変より三日後の使者 / 細川忠興の視点

 天正てんしょう十年六月三日、夜も明けきらぬ宮津みやづの陣屋は、にわかに活気づいていた。備中びっちゅうへ、羽柴筑前守はしばちくぜんのかみ殿の援軍として馳せ参じるのだ。父・藤孝ふじたかとともに、俺、細川忠興ほそかわただおきもその一翼を担う。聞けば、上様うえさま織田信長おだのぶなが公)ご自身も、毛利もうりとの決戦に臨むべくご出馬なさるとのこと。この胸の高鳴りを抑えることなど、到底できそうになかった。


「先陣はすでに犬堂いぬんどうに着いたか」


「はっ。滞りなく」


 具足ぐそくの紐を締めながら、傍らの者に問いかける。全ては順調に進んでいる。この戦で手柄を立て、上様のお役に立つ。そして、しゅうとである明智日向守あけちひゅうがのかみ殿(光秀みつひで)の顔も立てるのだ。俺の妻、たまは日向守殿がことのほか大切にしている娘だ。俺の武功ぶこうは、すなわち舅殿の名誉にも繋がろう。そんなことを考えていると、思わず頬が吊り上がった。


 その時だった。広間の方がにわかに騒がしくなった。どたどたと走り寄る足音。尋常ではない。俺が眉をひそめて立ち上がると、血相を変えた家臣が駆け込んできた。


「申し上げます! 愛宕山あたごやま幸朝僧正こうちょうそうじょう様より、急ぎの使いが!」


 広間に通された伝令の姿は、異様だった。息は切れ、その足は泥にまみれて板の間を汚している。礼儀作法も何もない。それほどの凶報きょうほうか。俺の背筋に、冷たいものが走った。


 父が、差し出された文箱ふばこから書状しょじょうを抜き取り、静かに目を通す。その表情が、みるみるうちに凍りついていくのを、俺は息を詰めて見つめていた。父は決して感情を表に出す御方ではない。その父が、これほどまでに。


「……何と」


 絞り出すような父の声。やがて、書状から顔を上げた父が、震える声で告げた。


「昨二日、上様ご父子……信忠のぶただ様も、本能寺ほんのうじ二条御所にじょうごしょにて、ご自害なされた、と」


 時が、止まった。


 何を言っているのだ、この父は。上様が? あの、天下を手中に収めている上様が、自害? そんな馬鹿なことがあるものか。


「……誰の仕業にございますか」


 俺の声は、自分でも驚くほど乾いていた。父は一度、ぐっと唇を噛みしめ、そして言った。


「日向守殿の軍勢に、襲われたと……」


 日向守殿。舅殿が?


 頭を殴られたような衝撃だった。あり得ぬ。断じてあり得ぬ。何かの間違いだ。あれほど上様に忠節を尽くしてきた舅殿が、なぜ。


 俺が呆然ぼうぜんと立ち尽くす中、父は即座に決断を下した。


「出陣は取り止めだ! 先陣を宮津へ呼び戻せ!」


 矢継ぎ早に指示が飛ぶ。城内は一転して混乱の渦に叩き込まれた。だが、俺の頭の中は、静かだった。いや、何も考えられなかったのだ。


 間もなくだった。新たな来訪者を告げる声が響いた。


「明智様からの御使者、沼田権之助ぬまたごんのすけ殿がご到着にございます!」


 今、この時にか。俺と父は、顔を見合わせた。広間に通された権之助は、俺たちの顔を見るなり、意気揚々と口上を述べ始めた。その言葉が、俺の最後の希望を打ち砕いた。


「信長公ご父子には、腹を切っていただきました。これも天下万民のため。つきましては、与一郎よいちろう様(忠興)には急ぎご上洛じょうらくいただき、我らにお力添えをいただきたい。ちょうど摂津せっつの国が空いております故、与一郎様に差し上げまする」


 摂津だと? ふざけるな。俺は、この男が何を言っているのか、にわかには理解ができなかった。上様に「腹を切っていただいた」だと? その功に、国一つで報いると? 怒りを通り越し、もはや笑いさえ込み上げてくる。


 その時、沈黙を守っていた父が、静かに口を開いた。その声は、いだ水面のように落ち着いていた。


「権之助殿、お言葉、痛み入る。されど、この藤孝、上様より身に余る大恩を賜りました。この御恩に報いるには、もはや世を捨てるより他に道はござらぬ。わしは、これより出家しゅっけいたす」


 父の言葉に、権之助の顔がわずかに引きつった。だが、父は構わず俺に視線を向けた。


「与一郎。そなたは日向守殿の婿。舅と手を携えるか、あるいは……。判断は、そなたに任せる」


 試されているのだ。父に。そして、天に。


 俺の心は、とうに決まっていた。迷いなど、あろうはずがなかった。上様から受けた恩義。父が口にした、その一言が全てだ。俺が初めてお目通りした時の、あの力強い眼差し。茶の湯に招かれ、直々に名物の茶入れを賜った日のこと。一つ一つの記憶が、脳裏に焼き付いて離れない。


 舅殿からは、何の相談もなかった。俺は、玉の夫だぞ。一言あってしかるべきではないのか。それが、俺への信頼の証ではないのか。全てが終わった後で、国一つで釣ろうなどと。俺を、細川を、見くびるな。


 俺は一言も発することなく、腰の脇差わきざしを抜いた。そして、己のもとどりに刃を当て、一息に切り落とした。ばさりと、黒い髪の束が板の間に落ちる。


「……!」


 権之助が息を呑むのが分かった。父は、ただ静かに見つめている。これが俺の答えだ。父上、俺もあなたと同じ心にございます。上様への恩義に、この身を捧げる覚悟でいる、と。


 怒りは、まだ収まらない。ふつふつと腹の底から湧き上がってくる。


「この無礼者を斬り捨ててくれるわ!」


 俺が権之助に斬りかかろうとした、その刹那せつな


「ならぬ!」


 父の鋭い声が、俺の腕を止めた。


「与一郎、早まるな。使者を斬ってどうなる。生かして帰し、我らの決意を日向守殿に伝えさせよ」


 俺は、はっと我に返り、刀をさやに収めた。父の言う通りだ。この場でこいつを斬るのは、ただの八つ当たりに過ぎない。重要なのは、俺たち細川家が、断固として明智光秀にくみしないという事実を、天下に示すことだ。


 権之助は、恐怖と安堵が入り混じったような顔で、青ざめたまま俺たちを見ていた。


「……お返事は、聞き届けた。これにて御免」


 権之助は、這うようにして広間を去っていった。


 嵐が過ぎ去った後のように、静寂が満ちる。俺は、畳に落ちた己の髪を見つめていた。これで、後戻りはできぬ。舅殿、明智日向守光秀を、敵に回したのだ。妻、玉はどうなるだろう。父が謀反人むほんにんとなり、夫がそれに刃向かう。その苦しみを思うと、はらわたが煮えくり返るようだ。舅殿は、己が娘の心を少しでも考えたことがあったのか。


 …だが、今は感傷に浸っている場合ではない。私情に溺れれば、家を滅ぼす。俺は奥歯を強く噛みしめ、無理やり思考を切り替えた。


 舅殿の状況を考えろ。羽柴筑前守は備中で毛利と、柴田修理亮しばたしゅりのすけ様は越中えっちゅう上杉うえすぎと、それぞれ大軍を率いて身動きが取れぬ。きょうの都にあって、即座にこれほどの軍勢を意のままに動かせるのは、舅殿、ただ一人。そこに上様がわずかな手勢で滞在するとはまさに千載一遇せんざいいちぐうの機会。その一瞬を狙いすまして突いたのだ。あの老獪ろうかいな舅殿らしい、といえばらしい。


 だが、だからこそに落ちぬ。もしこれが、天下を覆すための周到しゅうとうに練られた計画であったというなら、俺たちに一言もなかったのはなぜだ? 俺は舅殿の婿。父上は、足利将軍家あしかがしょうぐんけに仕えていた頃からの、古くからの盟友めいゆうだ。最も頼りとすべき我らを、事が成った後で、摂津一国で釣ろうなどと、浅はかにもほどがある。


 …いや、違う。そうか、浅はかなのだ。これは、練りに練った大計たいけいなどではない。


 上様の油断で目の前に突如現れた天下という果実に、思わず手を伸ばしてしまっただけの、突発的な野心の発露はつろにすぎぬ。だからこそ、誰にも相談できなかった。事前に事が漏れることを恐れ、己の欲望のままに突き進んだのだ。剥き出しの下剋上げこくじょう。ただそれだけのことよ。


 そう思うと、先程までの混乱が嘘のように、腹の底がすっと冷えていくのを感じた。舅殿が天下を差配さはいする器でないことは、もはや明らかだ。その程度の男に、この細川の行く末を委ねるわけにはいかぬ。


 俺は、己の髪の束を、静かに拾い上げた。傍らの父に目をやる。その顔は、まるで俗世への執着を全て捨て去ったかのように静謐せいひつだ。宣言通り出家し、墨染すみぞめの衣をまとい、仏門ぶつもんに入るのだろう。


 だが、これは出家を口実に明智の誘いを退けた一手にすぎないことはもう俺にはわかっている。ならば、俺のなすべきことも一つ。父上が静かに盤面を読み、策を巡らす。俺はその盤上で最強の駒となる。上様の恩義に報い、この乱世の荒波から我が細川家を守り抜くため、父の采配さいはいひとつでいつでも動けるよう、牙を研ごうぞ。


 東の空が、わずかに白んでいる。これから始まる長い、長い一日の幕開けが告げられていた。

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