二/二

 父は言った。

「魔法っていうのは、つまり契約なんだ」

「相手と自分との間で交わされる約束だ」

「しかもそれは、ずっと続く」

「その約束を一生守ってくれる相手を、見つけなさい」

「大丈夫――お前ならできる」

 僕には自信があった。彼なら、きっと大丈夫。

 だって彼は、なのだから。

 ……そうは思ったものの、僕は彼と接点がなかった。幸いにしてか、クラス替えによって今は同じクラスに所属していたものの、話したこともほとんどない。僕のことを認知しているかも怪しいレベルだった。

 とはいえ、いきなり話しかけても失敗に終わるだろう。「ねえ、君に魔法をかけてあげるよ」、なんてろくに話したことのない同級生が急に言ってきたら、笑い話を通り越してホラーでしかない。

 しかし、僕は特に行動を起こさなかった。

 それは、一種確信めいた思いがあったからだった――絶対に、彼は僕のもとへやってくる。なぜそう思ったのか、そのときはわからなかった。

 誰もいなくなった夜の教室で、僕は奇術部員として一人研鑽を重ねていた。ガラスに映った自分の姿を逐一確認しながら、マジックの練習をする。相手の注意を違う方向に逸らす自然な動き。なめらかで流れるように手の内のタネを処理する動き。マジックは奥深かった。

 そのとき突然、教室の扉が大きな音を立てて引かれた。

 僕は驚くと同時に、、と思った。

 ――果たして、彼はそこにいた。

 彼は、先客がいたことに驚いているようだった。恐らく、行く場所がなくなって教室に来たのだろう。そのときの自分には、なぜか彼の行動が手に取るようにわかった。そしてそれが嫌だった――彼はもっと、超然たる存在でなければならないのだから。簡単に行動や思考が読めるような存在ではいけない。

 そんなことを思いながら、僕は彼と自然に、とても自然に会話を運んだ。

「僕のマジックは高いんだ」

 僕がそう虚勢を張っても(そう、それは間違いなく虚勢だった)、彼は僕のことを馬鹿にしなかった。そして彼は、僕に百円を支払った。

 百円。

「これだけ?」

 そう言いながら、僕は本当はそう思っていなかった。わずかであれ、彼が僕に金銭を支払ったという事実。その事実だけで、十分だった。

 僕は決めた。

 彼に、僕の一度きりをあげよう。

 あんなに信じていなかったのに、いつの間にか僕はその『魔法』の存在を疑っていなかった。

 僕には魔法が使える。たった一度きりの魔法が。

 僕はそれを、彼に使うんだ。

 彼を助ける。

「本物の奇術師――マジシャンはね、人生で一回だけを使うことができる」

「本当の、マジック……」

 彼は僕の話を笑わなかった。

 彼はそれほどまでに、何かに追い立てられていたのかもしれなかった。彼自身の中に、その馬鹿げた話に縋ってしまうような何かが育っていた。

 いや、そうではないのかもしれない。彼はここで、この話を笑い飛ばすような人間ではないのだ。彼は、いつだって真剣に人と向き合っている。そういう人間だった。

 だから僕は彼を選んだ。そして魔法のことを話した。その時点で、未来は決まっていた。もう、契約は交わされてしまったのだ。

 それでも僕は、彼が手渡した百円をトスすることに決めた。

 それは、最後の賭けだった。

 会話の流れで、どちらが出ても正解へと誘導することはできる。表が出ても、裏が出ても『魔法』を使うように仕向けるのは、簡単だった。これはマジックの基礎的なテクニックでもある。だけど、そのとき僕は決めていた。仮に裏が出たら――僕は魔法を使わない。

 僕はコインを打ち上げる。

 本当は、コイントスの結果なんて、見る前からわかっていた。

 だって彼は、ここで絶対に側の人間なのだ。

 だからこそ――僕は彼に惹かれているんだろう?

 案の定、コインは花を咲かせていた。

 僕は言った。

「おめでとう、きみに魔法をかけてあげる」


 それは、彼に人生で一番接近するとき。彼の逞しい肩、神聖な肩に触れることができる唯一のとき。

 僕は、つんと彼の肩をつついた。

 瞬間、僕の中から何かがふっと抜けていく感覚があった。

 終わった。

 終わったのだ。

「おしまい」

 名残惜しさを感じながら言う。

 彼は何か別のことに感謝するように、

「ありがとう、おかげで俺は」

 その言葉を遮って僕は言う。

「誰にも」

 真剣な顔で。

「――誰にも言っちゃ駄目だ」

 僕はそれを告げると、足早に教室をあとにした。

 僕の役目は終わったのだ。彼の人生の中に、間違いみたいに紛れ込んだ僕との接触はこれで終わりだ。

 あとは、彼は彼の人生を送ればいい。

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