手品もしくは魔法
数田朗
一
一/一
一日練習をサボると、とりかえすのに一週間かかるぞ。
コーチはそう言っていつも俺たちを脅していた。だったらこの怪我の分を取り返す頃には、もう俺はこの高校をとっくに卒業しているだろう。
「今はとにかくゆっくり休め」
なんて、コーチは同じ口で言う。ゆっくり休んでる時間なんてないといつも言ってるのはあなたじゃないですか。しかしそんなことを言ったところで俺の肩の故障が治るわけでもないから、もちろん俺は黙っている。
部活は見学してもしなくても好きにしていい。そう言われたが、最初は義務感から見学していた。だが、だんだん部員たちが俺の取り扱いに困っているのがはっきり感じられるようになり、徐々に足が遠ざかった。かと言って家に帰れば親が顔面にべったりと『心配』を貼り付けた表情で向き合ってくるので息が詰まる。結局、図書室で時間を潰すようになった。
本を読んだり、授業の予習復習をしたり。時折、金属バットがボールを打つ音が響いてくる。部員たちの気合いを入れる掛け声や、楽しそうな笑い声も。最初は微笑ましい、心の落ち着くBGMとしてそれを聴いていたが、部活に出れなくなって二週間も経つと、その声を聞くのもなんだか嫌になってきた。
俺は、自分がいずれプロ野球選手になるのだと思っていた。
それ以外の未来を見たことはなかったし、そのためのレールは俺の目の前にまっすぐ伸びているのだと思っていた。俺はそこを、ただひたすら自分の足で進んでいけばいい。そう思っていた。
だから、肩に些細な違和感があっても、俺はそれを気にしなかった。線路の上に置かれた小さな石ころ。そんなものはすぐに車輪に弾き飛ばされると思っていた。だけど実際にはそれは違った。それは石ころなんかじゃなく大きな石で、それを弾き飛ばすどころか、俺の車輪はそれに巻き込まれて脱線してしまったのだ――。
医者は言った。とにかく休みなさい。いつ治るんですか、という俺の問いかけにも、ひたすら休みなさいと言うだけだった。なんだかとても怖くなって、それ以上聞けなくなってしまった。
ある日、誰かのこんな声が耳元で聞こえた気がした。
――あなたは、ここで終わり。
――終わり。
――ここで、終わり。
――あなたは、プロにはなれない。
聞こえないふりはできなかった。もしかすると、どうやら、それは事実なのかも知れなかった。
だけれど、それを簡単に受け入れることができなかった。レールが急になくなってしまったら、電車はどこに進めばいいんだ?
だけど、一日一時間一分一秒と経つごとに、俺はじわじわとそれを実感していく。家で一人で寝ころんで天井を睨んでも、携帯電話に野球部全員への一斉送信の連絡が届いても、テレビでプロ野球を見ていても、誰かがひそひそと囁いている。
――終わり。
――あなたは、終わり。
諦めたくなかった。その忌々しい声を振り払うために思い切りボールが投げたい。何度も何度も、キャッチャーミットが小気味良い音を立てるようなストレートを投げたい。俺はそれができる。それが大好きで、それが俺自身なのだから。だからそうしないとこの不安な気持ちは拭えない。
だけど、それをしたら、俺は本当に終わってしまう。
「くそっ」
放課後の図書室。思わず大きな声を出してしまった。周囲が怪訝な顔でこちらを見る。俺は立ち上がり荷物をまとめると、逃げ出すように図書室を後にした。他の場所を探すことにする。地元の図書館に篭っても良かったが、あいにく今日は休みだったはずだ。向かう先のない俺の足は、自然と教室へ向かった。
クラスメイトに友人はほとんどいなかった。俺の世界は野球部の中で閉じ切っていて、他の世界との接続端子をほとんど持ち合わせていないみたいだった。野球部がスリープ状態の今、俺の接続相手はこの学校のどこにもないのかもしれなかった。
それでも足が教室へ向いたのは、単純にもうこの時間には教室に誰も残っていないだろうと思ったからだ。
誰もいないところで、少し気を鎮めたい。
教室の引き戸を音を立てて開けた。中に入ると、意外にも人影があった。
「びっ……くりしたぁ」
一人の男子生徒が、小さな躰をすくめ驚いた顔でこちらを見ていた。
先客がいた。予想外の事態に俺は心の中で舌打ちをし、そのまま引き返そうとする。
「斎藤くん!」
そいつが俺に呼び掛けた。呼ばれては、さすがに無視もできない。
「なんだよ」
俺は答えながら、とろとろと脳をサーチしていた。
――こいつ、なんて名前だったか。
「
まるで俺の頭の中を読んだみたいに、そいつがさらりと言った。俺はたぶん、驚いた顔をしたと思う。
「僕の名前、わかんなかったんでしょ」
なぜか得意げに話す長谷部。
「んなわけねぇだろ、クラスメイトなんだし」
「別に遠慮しなくていいよ。たぶん、クラスの半分くらいは僕のことなんて覚えてないから」
なんでもないことのように言った。卑屈っぽい内容なのに、特にそう聞こえない。
「言ってて悲しくならないか」
「別に?」
あっけらかんとして、さっぱりと。俺は、ちょっと面白いな、と思った。人間の見知らぬ一面を知るのは楽しい。
「斎藤くんは、なんでこんな時間にここに?」
長谷部はそう聞いたが、俺はなんだか全てが見透かされている気がした。
『斎藤くん、部活行けなくてやることなくて、ここに来たんでしょ』。本当は、そう言っている気がする。
これでは、俺が卑屈になっているみたいだ。
「忘れ物、取りに来ただけだ」
「ふうん」
俺の回答に、さほど興味なさそうに言う。
「で、お前は何してたんだよ。こんな遅くに、教室に一人で」
「マジックの練習」
「え?」
「僕、奇術部なんだ」
奇術部? そんな部活、この学校にあっただろうか。
「部員は、僕一人」
「ああ、そう」
俺は何か腑に落ちる気がした。一人きりの奇術部員――それは、長谷部にうってつけな気がしたのだ。いや、こいつのことなんてロクに知っちゃいないんだが。
俺は適当に窓際の椅子に腰かけながら長谷部に言った。
「せっかくだし、なんかやってみせてくれよ」
自分が、少し浮ついた気分になっているのを感じていた。奇妙な高揚感。ハイな感じだ。怪我をしてから、こんな気持ちになるのは久々だった。
「
長谷部はもったいぶるように言った。
「僕のマジックは高いんだ」
と、勝気に笑う。
――仕方ねぇな。
俺はなぜか面白くなって、カバンから財布を取り出した。ごそごそと小銭のところをまさぐって――百円玉を机に置いた。
「これだけ?」
不服そうな長谷部に、
「十分だろ」
そう言う。ふと外を見ると、いつの間にか真っ暗になっている。
「お手並み拝見」
俺はそう言ってどうぞと手を差し出した。長谷部は子供のわがままに呆れる親のような顔をする。
「じゃあ、とっておきを見せてあげる」
そう言い、彼はまったく準備などをする素振りもなく、そのまま腕を前に突き出した。
「はっ!」
そう言った彼の手の中で、鮮やかなピンク色の花がパッと咲いた。
俺はあっけにとられた。
「それだけ?」
「何もない手の中から突然花が現れることを、『それだけ』で片付けないでほしいね」
長谷部はむしろ嬉しそうに言う。
「確かに。悪い悪い」
俺はぱちぱちと拍手をした。しかし、これに百円か。
「でも――これには、タネも仕掛けもあるんだ」
咲いた花をしゅっと手を振り仕舞って、長谷場が話し出す。
「タネも仕掛けもあるマジックを、人は手品と呼ぶ」長谷部の周りを取り囲む空気が、ひゅっと急激に冷えたのがわかる。俺は強い違和感を覚える。
今、何が起きた?
いや、何も起きていない。
俺の周りには何も変わったところはない。
だけど、何かが変わった。
そう、それはまるで手品みたいに。
長谷場は続けた。「本当のマジックには、タネも仕掛けもない――それを、何て呼ぶ?」
長谷部がこちらを見る。
俺はすっかり長谷部から目が離せなくなっている。
タネも仕掛けもないマジック。それはつまり、
「『魔法』」
俺が口を開くと同時に、長谷部も言った。
「そう、魔法だ」
長谷部が手を開くと、トランプカードが現れる。長谷部はそのカードのの中身を俺に見せる。すべてバラバラの、よくあるトランプだ。長谷部は滑らかな手の動きでそのトランプをシャッフルする。俺の前にやってくる。机の上にカードを並べると、それはすべてハートのエースになっていた。
「本物の奇術師――マジシャンはね、人生で一回だけ本当のマジックを使うことができる」
長谷部はカードを裏返す、もう一度裏返す。今度はすべてがジョーカー。
「本当の、マジック……」
俺は呟く。普段の俺だったら、なんてバカみたいな話だと思っただろう。
だけどその時の俺がそう思えなかったのは、長谷部を取り囲む異様に冷え切った温度の空気、長谷部の冷たい笑顔、何よりも、それに反して熱を帯び始めた俺の肩のうずきのせいかもしれなかった。
「肩、痛いんでしょ」
長谷部が言う。無言で頷き返す。
「斎藤くんは、ちゃんと僕のマジックに対価を払った」
長谷部は言い、机の上の百円玉を手に取った。透かしでもあるかのように蛍光灯にそれをかざす。何か向こう側を見ようとしているのかもしれない。
「百円は大金だ。うまい棒が十本も買える」
そう言って、長谷部はその百円玉を指の上に乗せ、高く高くトスをした。くるくると回る百円玉が、頂点でまるで一度時間が停止したみたいに止まって――そのまま長谷部の手の中に落ちていった。
「百円玉は、数字が書いてあるほうが裏なんだ、知ってた?」
長谷部は嬉しそうだ。そのまま、俺の目の前に手のひらを差し出した。
「だから、こっちが表」
その手の中で、小さな丸が桜を咲かせていた。
彼は言った。
「おめでとう、きみに魔法をかけてあげる」
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