変より三日後の使者 / 細川忠興の視点
「先陣はすでに
「はっ。滞りなく」
その時だった。広間の方がにわかに騒がしくなった。どたどたと走り寄る足音。尋常ではない。俺が眉をひそめて立ち上がると、血相を変えた家臣が駆け込んできた。
「申し上げます!
広間に通された伝令の姿は、異様だった。息は切れ、その足は泥にまみれて板の間を汚している。礼儀作法も何もない。それほどの
父が、差し出された
「……何と」
絞り出すような父の声。やがて、書状から顔を上げた父が、震える声で告げた。
「昨二日、上様ご父子……
時が、止まった。
何を言っているのだ、この父は。上様が? あの、天下を手中に収めている上様が、自害? そんな馬鹿なことがあるものか。
「……誰の仕業にございますか」
俺の声は、自分でも驚くほど乾いていた。父は一度、ぐっと唇を噛みしめ、そして言った。
「日向守殿の軍勢に、襲われたと……」
日向守殿。舅殿が?
頭を殴られたような衝撃だった。あり得ぬ。断じてあり得ぬ。何かの間違いだ。あれほど上様に忠節を尽くしてきた舅殿が、なぜ。
俺が
「出陣は取り止めだ! 先陣を宮津へ呼び戻せ!」
矢継ぎ早に指示が飛ぶ。城内は一転して混乱の渦に叩き込まれた。だが、俺の頭の中は、静かだった。いや、何も考えられなかったのだ。
間もなくだった。新たな来訪者を告げる声が響いた。
「明智様からの御使者、
今、この時にか。俺と父は、顔を見合わせた。広間に通された権之助は、俺たちの顔を見るなり、意気揚々と口上を述べ始めた。その言葉が、俺の最後の希望を打ち砕いた。
「信長公ご父子には、腹を切っていただきました。これも天下万民のため。つきましては、
摂津だと? ふざけるな。俺は、この男が何を言っているのか、にわかには理解ができなかった。上様に「腹を切っていただいた」だと? その功に、国一つで報いると? 怒りを通り越し、もはや笑いさえ込み上げてくる。
その時、沈黙を守っていた父が、静かに口を開いた。その声は、
「権之助殿、お言葉、痛み入る。されど、この藤孝、上様より身に余る大恩を賜りました。この御恩に報いるには、もはや世を捨てるより他に道はござらぬ。
父の言葉に、権之助の顔がわずかに引きつった。だが、父は構わず俺に視線を向けた。
「与一郎。そなたは日向守殿の婿。舅と手を携えるか、あるいは……。判断は、そなたに任せる」
試されているのだ。父に。そして、天に。
俺の心は、とうに決まっていた。迷いなど、あろうはずがなかった。上様から受けた恩義。父が口にした、その一言が全てだ。俺が初めてお目通りした時の、あの力強い眼差し。茶の湯に招かれ、直々に名物の茶入れを賜った日のこと。一つ一つの記憶が、脳裏に焼き付いて離れない。
舅殿からは、何の相談もなかった。俺は、玉の夫だぞ。一言あってしかるべきではないのか。それが、俺への信頼の証ではないのか。全てが終わった後で、国一つで釣ろうなどと。俺を、細川を、見くびるな。
俺は一言も発することなく、腰の
「……!」
権之助が息を呑むのが分かった。父は、ただ静かに見つめている。これが俺の答えだ。父上、俺もあなたと同じ心にございます。上様への恩義に、この身を捧げる覚悟でいる、と。
怒りは、まだ収まらない。ふつふつと腹の底から湧き上がってくる。
「この無礼者を斬り捨ててくれるわ!」
俺が権之助に斬りかかろうとした、その
「ならぬ!」
父の鋭い声が、俺の腕を止めた。
「与一郎、早まるな。使者を斬ってどうなる。生かして帰し、我らの決意を日向守殿に伝えさせよ」
俺は、はっと我に返り、刀を
権之助は、恐怖と安堵が入り混じったような顔で、青ざめたまま俺たちを見ていた。
「……お返事は、聞き届けた。これにて御免」
権之助は、這うようにして広間を去っていった。
嵐が過ぎ去った後のように、静寂が満ちる。俺は、畳に落ちた己の髪を見つめていた。これで、後戻りはできぬ。舅殿、明智日向守光秀を、敵に回したのだ。妻、玉はどうなるだろう。父が
…だが、今は感傷に浸っている場合ではない。私情に溺れれば、家を滅ぼす。俺は奥歯を強く噛みしめ、無理やり思考を切り替えた。
舅殿の状況を考えろ。羽柴筑前守は備中で毛利と、
だが、だからこそ
…いや、違う。そうか、浅はかなのだ。これは、練りに練った
上様の油断で目の前に突如現れた天下という果実に、思わず手を伸ばしてしまっただけの、突発的な野心の
そう思うと、先程までの混乱が嘘のように、腹の底がすっと冷えていくのを感じた。舅殿が天下を
俺は、己の髪の束を、静かに拾い上げた。傍らの父に目をやる。その顔は、まるで俗世への執着を全て捨て去ったかのように
だが、これは出家を口実に明智の誘いを退けた一手にすぎないことはもう俺にはわかっている。ならば、俺のなすべきことも一つ。父上が静かに盤面を読み、策を巡らす。俺はその盤上で最強の駒となる。上様の恩義に報い、この乱世の荒波から我が細川家を守り抜くため、父の
東の空が、わずかに白んでいる。これから始まる長い、長い一日の幕開けが告げられていた。
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