どこから取り出したのか小型の包丁でそれを切り分けた。

 ちらりと俺の右手に視線を向けたのがわかる。

「……感覚が、ないんだ」

 俺はぽつりと言った。

「そう、なんだ」

 梨奈はリンゴを剥きながら答える。俺は、器用に両手を動かして四つ切りにしたリンゴの皮を剥く梨奈を見ている。リンゴは綺麗な黄色い身を晒されて、白い皿の上に並べられた。

「どうぞ」

「ありがとう」

 俺は、左手を伸ばしてそれを手に取る。濃密な味がする。高いリンゴだろう。二つ目、三つ目と手を伸ばし――梨奈が一つ食べたので皿が空になったところで、彼女が言った。

「あの日の話」

 俺は、どきりとした。

「本当なんだね」

 彼女は次のリンゴに手を伸ばし、それを剥きながら言う。

「私は信じるよ」

 彼女が信じてくれたから、あの日のあの行動は意味を持ったのだろうと思う。だから俺が彼女を選んだのは、やはり正解だったのだ。

「ごめんな、俺――」

「大丈夫」

 彼女が首を振った。

「大丈夫」

 自分自身に言い聞かせるように、彼女は繰り返した。

 沈黙がしばらく続いて、彼女は「仕事があるから。また来るね」と言い残し部屋を去った。

 俺のスマートフォンはずっと沈黙している。電源から切っているのだから当たり前だ。本当は点けておきたかったけれど――あまりにノイズが多いので、諦めた。

 ぼんやりと窓の外の色が移ろっていくのを見ている。青から橙、そして紺。

 面会時間も終わり夜になった。立ち上がって窓のそばへ行き、街灯りを見下ろしていると、扉が開いた。看護師か誰かが入ってきたのだろう――そう思って見つめていた窓に、の姿が反射していた。俺は振り向く。

「来たのか」

 そのとき、俺はうまく笑えただろうか?

 長谷部は、だいぶ調子が良さそうに見えた。顔色もよく、肌も健康的で、何よりしっかり地面に立っている。

 ちゃんと生きている、と思った。

 俺は安心した。

「よくここまで来れたな」

「女の人が手伝ってくれた」

 長谷部はまるで拗ねた子供のような声色で言う。梨奈の顔が浮かんだ。

 長谷部は昼間に梨奈が座っていたベッドサイドのスツールに座った。

 そして、何も言わなかった。俺を問い詰めたり責めたり、逆に、感謝するようなことも。

 ずっと黙っていた。

 俺はベッドに戻った。

 そして、長谷部はぽつりと言った。

「右手は?」

 俺は答える。

「感覚がない」

 俺がそれだけ言うと、彼は目をぎゅっとつむった。まるで何かの痛みに耐えるような顔だ。

「壊れた肩を十数年酷使したんだ、当たり前だろ」

「でも……これじゃ、僕は……僕は……」

 誰も助けられない。

 呟くように漏れた言葉は、ふっと空気の中に消えた。

 俺は左手を長谷部に伸ばし、その膝の上に置かれた細っこい手を掴んだ。

「お前は俺を助けたよ」

「でも」言いながら俺の包帯で巻かれた右肩を見つめる。

「でも……」

 俺は長谷部を見つめて首を振った。

「もう十分だ」

 俺は笑って言う。

「百円でこんなもらったら、いくらなんでももらいすぎだ」

 長谷部は驚いた顔をした。

「覚えててくれたんだ」

「忘れるわけないだろ」

 長谷部の手をぐいと引き寄せて、そのまま左手だけで彼を抱きしめた。

「ありがとう、本当に」

 長谷部は恐々と俺を抱き返すと、声を上げて泣いた。俺は左手で長谷部の頭を撫で、あやすようにぽんぽんとたたく。

「泣くなよ」

 俺が言っても、長谷部の目から涙が溢れ出し、ぼろぼろとベッドのシーツにシミを作った。

「僕は……父さんみたいに……」

「お前と、お前の母親を救ったっていう魔法の話か?」

 長谷部は驚いてこちらを見た。

「知ってるの?」

 驚きで涙が引っ込んだようだった。彼は真っ赤に腫れた目でこちらを見た。

「ああ、お前の実家に言ってお前の母親に会ったよ。その時聞いた」

「そうなんだ」

「お前の父親がなんて言ったかはしらないけど――お前はもっとお前を大切にしないとダメだ」

「でも、僕は君が」

「俺が、なんだって言うんだよ。俺なんて、お前の連絡先も知らなかったんだ。お前が俺のことを好きだとか、俺のことを大切だって思うんだったら、そう思って魔法を使ったんだったら、もっと俺に会いに来いよ。もっと俺に会って、押し付けがましく恩を売れよ。お前がプロになれたのは、世界一になれたのは俺のおかげだぞって、もっと得意げに俺に言えよ。たった一回きりの魔法を俺に使ったんだろ? お前にはその権利がある。お前はもっと、……もっと……」

 それ以上を言葉にできず、俺の視界が淡く滲んだ。

「俺はお前に、お礼もちゃんと言わなかったのに」

 俺はなんとか鼻を啜り、涙を奥へと押し込んだ。

「だから、魔法は返した。もう、返却期限もとっくに過ぎてて、悪かった」

「斎藤、くん」

 長谷部は言った。困ったような笑顔で。

「ありがとう」

「なんでお前がお礼を言うんだよ。おかしいだろ。ほんとに、だから、お前は……」

 長谷部を見つめる俺の目から、耐えきれず涙が一滴溢れ出した――頬をぬるく流れ落ちたそれを追いかけるようにしずくが何滴も何滴もこぼれ落ちて、顎からぽたぽたと滴った。

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