桶狭間の奇跡 / 足軽の視点

 おう、俺は作兵衛さくべえってんだ。尾張おわりの片田舎でくわを握ってたはずが、今じゃ槍をかついで織田家おだけの飯を食ってる。しがない足軽あしがるよ。


 これから語るのは、俺たちみてえな雑兵ぞうひょうが、どうやってあの「海道一かいどういち弓取ゆみとり」今川義元いまがわよしもとの大軍を蹴散けちらしたかって話だ。後のお偉いさんがどう書くかは知らねえ。だがこいつは、俺があの戦場で見たまま、感じたままの話だぜ。


 永禄えいろく三年五月十九日。その日の朝のことは、たぶん一生忘れねえだろう。なんせ、武勇で名をとどろかす今川の軍勢が、この尾張を丸ごと飲み込もうと押し寄せてるってんで、駆り出されたんだからな。


 夜も明けきらぬ清洲きよす城。てっきり出陣のときの声でも響くかと身構えてりゃ、聞こえてきたのは場違いなうたいの一節だった。


「人間五十年、下天げてんの内をくらぶれば、夢幻ゆめまぼろしごとくなり」


 うちの大将、織田 上総介かずさのすけ様が、この土壇場で敦盛あつもりをひとさし舞ったってんだ。呆れて物も言えねえとは、このことだ。


「冗談じゃねえや」

 隣にいた与次郎よじろう悪態あくたいをついた。


「今川は二万もの大軍だろ。こっちはかき集めても二千かそこいら。舞なんか舞ってる場合かよ」


 まったくだ。城の外じゃ、今川の先鋒せんぽうがとっくに国境を越え、丸根まるねだの鷲津わしづだの俺たちのとりでが激しく攻められてるって話だ。だというのに、大将は優雅に敦盛あつもりなんぞ舞ってやがる。俺たちなんざ、とっくに死んだも同然よ。どうせ犬死にするなら、せめて腹一杯飯を食いたかったもんだぜ。


 具足ぐそくを鳴らし、やっと出てきたかと思えば、信長様は手勢てぜいわずか五騎で城を飛び出していった。「あとから続け!」だとよ。無茶な下知げちに、俺たちは顔を見合わせながらも走り出すしかねえ。向かうは熱田あつたの宮だ。


「おい作兵衛さくべえ、勝てると思うか?」


「そうなりゃいいがな。生き残れるだけでも御の字ってところだろうぜ」


 熱田あつたに着いたと思ったら、信長様は長々と戦勝祈願だ。その背中を見ながら、俺は「神に祈る暇があったら、策の一つでも考えろってんだ」と冷めた目で見ていた。あの人は、いつだってそうだ。何を考えているのか、俺たちみてえなしたにはさっぱりわからん。うつけだ、たわけだと言われるのも無理はねえ。


 やがて俺たちは、丹下たんげとりでに入った。そこから善照寺ぜんしょうじとりでへと進む。目の前には、今川の大軍がどっしりと陣を構えてやがる。赤や青の旗指物はたさしものが、まるで花の咲いた野原みてえに広がっていた。見ているだけで、小便をちびりそうになる。


 昼に近づくにつれて、陽射しはどんどん強くなった。梅雨つゆの晴れ間とやらで、とにかく蒸し暑い。鎧兜よろいかぶとの中は汗でぐっしょりだ。おまけに、丸根まるね鷲津わしづとりでが落ちたという報せが届いた。とりでから上がる黒煙が、それを嫌でも俺たちに教えてくれた。


「ああ、もう駄目だ……」


 誰かが力なくつぶやく。とりでの中の空気は、なまりみてえに重かった。皆、死を覚悟した顔をしている。だというのに、信長様だけは涼しい顔で、物見の上からあちこちを眺めてやがる。あの人の目には、俺たちとは違う何かが見えているのか。それとも、本当にただのうつけなのか。


 その時だった。さっきまでのカンカン照りが嘘みてえに、空がみるみるうちに暗くなったのは。南の空から、腹の黒い龍みてえな雲が、とんでもねえ速さでこっちに流れてくる。生ぬるい風がぴたりと止み、代わりに肌を刺すような冷たい風が吹き始めた。


「なんだぁ、この天気は……」


 ポツ、ポツ、と大粒の雨が地面を叩き始めたかと思うと、次の瞬間には、滝のような土砂降どしゃぶりになった。俺たちは慌ててとりでの粗末な屋根の下に駆け込む。


「ひでえ雨だな。これじゃ火縄ひなわも使えやしねえ」


 与次郎よじろうが空を見上げて言う。だが、これはただの雨じゃなかった。


 バチチッ!バチッ!


 屋根を叩く音が変わった。雨粒に、小石みてえな氷の粒が混じり始めたんだ。


ひょうだ!」


 誰かが叫んだ。空から降ってくるのは、雨じゃない。氷の塊だ。あっという間にあたりは真っ白になり、まるで冬に逆戻りしたみてえだった。さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、急に体の芯から冷えてくる。俺は思わず腕をさすった。


「おい、見ろよ」


 とりでの隙間から外を覗くと、桶狭間山おけはざまやまに陣取っていた今川の連中が大騒ぎしているのが見えた。そりゃそうだろう。あいつらはだだっ広い丘の上だ。屋根なんざありゃしねえ。あの氷の粒を、まともに頭から浴びてやがるんだ。


 鷲津わしづ丸根まるねを首尾よく落とせたから祝杯でもあげてたんじゃねえか。暑いから鎧も脱いでくつろいでいたのかもな。だとしたら、目も当てられねえ。この氷雨ひさめ裸同然はだかどうぜんで打たれたらどうなるか。考えただけで、ぶるりと震えがきた。


 どれくらい時間が経っただろうか。あれほど激しく屋根を叩いていた氷の粒が、次第にただの雨になり、やがてそれも嘘みてえに上がった。黒い雲が切れ、向こうの空が明るくなってくる。


 その、ほんの一瞬の静寂を破ったのは、信長様の甲高かんだかい声だった。


ものども、出陣しゅつじんじゃ!好機は今ぞ!」


 は?俺たちは耳を疑った。このぬかるみの中を、今から攻めろってのか?正気か、この人は。


 だが、信長様の目は血走ちばしっていた。それは狂気と、そして確信に満ちた光を宿していた。「かかれ!かかれ!」と馬上ばじょう下知げちする姿には、有無を言わさぬ気迫きはくがあった。


 理屈じゃねえ。俺たちは、何かにかれたみてえにとりでを飛び出した。


 地面はぐちゃぐちゃで、足を取られる。冷たい風が、濡れた着物を通して体温を奪っていく。だが、不思議と体は動いた。とりでの中で休んでいたおかげだ。


 桶狭間おけはざまの坂を駆け上ると、目の前に今川の本陣ほんじんがあった。


 ひどいさまだった。旗は倒れ、武具ぶぐはそこらに散らばり、兵士たちは右往左往うおうさおうしているだけ。俺たちの姿に気づいて、慌てて鉄砲を構える奴がいたが、火縄ひなわの火なんざとっくに消えちまってる。慌てて火をおこそうにも、肝心の火口ほくち湿気しけってどうにもならねえ。


「くそっ、火縄ひなわが使えん!」

 そんな悲鳴があちこちから聞こえる。


 それだけじゃねえ。敵兵てきへいの動きが、明らかにおかしかった。槍を構える手が小刻みに震え、足元がおぼつかない。顔は土気色つちけいろで、唇は紫色だ。まるで亡霊ぼうれいの群れだった。


 その時、俺ははっきりと理解した。


 こいつら、あの氷雨ひさめで体の芯まで冷えきってやがるんだ。寒さで体が動かねえんだ!


 大将の狙いはこれだったのか!あの嵐が来るのを、まるで知っていたかのようにとりでで待ち構え、この一瞬を狙っていたのか!


 ぞっとした。背筋に、恐怖とも感嘆ともつかない震えが走った。俺たちの大将は、うつけなんかじゃねえ。人の考えが及ばねえ、何かとてつもないもんじゃないのか。


 あとは、いくさというより狩りだった。まともに抵抗もできねえ連中を、俺たちは面白いように討ち取っていく。与次郎よじろうが「見たか、作兵衛さくべえ!やったぞ!」と叫びながら、敵兵てきへいの首をいている。俺も無我夢中むがむちゅうで槍を振るった。


 やがて、「義元よしもとの首、討ち取ったりー!」という声が戦場に響き渡った。


 一瞬、あたりがしんとなった。あの今川義元いまがわよしもとが?海道一かいどういち弓取ゆみとりが、死んだ?嘘だろ?


 だが、毛利新介もうりしんすけとかいう侍が高々と掲げた首を見て、それが真実だとわかった。


「うおおおおおおっ!」


 誰かが叫んだのをきっかけに、俺たちは天にものぼるようなときの声をあげた。信じられなかった。二千の兵で、二万を破った。奇跡だ。


 戦いが終わった桶狭間おけはざまには、さっきまでの嵐が嘘みてえな青空が広がっていた。


 俺は泥だらけのまま、その空をぼんやりと見上げた。


 運が良かっただけだ。たまたま、すげえ嵐が来ただけだ。そう思う。だが、その天の気まぐれを、寸分すんぶんくるいもなく好機に変えた男がいる。


 俺たちの大将、織田信長。


 あの人は、もしかしたら天をも味方につける何かを持っているのかもしれねえ。


 これから、この尾張おわりはどうなるんだろう。俺たちは、あの人にどこまで連れていかれるんだろう。


 答えはわからん。だが、死ぬはずだった今日を生き延びた俺の胸には、奇妙な高揚感こうようかん渦巻うずまいていた。うつけの殿様についていけば、あるいはとんでもねえもんが見られるかもしれねえ。そんな気が、確かにしたんだ。

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