一/二
俺は、帰りの電車をホームで待っていた。
携帯電話も触らずに、じっと前を見つめながら。
はたから見れば、向かいのホームのサラリーマンを睨みつけているようにも見えたかもしれない。
変だ。
肩が変だ。
痛くない。
俺はわざと、右肩を左手で鷲掴む。ぎちっと血管が浮き出るくらい強く握っても、そこは掴まれた痛さがあるだけだ。あの、何かが軋んでいるような嫌な痛みは――どこにもなかった。
教室での出来事を思い出す。人差し指であいつは、とん、と一度肩をつついた。
「おしまい」
俺は思わず笑ってしまう。こんなことで肩が治ったら、本当に魔法じゃないか。変な空気に飲まれて馬鹿な空想に耽った自分が情けなくなる。どうやら俺は随分参っていたようだ。それを自覚させてくれただけ、こいつには感謝しなきゃいけない。
「ありがとう、おかげで俺は」
俺の言葉を長谷部は遮った。
「誰にも」
真剣な顔で。
「誰にも言っちゃ駄目だ」
その顔を見て、俺は唾液を飲み込む。
「魔法とは、秘されるべきもの――本当の魔法は、表に出てきてはいけないんだ。だから、誰にも話しちゃいけない。話したら、全てが元に戻ってしまう」
「もと、に……」
「そう。そういうことで、よろしく。じゃ」
今までの表情が嘘だったかのように長谷部はにこっと笑うと、手をひらひらと振って教室を出て行った。
「あ、おい――」
思わず呼びかけようと右手を上げて、俺は驚いた。すっと俺の右手が上がったからだ。
その一連の流れを思い出しながら、駅のホームで右手を握ったり開いたりして、それをじっと見下ろしていた。
「
後ろから声をかけられて、びくっと身をすくめる。
「なんだよそんな驚いて。大丈夫か?」
振り向くと、
「偶然だな」
保は嬉しさを隠さずに言った。こいつのこういうナチュラルに人たらしなところが、キャプテンとしてうまくやっている秘訣なのだろう。
「ずいぶん遅かったんだな」
「そっちこそ。仕事か?」
「うん、メニュー組んでた」
電車が来たので二人で乗り込む。
俺は黙っていたが、保はよく喋った。部活の最近の一年の成長についてだとか、俺が休んでいる間に練習に組み込んだ新しいメニューについてだとか。しばらく話してから俺がずっと黙っているのに気がつくと、一瞬気まずそうな顔をして、保は話す内容を授業の話や先生の悪口に変えた。そして保が自分の好きな女子の話を始めたとき、
「なあ、保」
「ん?」
保の顔から、心配という感情がフィルターから隠し切れず滲み出ていた。見慣れた表情。惨めになる表情。
だけどもう、それを気にしなくていいんだ。
「俺、明日から部活出るわ」
「え? だってお前、肩――」
「治った」
その時、ちょうど電車が俺の最寄り駅に着いた。
え? え? という顔をする保を置いて、俺は電車を降りた。
さすがに翌日から復帰、というわけにはいかなかった。
監督が納得しなかったのだ。
再び病院に行き検査を受け、問題ないという診断書をもらってようやく、俺は部活に復帰した。
医者も、不思議そうな顔をしていた。その表情を見て、俺は本当にレールを喪っていたのだと理解する。だけど今、俺の目の前にはまっすぐそれが伸びている。
俺が放った玉が一直線にきゃっチャーミットへと吸い込まれていく。
「ナイピー!」
部員の声が聞こえる。俺は右肩をくるくると回す。大丈夫、本当に大丈夫だ。俺自身があっけなく思うほど、肩はあっさりと治ってしまった。
だけどそれは――。
俺の脳裏にあいつの顔が浮かぶ。
魔法。
――魔法?
まさか。
そんな馬鹿な話、あるわけない。そんなことを信じるより、あの医者がヤブだったと考える方がよっぽどリアリティがある。
だけど俺はそうとも断言できなくて、あいつが言った『誰にも言っちゃ駄目だ』という言葉を律儀にちゃんと守っていた。かと言って俺は、心の中で本当に『魔法』をかけられたのだなんて信じていなかった、と思う。
だって、仮に、長谷部の話はすべて真実だったとして、――つまりあれが『魔法』だったとして――俺にはわからないことがあった。
あいつはなぜ、その一度きりの魔法を俺に使ったのだろう?
夏の大会までには、なんとか体を調整できそうだった。俺は今まで以上により深く野球に打ち込んで、のめり込んで、追い込んでいった。外側だけじゃない、自分の中から湧き上がるノイズも振り払うように、俺は野球漬けの日々を送った。
そして迎えた夏の大会――。
俺はマウンドに立ち、額を伝う汗を袖口で拭った。
決勝。出塁なし。九回ツーアウト。間も無く、優勝が手に入る。極限の緊張状態の中、保が出したサインはストレート。俺は首を振らなかった。ここで首を振ったら、俺は自分をずっと責めるだろう。正面から討ち取る。そう決意し、俺は振りかぶった。
そして、投げる。
スパン、と音がしてミットにボールは吸い込まれた。バッターは力強く振ったが、俺のボールを捕らえることはできなかった。
会場の歓声が爆発するように膨らんで、ベンチから部員たちが駆け出してくる。
そうやって、俺の夏は終わった。
夏休み明けの集会で、俺たちの優勝は讃えられ、優勝旗が学校の入り口に大きく置かれた。それを部員たちと眺めていると、――長谷部が俺の横を通り過ぎた。俺は、誰にも見せないで済むくらいに小さく、小さく、動揺した。
長谷部はすべてを知っているから。
すぐ、それはおかしいと思った。それではまるで、何か俺が不正を働いたみたいではないか。俺は何一つ悪いことはしていない。何も後ろ暗いことなんてない。目の前の優勝旗を見る。俺は努力して、努力して、努力してこれを勝ち取ったのだ。何一つ、俺は恥ずかしいことなんてない。
長谷部も、別に俺のことを責めてきたりもしないし、何事もないように俺の横を通り過ぎただけだった。
あの日から、長谷部と話すことは一度もなかった。
俺と長谷部は同じ教室で同じ授業を受けながら、全く交流を持たなかった。
今まで通り。お互いにただのクラスメイト。
なぜだろう?
俺は、怖かったのかもしれない。
長谷部が怖かったのか、魔法が怖かったのか、それが壊れるのが怖かったのか、わからない。
だから視線の端に長谷部を捉えても、俺はそれをすぐに引き剥がした。長谷部が指先で百円玉をくるくる弄んで何かの練習をしているのを見ても、声をかけたりはしなかった。
そのままクラス替えがあり、俺たちは三年になって、長谷部とはクラスが離れた。だから優勝旗を前に長谷部が俺に近づいてきたのは、本当に久しぶりの接近だったのだ。
俺は長谷部が十分に通り過ぎたタイミングを見計らって、ちらりとそちらの方を見た。
長谷部は振り返ることもなく、その背中は階段を登って間も無く見えなくなるところだった。
それ以降、俺と長谷部の間には、もう本当に接点は無かった。そのまま俺たちは高校を卒業した。
それきり、それきりだ。
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