燃ゆる衣 / お市の視点

わらわの名はおおいち織田信長おだのぶながの妹、かつては浅井長政あざいながまさの妻。今は、柴田修理亮勝家しばたしゅりのすけかついえの妻じゃ。


天正てんしょう十一年、卯月うづき北ノ庄きたのしょうの城は、羽柴筑前守秀吉はしばちくぜんのかみひでよしが率いる大軍に囲まれ、もはや落城は時間の問題。天守から見下ろす景色は、敵兵の篝火かがりびで皮肉なほどに美しい。 わらわたちの終焉しゅうえんを告げるとむらいの光となるだろう。


いちよ、頼む。姫たちを連れて、城を落ちてはくれぬか」


背後から聞こえたのは、夫、修理亮殿しゅりのすけどののしわがれた声であった。振り向けば、鬼柴田おにしばたと恐れられた猛将の面影はなく、ただ一人の男の、疲れ切った顔があるばかり。


「わらわは、修理亮殿しゅりのすけどのと共におります」


静かに、しかし、きっぱりと告げた。修理亮殿しゅりのすけどのは、わらわの前に膝をつき、すがるような目でこちらを見上げる。


「ならぬ! そなたは織田家おだけの姫君。わしのような男に付き合わせる命ではない。それに、茶々ちゃちゃはつごう、あの三人の子らをどうする。 母親であるそなたが、あの子らを見捨ててどうするのだ」


その言葉が、わらわの胸の奥深く、とうにただれて固まったはずの古傷をえぐった。 母親、そう、わらわは母親だ。なればこそ、あの子たちを生かさねばならぬ。だが、わらわ自身が生きることは、もうできぬ。


修理亮殿しゅりのすけどの。かつて浅井あざい小谷城おだにじょうが落ちた折、わらわは兄の命で城を出ました。あの時のこと、今でも悔やまれてなりませぬ。武家の妻として、夫と最期を共にできなかったこと、長政様ながまささまに申し訳が立たぬ。あの屈辱と後悔を、この十年、一日たりとも忘れたことはございませぬ。どうして今度も、同じ恥を繰り返すことができましょうや」


一度逃げた。兄、信長のぶながという絶対の力が、わらわを戦場から引きずり出した。生きよ、と。それがどれほどの苦しみであったか、誰にもわかるまい。夫や、夫に殉じた者たちを置き去りにして、敵であった織田おだの陣へと戻る道すがら、わらわの心は死んでいた。ただ息をしているだけの抜け殻であった。


修理亮殿しゅりのすけどのは、わらわの目を見つめ、やがて諦めたように深く息を吐いた。わらわの覚悟が、もう誰にもくつがえせぬものであると悟ってくださったのだろう。


「……わかった。そなたの覚悟、違えることはすまい。だが、姫たちだけは。姫たちだけは、城の外へ」


「はい。姫たちの助命をおうと存じます」


わらわは頷き、筆とすずりを用意させた。 娘たちを託す相手は、この城を囲む羽柴秀吉はしばひでよししかいない。あのさるめが、と侮る心はとうにない。兄上あにうえがあれほどまでに目をかけた男だ。その才覚、器量、そして人の心の機微きびを読む力に疑いはない。兄上あにうえが亡き今、あの男ならば、織田おだの血を引く姫たちを無下むげには扱うまい。むしろ手厚く遇することで、自らの度量の広さを世に示すはずだ。


『この子たちが、筑前守様ちくぜんのかみさま御差配ごさはいの妨げとなることは決してございませぬ。三人の姫たちのこと、よろしくお取り計らいくださいますよう、伏してお願い申し上げます』


震えることなく、ただ一心に筆を走らせた。


輿こしが一台、用意された。 茶々ちゃちゃはつごう。わらわの三つの宝。


「母上、どこへ参られるのですか。我らも母上とおりまする」


一番上の茶々ちゃちゃは、十五歳とは思えぬほど気丈に振る舞いながらも、その瞳は不安に揺れていた。わらわの気性を最も強く受け継いだこの娘は、きっと全てを察している。


茶々ちゃちゃ。そなたは姉として、はつごうを頼みますよ。よいですね」


その肩を抱き寄せ、強く、強く言い聞かせた。


「いやです、母上! 母上と離れるなど……!」


次女のはつは、わらわの着物の袖に泣きすがった。この娘は、三姉妹の中で最も心が優しい。その優しさが、これからの乱世を生きるには重荷にならねばよいが。


はつ。泣いてはいけません。織田おだの血を引く娘が、人前で涙を見せるものではありません。顔を上げなさい」


末のごうはまだ十一歳。何が起きているのか、まだ半分もわかっていないのかもしれない。ただ、姉たちの様子と城のただならぬ気配に、おびえた小鳥のように震えている。この子の小さな手を握りしめると、胸が張り裂けそうになった。


「母の言うことをよくお聞きなさい。これから皆で輿こしに乗り、城を出るのです。決して後ろを振り返ってはなりませぬ。まっすぐ前を見て進みなさい。よいですね」


三人を輿こしに乗せ、御簾みすが下ろされる。もう、あの子たちの顔を見ることはない。

わらわは、三の間まで見送った。大勢の侍女たちが付き従い、輿こしが城門へと向かっていく。


母としての役目は、今、果たした。


残るは、柴田勝家しばたかついえの妻として、そして織田信長おだのぶながの妹としての、最後の役目のみ。


敵陣が、さっと道を開けたという。秀吉ひでよし差配さはいであろう。 あの男らしいやり方だ。


天守に戻ると、修理亮殿しゅりのすけどのが静かにわらわを待っていた。傍らには、数人の侍女たちが控えている。


「おまえたちまで残ることはない。姫たちと共に行きなさい」


わらわがそう言うと、侍女頭じじょがしらが静かに首を横に振った。


奥方様おくがたさまがこの城に留まられるとおおせになるのなら、我らもお供つかまつります。 それが、我らの務めにございますれば」


武家の女は、あるじと共に生き、あるじと共に死ぬ。この者たちの覚悟もまた、わらわの覚悟と同じであった。


修理亮殿しゅりのすけどのと二人、杯を交わした。短い間であったが、夫として、父として、この方は誠心誠意、わらわと娘たちに尽くしてくれた。浅井家あざいけで失った心の空白を、この無骨な男の優しさが、どれほど埋めてくれたことか。


いちよ。わしはおぬしのような妻をめとることができ、生涯の果報者かほうものであった」


「わらわも、修理亮殿しゅりのすけどのの妻であれたこと、誇りに思います」


城に火が放たれた。ごう、と音を立てて燃え上がる炎が、瞬く間に何もかもを飲み込んでいく。熱風が頬を撫ぜ、死の匂いが満ちてくる。不思議と、恐ろしくはなかった。


そうだ、これでよいのだ。


小谷城おだにじょうで死に損なったわらわの魂は、この十年間、ずっと彷徨い《さまよい》続けていた。 織田おだの姫として、浅井あざいの妻として、果たせなかった役目。その面目を、今こそ取り戻すのだ。


炎が天井を舐め、黒い煙が視界を奪う。


修理亮殿しゅりのすけどのが、わらわの手を強く握った。その手の温もりが、わらわの最後の記憶となった。


娘たちよ、強く生きよ。母の分まで。

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主観で読む戦国 海林 @Kairin-Ninja

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