二/一

 父親が死んだのは、僕が小学校三年生のときだった。

 マジシャンだった父が地方巡業に向かう車が、交通事故に遭って大破したのだ。母親があまりにもむごいからと止めたので、僕は父親の遺体を確認することができなかった。母親を恨んでいるわけではないが、僕がしばらくの間父が死んだことをちゃんと実感できなかったのは、きっとそのせいもあると思う。

 父はまるで魔法のように僕の前からぱっと消えてしまった。

 父が僕に話した、『魔法』のことをよく覚えている。人生で一度だけ使うことができるという魔法の話。

「お前の母さんはな、お前を産むときにすごく危ない状態になったんだ」

「危ない?」

「母さんも、お前も、死にそうだったんだ」

 その話は、幼い僕には十分すぎるほど怖い話だった。自分も母も死んでしまいそうだったなんて聞かされたら、子どもの僕が怯えるのも無理はない。父は僕の目の中の怯えを敏感に感じ取ったのか、わざとおどけるように言った。

「大丈夫、大丈夫――だって今、お前はこうして生きているだろう?」

 そう言い、僕の手をぎゅっと握る。父親の大きく暖かな手が心強かった。父は手を握ったまま続けた。

「そう、とにかくピンチだった。このままじゃお前も母さんも死んでしまう――だから俺は、『魔法』を使った」

「『魔法』?」

「そう、魔法だ」

 父はにかっと歯を見せて笑った。

「マジシャンが一回だけ使うことのできる、タネも仕掛けもない本物のマジック。それが魔法」

「すごい!」

 幼い僕は、父の話に興奮した。そんな僕のリアクションを見て、

「父ちゃんは賢いんだ。一度の魔法で、二人を救ったんだからな。二倍の効果だ」

 父は得意げだった。

「だからお前は、奇蹟の子だ」

 父はそのとき、奇蹟と言う言葉を使った。

使

 父は僕の頭を撫でた。

「お前にも、その魔法を使う力がある。お前はそれを、大事な人に使いなさい」

 そして、父は消えた。

 母は、魔法のことを口にしたことはない。母はそれを聞いていないのか、それとも信じていないのか。おそらく後者だろうと思っていた。

 僕も多分、本心では信じていなかったと思う。幼いながらに、父が僕を楽しませようと作り話をしたのだと思っていた。父は芯からのエンターテイナーであり、人を驚かせることが大好きだったからだ。

 だからその魔法の話は、まるで父の置き土産のようで――僕には、大切な宝物だった。


 中学校にあがり、僕はマジックの練習を始めた。母親は、あまりそれを喜ばなかった。多分、自分に父の影を見ることが辛かったのだったのだろうと今ならわかる。母はきっと、誰よりも父の死を悼んでいたのだ。だけどその時の僕は母の気持ちもわからなかったし、父が本当に死んだこともしっかりと自分の中で消化できていなかったので、もしかすると母は父のことを全然愛していなかったのかもしれない、などと悩んだこともあった。

「考えすぎだろ」

 クラスメイトの徳永泰明が、顎にできたニキビを潰しながら言った。

「潰すなよ、あとになるぞ」

「大丈夫だよ、俺、肌強いから」

 本当に肌が強ければニキビなんてできないんじゃないか? と思ったが、黙っていた。

「ま、お前はなんでも考えすぎだよ」

 ニキビを潰してでてきた汁を制服で拭う徳永。僕が続きを言おうとすると、徳永は同じ野球部の部員に呼び出されて席を立った。

 一人になった僕は仕方なく席につく。頬杖をついて、教室をぼんやり見回した。

 昨日のテレビの話をするクラスメイトたち。扉の向こうに、野球部員が体をこづいてじゃれあっているのが見える。ひどく楽しそうな風景のなか、僕は退屈に肘をついている。

 人生の目標だとか、夢だとか、そういったものが僕にはなかった。

 父親が急死したのも、きっとその一因だろう。僕は、人生がいつか唐突に、パチンと終わってしまうという気がしてならなかった。

 シャボン玉が弾けるように?

 ブレーカーが突然落ちるように?

 とにかく、人生は急に終わってしまう。そしてそれきり。幕が閉じれば、もうそこから続きはない。

 人生がつまらなかったわけではなかったけれど、特段楽しいものだとも思わなかった。

 急に終わってしまうかもしれないものを、どうやって楽しめば良いというのだろう?

 そして僕は高校に入学した。

 風の噂で、どうやらすごい野球プレーヤーが同じ学年にいるらしいと聞いた。他にも、彼にまつわるいろいろな伝説みたいなものも。それのどこまでが本当だったのか今となればわからない。

 でも、多くの同級生がそうしていたように、僕は二つ隣のクラスの教室の前をそれとなく通る振りをして、彼のことを確認しに行った。

 斎藤太輔は、そこにいた。

 学校のヒーローみたいな存在。

 当たり前のようにそこに――手を伸ばせば届く距離にいる。

 それが不思議だと僕は思った。

 学校というのは、狭くて広い空間だ。彼を通じて、僕は世界の広さを知った。

 彼は、噂通り特別な人間だった。

 恵まれた長身にしっかりと筋肉をまとい、綺麗に日焼けした肌。快活な顔つき。その見た目もさることながら、強豪校の野球部にも関わらず一年次からベンチ入りし、その実力も遺憾無く発揮していた。彼が今後野球部の中心人物になっていくことは間違いないだろうと思われた。そしてその先に待っている人生のことも、まことしやかに周囲は語った。彼ほど体格と才能に恵まれた人間は滅多にいない。彼はプロになるだろう。彼はそして、特別な存在になっていくだろう……。

 そして彼は、自分が特別な人間であることも、特別な人生をこれから歩んでいくことも、しっかり理解しているように見えた。とはいえそれは、彼がお高くとまっているということではない。彼は受け入れているのだ――自分に与えられた宿みたいなものを。

 彼はよく笑い、人柄もよく、周囲からの人望も厚かった。

 僕は、彼は女の子にさぞモテるのだろうと思った。女子があんな存在を放っておくはずがない。

 しかし意外にも、彼は独り身だったし、彼にアタックする女子はほとんどいないとのことだった。

 しかしバレンタインに、名前の書かれていないチョコレートを大量にもらい部員に配っている彼を見て、僕は世の中の仕組みを改めて理解した――つまり女子も、彼のあまりの眩しさに耐えられないのだ。彼の近くにいる自分を、隣に並ぶ自分を想像できない。彼はそれほどまでに特別だった。

 だから彼が肩を痛めたと噂で聞いた時、僕は心が痛んだ。彼の中に与えられていたあの宿命が、かたちを変えようとしていると分かったから。

 彼はどうなってしまうだろう。

 あの輝かしいレールの向こうにいたはずの彼は、いなくなってしまうのだろうか。

 そのとき、僕はあの『魔法』のことを思い出した。

 僕自身が半分以上は信じていなかったあの『魔法』のこと。

 もしそれが本当に本当だったなら――僕は、『彼』を取り戻せる。

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