一/三

「お疲れ様」

 そう言い、梨奈に毛布をかける。

「どうだった?」

 意地悪く聞くと、梨奈は恥じらって笑って、もう、と俺の肩を叩いた。

「商売道具だからな、大事にしろよ」

 俺はそう言いながらわざと痛そうに肩をさする。

 ドラフト一位、とはいかなかったがとある球団に指名をされ、俺はプロ入りした。最初はあまり積極的に登板されなかったが、出た試合で堅実な働きをする俺の腕は徐々に評価され、今では先発投手も頻繁に務めている。

 女子アナウンサーの梨奈と取材をきっかけに知り合い、時折体の関係を持つに至っているが、俺たちは付き合っているわけではなかった。体の相性も、おそらくそれ以外の相性も悪くないはずだったが、俺たちは関係を深めずにいた。浅いところから海底を見下ろす回遊魚みたいに、ぐるぐると同じところを回っている。

 徐々にチームの顔になった俺に、自然と女性が寄り付くようになった。梨奈以外にも、同じような関係になった女性はこれまでもいた。

 しかし彼女たちとセックスをしながら、真剣に交際する気にはなれなかった。

 そんな中でも梨奈は、例外的に相性が良いと思える女性だった。

 自立し、聡明で(頭はきっと俺よりも全然良い)、嫌味のない梨奈。

 梨奈の家で、梨奈とセックスをした俺は、ずっと一緒にいられたら、と思う。梨奈もきっとそれを望んでいると感じている。俺は寝転がる梨奈に声をかけようとする。

「なあ、そろそろ俺たち――」

 だけど、それは声になることもなく、俺の中の何かがブレーキをかけてしまう。梨奈もそれを察しているから、それ以上に踏み込んでこない。彼女が自分から「ねえ、私たち付き合ってみない?」そう言ってくれれば、俺は迷わずオーケーするのに。

「シャワー、浴びてくるね」

 梨奈がベッドから立った。白く綺麗なかたちの背中を見送りながら、俺は脇に落ちたコンドームを拾いあげる。シャワールームから水音が鳴り始める。それはまるでヒーリングミュージックのように俺のこころを落ち着かせる。

 コンドームの中に溜まった精液をぼんやり見つめながら、俺は物思いに耽った。

 長谷部と交わした、あの一度きりの会話を思い出す。

 時折、俺の心はあの教室へと一気に飛翔する。試合中、セックス中、マッサージ中、トレーニング中。ふとした瞬間に、その空間はぱっと広がって俺のこころをまるまると飲み込む。もう、俺もそれに慣れてしまって、また来たかと思うだけだ。

 あのもう外が暗くなった校舎で、あいつが手の中から花を出す。

 そして言う。

「何もない手の中から突然花が現れることを、『それだけ』で片付けないでほしいね」

 そうだ、確かに俺はあのとき、百円を払ってマジックを見た。

 そして、「それだけ?」と言ったんだ。

 その後あいつは、俺に魔法をかけた。

 俺の肩の痛みが一瞬で消える、手品みたいな魔法を……。

 俺はコンドームをゴミ箱に投げた。そしてベッドに寝転がる。

 梨奈の使っているアロマのにおいのする部屋。

 誰かも、もしかするとあの魔法を『それだけ?』と片付けるのかもしれなかった。

 一人の高校生の、痛めた肩の痛みをとっただけ。

 ――それだけ?

 ――それのどこが魔法なの?

 俺は、そう言われたくなかったのかもしれない。

 あいつが、本当にたった一度きりの魔法を俺にくれたなら。

 俺はその魔法を、本当のにしなくちゃいけない。

 俺は体を起こした。「そうか……」と声が漏れる。ちょうどその時、扉が開いて梨奈がバスルームから出てきた。

「お待たせ。どうぞ」


 ヒーローインタビューのブースで、梨奈が俺を待っていた。俺に取材をするため、俺からコメントを得るためだ。オンの時の梨奈を見るのは好きだ。梨奈の裸を俺は知っている、どこにほくろがあって、どこを触られると敏感に反応して、どんなにおいがするのか、俺は全部知っている、そう思えるから。でも今日の俺は、そんな下衆なことを考えることもないくらいに脳内麻薬がどぱどぱと分泌されていた。

「斎藤選手、世界一おめでとうございます」

 梨奈が言い、マイクを俺に突き出す。

 世界一? そうか、世界一か。

「ありがとうございます。本当に嬉しいです」

 まばゆいフラッシュライトが降り注いで、俺の視界を明滅させる。眩しい、眩しい。

 興奮か、その余韻か、とにかく体の芯がじゅわっと熱くなって、汗が自然と流れ出すみたいだ。

 俺と梨奈は、選手とインタビュアーとして、いくらかのインタビューをした。

 俺は興奮に上の空のまま、その質問に答えていく。

 そして梨奈が俺に尋ねた。

「斎藤選手は、この喜びをまず誰に伝えたいですか?」

 あとになって思う。――梨奈はなぜこんなことを俺に聞いたのだろう?

 いや、しかしこんなのはよくある質問だ。おそらく梨奈に他意はない。

 だって梨奈は何も知らないのだ。なぜならば俺は、誰にもあのことは話していないのだから。

 とにかくそのときの俺の頭によぎったのは、両親でも、梨奈でも、チームメイトでも、高校の恩師でもなく、――あいつの顔だった。

 カメラマンがファインダーを覗き込む目を離して、俺を直接見つめた。怪訝な顔をしていた。

「斎藤選手?」

 梨奈が俺の顔を覗き込む。梨奈も、同じ表情だった。

 よっぽど俺は奇妙な表情をしていたのだろう。

 俺は自分の顔に張り付いた動揺を無理矢理に引き剥がして、なんとか普通の表情を貼り付けると、

「そうですね、……やっぱり、まずは、両親に」

 とだけ答えた。

「そうですか。では、お父さま、お母さまにコメントをぜひ」

 梨奈が、何事もなかったかのように進行する。

 俺は母親と父親への感謝の言葉を並べながら、再び長谷部に会うことを決意する。

 それがどういう意味を持つものであれ、それは俺の人生に必要なことなのだ。


 しかし、俺は長谷部の連絡先も何も知らなかった。

 現代人の鉄則として、まず名前を検索サイトに入力した。――ノーヒット。

 SNSの類も何一つ引っ掛からなかった。

 俺は優勝の報告をしに数年ぶりに実家へ帰り、家の中を荒らして卒業アルバムを探した。もしかしたら、そこに長谷部なんていないのかもしれない、と少し思った。しかし実際には長谷部は、なんだか退屈そうな顔をした写真でちゃんと載っており、それを見た俺はひどく安心した。

 俺はそのアルバムを隅々まで確認すると、ある人物に連絡をとった。

「久しぶり」

 待ち合わせ場所にやってきた保は、ずいぶんと前と変わっていた。

 体は前と変わらず大きかったが、意味が違った。むかしは逞しい、筋肉質な体型だったが、今はどっしりと体重が増し、腹は出て、ワイシャツのボタンがぱつんぱつんだ。

 それでも彼は、底抜けに幸せそうだった。

「結婚式以来か」

 左手の薬指には、綺麗な指輪が輝いている。

「お前から連絡してくるとは思わなかったよ。今や大スターだもんな、俺のことなんてもう忘れてるかと……」

「馬鹿言うな。お前のことを忘れるわけないだろ」

 予約したレストランに向かいながら、俺たちは世間話をした。保はいつの間にか二人目の子どもができ(男の子だそうだ)、毎日忙しく過ごしているという。

 俺は確信をつかないまま、レストランにつき、イタリアンを食べ、デザートが運ばれてくるのを待っていた。

「で、何か用事があったんだろう?」

 その段になって、痺れを切らしたのか保が言った。なんでもこいつはお見通しなのだ。

「長谷部を、覚えているか」

 長谷部、と口に出すと、不思議な感覚がした。それがあいつのことを指しているのだ、と確かに感じると同時に、それが本当にあいつの名前だろうかという気もしたのだ。

「長谷部……?」

 保が怪訝な顔をする。

 卒業アルバムによれば、長谷部は三年次に保と同じクラスになっているはずだった。

 そう説明すると、

「あんまり、記憶にないな。そんな名前のやつがいたのは、なんとなく覚えてるんだが……」

 俺は、持ってきていた卒業アルバムを取り出し保に見せた。

「ほら、ここに写っている、こいつだよ」

 集合写真。同じクラスの一枚の写真の中に収まっている長谷部と保。薄暗いレストランの店内、保はアルバムを受け取るとじっと長谷部のあたりを見つめていた。そして、

「あぁ、あぁ、そういえばいたなあ。思い出してきた。でも、悪い。ほとんど喋ったこともないな」

 保は言う。

「連絡先とかは……」

「いや、多分知らない」

 俺の落胆が顔に出ていたのか、すぐに保は、

「そしたら、野球部のやつらに連絡をとって、何か知らないか探ってみるよ」

 と言う。こういうところが、やはり頼りになる。

 と同時に、おそらく野球部のメンバーは今でもそれなりに連絡を取り合っているのだとわかった。自分にはそういう連絡がほぼないので、一種の疎外感も同時に感じた。

「そうは言っても――俺たちの気持ちも、お前ならわかるだろう?」

 保がフォローするように言う。そう、そうだ。それはきっと仕方のないことなのだろうと思う。

 何か進展があったら連絡するよ、そう告げた保と俺は別れた。


 ――それからしばらく、俺はどことなく落ち着かない気持ちで日々を過ごしていた。

 しかし、保からの連絡はしばらく無かった。

 滲み出した諦めが溢れだし、俺の心を黒く塗りつぶし始めた矢先、保からメッセージが届いた。

『連絡遅くなった。どうやら、徳永が小中と一緒だったらしい』

 徳永。万年補欠だった部員の一人だ。だけれど腐らずずっと野球に打ち込んでいて、剽軽な性格の憎めないやつ。

 彼の現在の連絡先がメッセージには記されていた。俺は早速そこにメッセージを送る。

 徳永は実家の親に連絡をし、当時の名簿などを探してもらったらしい。今より個人情報の取り扱いの緩かった時代だ、ご丁寧なことに住所も電話番号も明らかになったという。

「住所、あとで送る」

 電話口で徳永は言う。

「ありがとう、助かる」

「それでさぁ」

「?」

「今度、女子アナとの飲み会でもセッティングしてくれよぉー」

 ぐっと俺が言葉に詰まっていると、

「……なんてな、冗談、冗談! 久しぶりに話せて楽しかったよ。今度またみんなで集まろうぜ」

 ――電話が切れると、すぐに住所が送られてきた。

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